輝く女性の話

「サエコさん、お菓子ごちそうさまでした」

 声のした方に目をやると、派遣社員の女性が控え目な笑顔をこちらに向けていた。

 穏やかで真面目、そして仕事が早い印象の彼女は、今日も疲れた貌をしている。


 そう言えば彼女と顔を合わせるのは久々だったな。まだ小さなお子さんがいたんだっけ。

 そんなことを考えた時、じく、と身体の中心に鈍い痛みが走った。

 

 ――もしもこのとき彼女と一緒にならなければ、あんな話を聞かされずに済んだのだろうか。

 それは今でも分からない。

 何にせよ、わたしが後悔していることだけは確かだった。




 スマホの時刻を確認すると、昼休み終了まで残り二十分。

 お手洗いを済ませメイクを直したらちょうどいい時間だ。

 わたしは加熱式煙草をケースに戻してバッグに突っ込むと、空いた食器が載ったトレーを返却口へ下げて、いつものカフェを後にした。


 『いつものカフェ』なんて言えば格好はいいが、単に勤務先の周辺で喫煙ブースがあるのがこのチェーンのカフェなだけ。

 珈琲と煙草がガソリンのわたしは、午前の業務で空穴からっけつになったガソリンが補充できれば、ランチの質なんて二の次だった。


 しかもこのカフェの入ったオフィスビルの五階が、わたしの務める会社だ。建物の外に出ることなく行き来ができる。ナイス立地。


 一階のエレベーターホールに行くと、午後の業務に向かう各オフィスに勤める人たちが、一基しかないエレベーターの前で群れを成していた。

 その最後尾に並んでいると背後から声をかけられ、振り向くと疲れた貌の派遣社員が立っていた。

 

 彼女はわたしが参加しているプロジェクトチームの一員だった。

 『輝くミライのわたし』と銘打ったどこの企業でもよくやっている女性促進プロジェクト。

 各部署の女性社員を集めて約一年前に発足した、女性が活躍できる会社づくり——その企画のための事務スタッフとして派遣で来てもらっていた。


 そんな彼女は先週から欠勤していて、その間に今度はわたしが休暇を取ることになってしまい、今日、数日振りに顔を合わせたのだ。


 確かお子さんが熱を出したとかじゃなかったか。

 わたしは出先が田舎でロクな物が買えなかったことを詫び、お子さんの体調は快復したのか尋ねると、「おかげさまで」と彼女は小さく微笑んだ。


 働きながら子供を育てる女性は大変だ。それは正規、非正規に関係ない。

 家では家事に育児をこなし、学校行事にも参加して、会社では仕事に追われる彼女たちは、いったいいつ休んでいるのだろうか。体だけじゃなく、心の休まる日はあるのだろうか。


 結婚して三年。それは未だ子供のいないわたしには、想像もつかない世界だった。


 確か彼女はわたしより二歳年下だったはず。

 なのにそんなに目の下に隈を作って、髪にも艶がない。実年齢よりも老けて見える。

 

「サエコさんも急なことで大変でしたね。お悔み申し上げます」

 その言葉に、わたしも小さく頷いた。


 先日、遠縁に不幸があって山間部の集落まで出向くハメになった。普段は没交渉とは言え縁戚だ。だからそれはいい。

 問題は告別式の後だった。


 いきなり町のまとめ役と呼ばれる老人が現れて、町の為来しきたりで急遽、祭祀を執り行うことになったとか言い出し、有無を言わさず強制参加させられたのだ。


 本家の連中も申し訳ないような困惑顔を並べつつも、帰っていいとは言わなかった。その為に分家も呼んだのだからとか、昔からの習わしだからとか。


 そんなの知らないっての。

 結局、予定より二日ふつかも余計に休んでしまった。忌引きじゃなくて有休で処理しないと。


 わたしは彼女に、遠くて嫌になってしまったとだけ、軽く愚痴を零した。

 彼女が「それはお疲れ様でしたね」と笑ったところで、「チン」と軽やかな音と共にエレベーターの扉が開いた。


 前に並んだ人たちが四角い箱に吸い込まれて行って、わたしたちを置いて扉が閉まる。

 しょうがない。『▲』ボタンを押してわたしたちは更に待つことになった。


「この時間帯と出勤時はエレベーター渋滞ですよね」

 本当ソレ。もう一基ぐらい増やしてほしいもんだわ。わたしはまた愚痴を零した。


 弟はわたしが愚痴っぽいとよく文句を言ってくる。例えばこうだ。

「旦那の愚痴をボクに言われても。十年もつき合って結婚したんだから、相手のことなんか分かりきってるでしょ」ときたもんだ。

 あの子は何にも分かっていない。

 あの分じゃ彼女にフラれる日も近いだろう。


 女同士で軽く愚痴を言い合うのはコミュニケーションのひとつだ。あくまで軽く。深い内容までは話さない。他人に家の内情をバラすワケないじゃない。

 他人には言えない不満は家族へ。そうやって心のバランスを保っているのよ。

 

 それに、家族にだって言えないこともある。

 十年のつき合いどころか、生まれて物心ついたときから一緒の姉弟きょうだいだって、知らないことはあるんだから。


「サエコさん、あの、少しだけいいですか?」

 派遣の子が思い詰めたような声音で言った。

 何だろう、深刻そうに眉根を寄せている。

 仕事のことだろうか。


 わたしはスマホを見る。午後の業務開始まで後十五分。本当はすぐにでもメイク直しをしに行きたいところだけれど、ここで断れるほどわたしは無神経じゃない。


 ちょうどエレベーターが到着したが、それには乗らず、わたしは彼女を連れて人目のない所を探しその場を離れた。


 普段、誰も使わない非常階段扉の前に移動したわたしたちは、狭い通路に向かい合うようにして立っている。

 壁際に彼女。少し俯いて両手で社内用のクリアバッグの取っ手を握りしめている。

 中身が透けて、わたしでも知っているうさぎのキャラクターのポーチが見えた。


 そんな彼女より身長のあるわたしは、自ずと彼女を見下ろす格好になる。

 嫌だわ。なんだか社員が派遣を虐めているように見えやしないか、不安になってくる。

 

 話とは恐らく更新についてだろう。

 彼女の派遣期間は、今月いっぱいで終了だ。

 契約期間満了。更新はしない。


 そもそも、プロジェクト要員として来てもらっていたのだ。そのプロジェクトも一年で終了となり、彼女の席は無くなった。


 ならば他の業務を与えればいいのにと思うけれど、会社の派遣枠は決まっている。

 彼女は契約更新を望んだが、会社は彼女を切ったのだ。


 だからと言ってわたしには、どうしてあげることも出来ないのだけれど。

 まぁ、せめて不満や愚痴を聞くくらいのことだったら。


「違うんです」

 彼女はそう言って上目遣いでわたしを見る。

 パサついた前髪の隙間から、妙に黒々とした瞳が覗いた。


「わたし、残った有休を消化するんで、実際の出勤は今日までなんです。最後にサエコさんに会えてよかった」

 なんだ、そうなの?勤怠なんかは総務や人事の管轄だから、知らなかった。


 すると、わたしが労いの言葉をかけるよりも早く、彼女が口を開いた。

「ずっとサエコさんにお伝えしなきゃって、思ってたんです」

 

 見ると彼女は焦点の定まらない黒い瞳で、ひた、とわたしを見据え、唇の端をひん曲げて言った。


「サエコさん、中絶したことありませんか。堕胎手術をすると赤ちゃんができにくくなるって聞きますよね。まあそう言う医学的な事って無学なわたしには分からないですけど。でも違うんですサエコさん。そうじゃなくてねサエコさん」


 そう早口で捲し立てたかと思うと彼女はぴたりと口を閉じ、ぎょろり。

 顔はわたしに向けたまま黒目だけを足下に落とした。


「水子の霊が視えます」

 両の眼と口を三日月の形にして、彼女が言った。


「ああ違いますよサエコさん。わたしはちょっと霊感があってちょっと視えるだけでその理由までは分かりません。サエコさんに身に覚えがないのならご主人の方かもしれませんね。若い頃にがあってご主人に憑いていた水子がサエコさんをママだと思って甘えているのかも」


 そこまで言うと彼女はふっと息をついた。

 その場の空気までふっと緩んだ感じがした。

 だがそれはわたしの勘違いだったようだ。


「ご供養されることをお勧めします。そうすれば今よりは赤ちゃんができやすくなるかと思いますよサエコさん。今よりもっと輝くミライに近づけますよ」


 すると彼女は、昏い眼のまま微笑むと、ことりと小首をかしげて、「お先に」身を翻して走り去ってしまった。


 私は独り、遠ざかるうさぎを、ただ茫然と見送っていた。


 じくり。

 わたしの身体の中心がまた痛む。


 なんなの?なんだったの今のは?

 霊感?はぁ?ふざけないでよ。

 弱々しい草食動物みたいな貌して、なに好き勝手言ってんのよ。


 あれじゃまるで、わたしが子供ができなくて悩んでいるような口振りじゃない。


 そもそも、なんであの子は、を知っているのよ。

 実の母親にだって明かしたことはないのに。


 学生時代、確かにわたしは子供を堕ろした。

 相手は当時のわたしと同じサークルに所属していた今の夫。

 就職活動で大変な時期だった。

 わたしの妊娠が発覚したのは。


 ふたりとも将来を見据えてまさにこれから、と言う大切な時だった。

 わたしたちは話し合い、中絶に踏み切った。


 それを契機きっかけに気まずくなったわたしたちは、どちらからともなく距離を取るようになった。

 そしてお互いが内定を貰って身辺が落ち着いてきた頃、ぽつぽつと連絡を取り合うようになり、なんとなくヨリを戻したのだ。


 だからこのことは、わたしと夫しか知らない事実だった。

 なのになのになのに――


 どろり。


 その時、下腹部から熱い液体が溢れ出し、わたしは慌てて近くにあった女子トイレに駆け込んだ。


 生理だった。

 今月も生理が来てしまった。


 ――くそ!くそ!くそ!

 イライラする。腹が立つ。

 何に対する苛立ちかは分からない。

 分からない分からない分からない。


 わたしは経血で汚れた下着をトイレットペーパーで何度も何度も拭いた。

 処理を済ませてトイレを出る。

 スマホを見ると、とっくに十三時を回っていた。


 ああ、なんだか無性に煙草が吸いたくて吸いたくて、堪らない。

 

 わたしは独り、エレベーターホールとは逆の方向へと、歩き出していた。





  了

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