その日の空は、雲一つない青空だった。暖かい日差しに照らされて、男は珍しく朗らかな心持ちで家を出た。雨は明るい気持ちも暗い気持ちも増長させると魔法少女は言っていたが、晴れの日の太陽は無条件で人の気持ちを明るくする。そんな気がした。


 昼飯時になると、たまにはガッツリ系も悪くないと考えた男は、カツ丼のチェーン店に入った。結果として窮屈な腹を抱えながら店を出ることとなったが、不思議と心は満たされ、何だか若返ったようであった。気分のいい日は何をやっても良いほうへ捕らえることが出来る。

 

 仕事終わりに夜空を見上げると、一等星がよく見えた。都会の空は星が少ない。ふと満点の星空を見たくなった男は、スマホで星のよく見えるスポットを調べていた。ほとんどが山奥や都心から遠い田舎などであり、休日に行くには体力的に難しいと感じた。また次の休みも寝て終わりそうだ。男は一人軽く笑うと、軽やかに帰路に就いた。


 最寄の駅から家までの道に緩い坂道がある。その坂道の一番上に少女の人影があった。電灯に照らされて魔法少女が静かに待っていた。


「そんなところで何をしているんだい?」


 男は尋ねた。少女は少し困ったような笑みを浮かべた。その左頬の白肌に赤い線が入っていた。


「その切り傷、どうした?」


「……ちょっと引っかけただけ」


 少女は静かに言って男の傍に来た。男は鞄の奥を漁ると、少し前に買った絆創膏の残りを箱から取り出して差し出した。


「これ、貼っときなよ」


 少女は一回無言で受け取って少し見た後、絆創膏を男に返した。


「……貼って」


「は?」


「良いから」


 男は困惑しながら絆創膏を手に取り、少女の顔と交互に見た。少女は両手を後ろに組んで男の方を向きながら目を瞑っていた。


「いや、自分で貼れるだろう」


 少女は何も答えず頬を近づけた。男は自分の額に手を当てて、少し目を泳がし考えた。やがて目線を少女に戻すと、観念したようにゆっくりと絆創膏の紙を剥がし始めた。


 絆創膏にしわが入らないよう少し伸ばしながら、白いガーゼ部分から傷に当てた。本当はガーゼのみが傷に当たるようすべきなのだろうが、傷の長さは絆創膏全体でようやく覆えるほどのものであった。指が少女の頬に触れる。傷が痛まないようにそっと力をかけずに貼り付けて、すぐに手を離した。ガーゼそのものを医療用のテープか何かで貼った方が良かったかなと少し思った。


「ん。ありがと」


 少女はゆっくり目を開けて頬の絆創膏に触れると、ほほ笑んだ。


「知ってる?弱っている心には、人との触れあい、スキンシップが効果的なんですって。ストレスを軽減させる効果があるそうよ」


 ニヤッといたずらっぽい表情で少女は呟く。


「お兄さんにピッタリ」


「俺が常にストレス抱えてるみたいな言い方はやめなさい」


 男は溜息をついて軽く笑った。


「あら、違うの?」


「見くびられたら困るな。今日はだいぶ気分が良かった。天気も良かったし」


 少女はくすくすと笑った。男もまた髪をかきながら薄く笑う。それから絆創膏の箱を鞄にしまう時、ふと気づいた。


(『絆』を『創る』って書くのか)


 心の中で呟きつつ、苦笑いをした。まるで魔法少女の言いそうなことじゃないか。少女が男の表情を見て不思議そうに笑って言う。


「ほんとに、今日は良いことあったみたいね」


 男は何も言わずに少女の頬を見た。これは絆を創るためのものじゃ無い。傷を繕うためのものだ。


 夜の住宅街を二人並んで歩きながら、魔法少女は言う。


「次のお休みの日、ちょっと付き合ってくれない?」


「え?」


「......行きたいとこがあるの」


 その日は少し汗ばむくらいの陽気で、青い空には大きな純白の雲が泳いでいた。西武鉄道本川越駅の改札近くで男が一人立っていると、改札を通って魔法少女が駆けてきた。


「ごめんなさい、待った?」


「いや、別に」


 それから二人は強い日差しの下を歩き出した。魔法少女曰く、どうしても食べたいスイーツがあるらしい。男は別に甘味が好きなわけでは無いが、用事も特に無いので同行することにしたのだ。


「それで、その食べたいものって何なんだ?」


「これこれ!」


 少女が見せるスマホの画面を覗き込むと、そこには『生芋ようかんソフト』というものが載っていた。紫芋とさつまいもの2種類があるようだ。


「食べたいものを食べる。これも幸せへの第一歩ね」


 そう言って意気揚々と進む少女を横目に歩く男の表情にもまた、なんとなく笑みが浮かんだ。


「そういうものかもな」


 今日は暑いし、アイスが美味しく食べられそうだ。二人はしばらく歩くが、意外と駅から距離がある。軽やかに進む少女とは対照的に、運動不足が祟って男の呼吸は荒くなっていった。


「……今からでもバスに乗らないか?」


「何言ってるの!もうすぐ着くわ」


 やがて、現代的な建物群から雰囲気が一変し、蔵造りの趣ある街並みが見えてきた。男は辺りを見渡す。観光向けの店のみでなく、銀行や歯医者までもがレトロさを醸し出す立派な建物の中にあり、その世界観に溶け込んでいる。観光客と思わしき若い女性二人組が着物を着て優雅に歩いているかと思ったら、信号で立ち止まった際にペットボトルのミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。男は少し笑いそうになった。今日は暑いし、のども乾く。


「おいしそう!」


 少女が一つの店の前で立ち止まって言った。そこではプリンが売っていた。古風な建物にスタイリッシュなスイーツショップが入っている。そのコントラストが独特の魅力的な雰囲気を放っていた。よく見ると、そういう店が結構多い。少女はいつの間にかプリンを買って食べていた。


「おいしーい‼」


「芋ようかんソフトは良いの?」


「もちろんそっちも食べるわ」


 そんなことを話しながら、少女はスイーツ店のハシゴを始めた。芋羊羹にチョコレートソフトクリーム、抹茶のわらび餅にフルーツ大福なんかもあり、和洋様々だ。男はその傍らで漬物屋や土産物店の変なTシャツなどを眺めていた。メインの通りを少し外れ、細い道を進むと駄菓子屋などの店が並ぶ小さな通りに入った。


「あった!」


 目当てのソフトクリームが売っている店を見つけ、少女は走った。目を輝かせて店の前に立つと、財布の中を覗き込んだ。その瞬間、表情が曇った。そしてそのまましばらくその場で黙りこみ、立ちすくんでいた。


「……あれだけ食べていたらなあ……」


 少女の様子を見て男は呟いた。そして、おもむろに芋ようかんソフトを二つ注文すると、そのうち一つを少女に渡した。少女は目を見開いて男の顔を見た。


「良いの?」


「大した金額じゃ無いし。食べたかったんだろ?」


 少女は少しはにかんだような笑みを口元に滲ませ、無言でソフトクリームを受け取った。そして一口舐めて表情を輝かせた。


「……ありがと」


「うん」


 しばらく二人は何も喋らず、ただソフトクリームを味わいながらゆっくりと歩いていた。照りつく日差しにひんやりと淡い甘さが染みわたる。男はちらりと少女の顔を横目で見ると、彼女の目が少し潤んでいることに気が付いた。細い一筋の雫がツッと落ちて頬の絆創膏を通って落ちた。


「泣くほど美味しかった?」


「え?」


 少女は自分の涙に気づくと、照れながら慌てて目を拭った。


「あれ、おかしいな!」


 そう言って笑いながら、指で軽く頬に触れた。そして、目線を下に向けながらポツリと呟いた。


「食べたいなって、思ってたからかな」


 少女の様子に何か違和感を感じた男は、何か声をかけようとした。だがその文言が思いつかず無言で口を動かしていると、少女は何かを見つけて指さした。


「見て!あれ……」


 少女の指さす先には大きなブルドッグの像が置いてあった。それを見て少女は「……そっくり」と小さく呟いた。


「何に?」


 男は尋ねた。飼っている犬にでも似ているのだろうか。少女が答えようと笑顔で振り向いた時、男の後ろに何かを見つけて目線を落とした。


 男が振り返って自身の背後を見ると、そこには本物の白いブルドッグがいた。ブルドッグは吠えることなく舌も出さず、黒く大きな目玉でこちらをじっと見つめていた。何か変だと思った男は、それがこの犬の息遣いにあると気づいた。犬特有の『ハッハッ』といった呼吸は一切無く、何も音を発することなく口を閉じてただこちらを見つめている。いや、犬が見つめているのは男ではなく魔法少女のみであった。


「ごめん、お兄さん。ちょっと用事が入っちゃった」


 少女が申し訳なさそうに小声で言った。


「あたし、行かなきゃいけないから、またね」


「え?ちょっ……」


「ソフトクリーム、ありがとね!」


 男が何か言おうとした瞬間、辺りが強い光に包まれた。瞑った目を開けた時、そこには少女もブルドックもいなかった。


 それから、しばらく少女は男の前に現れなかった。

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