4〈雨の日の魔法少女〉
次に魔法少女が現れたのは一週間後。雨が強く降る日であった。その日は休日で、予約していた歯医者へ重い足を運んだ帰りのことであった。肌寒いバス停で一人待っている時、魔法少女が現れた。カラフルな傘を自慢げに男に見せながら言う。
「良いでしょ?新しく買ったの」
「……色鮮やかだね」
男は静かに言った。いくつになっても慣れない歯医者で精神をすり減らした帰りに、冷たい雨で服や靴下がジットリ湿り、いつも以上にテンションが低かった。そんな男の心持ちを知ってか知らずか少女は無邪気に続けた。
「あたし、雨の日って好きなんだ。傘や地面を跳ねる水の音とか、ずっと聞いていたいって思うの」
「へえ。晴れの日の方が好きそうだけど」
「晴れの日も好きよ。どっちの方が上ってことは無いもの」
確かに、そんな順位に意味は無い。好きなものは好きというだけだろう。
二人は、しばらく無言でただそこに立っていた。雨の音があるから静寂では無かった。誰かと二人でいるときの無言が苦手な男も、今はそれが気にならなかった。これも雨の効果の一つかな、と男は考えた。
「一昨日、魔物が出たの」
少女がポツリと言った。
男はちらりと横目に少女の顔を見た。少女は無表情で、コンクリートに跳ねる水滴を見つめていた。男は前に向きなおすと、小さく尋ねた。
「魔物ってどういう感じのやつなの」
「色々。決まった形は無いわ」
「見た目に統一性は無いのか」
少女は無言で頷いた。男は、今言った自分の言葉が少女の言ったことを言い換えただけだと気付いた。
湿った空気の中で二人は黙っていた。水滴が頬をかすめ、濡らす。雨音が強くなってほしいと思ったが、裏腹に雨は次第に弱くなっていった。
やがて雨は止んだ。雲の切れ間から光がさした。
「見て!虹!」
少女の明るい声で男は空を見上げた。透き通るように清々しい青空に、虹がかかっていた。いつぶりだろう、こんな綺麗な虹を見るのは。
やがてバスが来た。今日はささみを食べるのかと聞くと、陽に照らされた魔法少女は一瞬キョトンとした後、少し困ったように笑った。
数日の時が経ったその日もまた雨が降っており、暗い街を水滴が濡らしていた。雨に風情を感じて好きになれるのは、心に余裕がある時だけだと男は思った。
それは仕事帰りの夜、最寄りの駅から大粒の雨を無気力に眺めている時であった。夜の冷たい雨は、男の中の寂しい心をより一層強く育てていく。
「傘忘れたの?」
いつものように突然現れた魔法少女が、からかうように笑顔で声をかけた。
「そういうわけじゃないよ」
男は軽く笑って言った。心が疲れている今でも笑う余裕はあるのだな、と男は自分で思った。
「雨音に聴き入っていたってカンジ?お兄さんも雨の日の良さが分かってきたのかしら」
「さあね」
男は黒い折りたたみ傘を開くと、水の跳ねるコンクリートに足を踏み入れた。靴下が湿り始める。魔法少女も色鮮やかな傘をさしてその後ろをついてくる。
「何か良いことがあったの?」
「別に」
むしろ逆である。
「そうなんだ。でも、少し嬉しそう」
それは否定できなかった。魔法少女が現れてから、男の足取りは軽かった。夜の雨音というものも意外と悪くない気がした。
「雨音には、人の気持ちを増長させる効果があるって私は思うの。良い気持ちも、悪い気持ちも。だから雨の日ほど良いことや楽しいことを考えたいわね。わくわくが増えて、溢れて歌いたくなるもの」
魔法少女は軽やかに駆けて男を追い越すと、くるりとその場で回って、笑った。それから男の隣を歩きながら鼻歌を口ずさんだ。どこかで聞いたことのあるメロディだと思っていたら、たまに少女が呟く「favorite things」という歌詞でそれが何の曲かを薄っすら思い出した。恐らく彼女は、その部分の歌詞しか分からないのだろう。
男は何か楽しいことを考えてみようとした。楽しいことや明るいことは、常に過去にある。男の記憶は高校時代まで遡った。
「君くらいの歳の頃は、毎日もっと明るかったような気がするな」
根拠も無いのに自分が特別だと思っていた昔。他者からの評価が無くても自分を肯定することができた時代。いつからだろうか、自分の価値判断を他者に委ねるようになったのは。
「楽しいこと考えた?」
少女が無邪気に聞く。靴下がじとじとに濡れるのを感じつつ、男は自嘲気味の笑顔で答えた。
「ここ最近は無いな。思いつかない」
「じゃあこれからの事を考えれば良いわ。明日とか明後日とか、あれやりたい、これやりたい、こんなことがあったら良いなとか」
男は苦笑いをした。未来に希望を持てるのは現状が輝いている者だけだと男は思った。未来は常に今の延長線上であり、今が駄目なら未来も駄目なのだ。
「小さなことで良いのよ」
魔法少女は言う。
「仕事終わりにお酒が飲みたい。ぐっすりと眠りたい。大好きなお菓子を食べたい。面白い動画を見たい。好きな曲を聴いて歌いたい。気になる映画が見たい。可愛い猫ちゃんと遊びたい。綺麗な星空を眺めたい。何もせずにぼーっとしていたい。ほんの小さな、誰でもできる『やりたい』が積み重なって、今が良くなって、その先に未来があるのよ。きっと、明るい未来が」
その明るい言葉が、希望に満ちた考え方が、魔法少女の操る魔法だ。男は昔の自分を見ているような気分になった。そして、その魔法を自分はもう使えないのだと悟った。
少女はさらに語る。
「あたしは大人になりたいな。一生懸命働く社会人や、家族を支えるお母さん?具体的には分からないけれど……」
男は不思議そうな表情で魔法少女を見た。人は常に、自分の持っている物の価値には気づかないのかもしれない。
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