次の日の朝。頭の痛くなるようなアラームの音は鳴り響かなかった。代わりに携帯電話から発せられた音は、ウシの鳴き声であった。男は牧場で凶暴なウシに追い回される夢を見て、飛び起きた。

 

 昨日の夜、男が幸せになれるようサポートすると言った魔法少女は、まず手始めにアラーム音を動物の鳴き声にするよう提案してきた。彼女本人は、猫の鳴き声に設定していて、朝は快適に起きられるのだそうだ。


 そういうものか、と考えた男はとりあえず携帯電話の設定でデフォルトのアラーム音の中に動物の鳴き声があるかと探してみたところ、何故かウシしか無かった。仕方なく、それに設定したというわけだ。あまり良い寝起きでは無かった。


 朝食はまたトーストとインスタントコーヒー。それと、なんとなく牛乳を飲んでみた。少し前に買ったやつの残りだが、匂いは正常なので大丈夫だろう。


 大丈夫では無かった。あの牛乳は腐っていた。男は自身の嗅覚を呪った。仕事の間腹の痛みに耐えつつ、またいつもよりも多くトイレに行きつつ、昼休憩を迎えるころには、痛みは少しマシになっていた。胃腸に優しいものを、と考えた男は、うどん屋に入った。


 店内は昨日の蕎麦屋と同じく、昼休みのサラリーマンで溢れていた。たぬきうどんを持って席に座ると、直後、向かいの席に魔法少女が現れた。彼女はカレーうどんに揚げ物をたくさん、それとおにぎりをおぼんに並べて、ニコニコと男に話しかけた。


「やっぱり、たぬきが好きなのね」


「……いや、偶然だよ」


 男は彼女のおぼんに並んだ大量の揚げ物を見て、少し胃もたれがするのを感じた。魔法少女はおにぎりを齧りながら男に話しかける。


「今朝はどうだった?目覚めは良かった?」


「あー……。いや、別に良くは無かったな」


 男は腹をさすりながら答えた。少女は「おかしいなあ…」などと呟きながら揚げ物をぱくついた。


「おいしい~。お兄さん、揚げ物は食べないの?」


「いや、俺は良いや」


 男は、から揚げが大好物だった高校時代を懐かしく思い出していた。少女は全ての揚げ物をぺろりとたいらげると、カレーうどんに箸を移した。


「食事は幸せへの第一歩。医食同源って言葉があるように、健康と食事は切っても切り離せない深い関係性で結ばれているわ」


 その医食同源の考え方に、大量の揚げ物やカレーうどんはおそらく入っていないのではないかと男はひっそりと思った。


「食事は、身体の健康だけじゃなく、心の健康にも直結しているわ…。お兄さん、『セロトニン』って知っている?」


 魔法少女の口から急に科学的な用語が飛び出した。


「セロトニンは幸せホルモンって言われていて、これが大量に分泌されると、人は幸せに感じるらしいのね。幸せになるための第一歩は、セロトニンをいっぱい出すこと!」


 彼女は元気いっぱいにカレーうどんを啜った。


「あ、今セロトニン出ているかも~」


「そんなことで出る物なのか……?」


 訝し気に言う男に、魔法少女は答える。


「セロトニンは、トリプトファンっていう物質が変化して出来るらしいわ。つまり、トリプトファンがいっぱい入っているものを食べると良いってことね。大豆や乳製品に含まれているそうよ」


 少女は再びうどんを啜り、続けた。


「あと、このトリプトファンをセロトニンに変化させる助けになるのがビタミンB6。マグロの赤身や鶏ささみ、ニンニクとかに含まれているらしいわね」


 今の話で出た食材はどれも、カレーうどんや揚げ物には含まれていないのではないかと男は思った。しかし、彼女は見るからに幸せそうだ。セロトニンとは違う何か別のホルモンが出ているのだろう。


「……なんで、そんな栄養士みたいな話を急に?」


「だって、こういう科学的な話の方が、具体的だし信頼できるでしょ?」


 魔法少女は小首を傾げ、大きく光のある目で男を見つめて言った。


「あたしは、悩み事がある時は鶏ささみと豆腐を食べて、日光浴をするの。『セロトニン増えろ~』って思いながらね、そうしたら、なんだか心が落ち着いて安心するから」


 カレーうどんの汁を飲み干して、魔法少女は続ける。


「あたし自身もそうだけど、皆『科学』を信仰しているじゃない?だったら、幸せになる方法も科学にお聞きすれば良いのよ」


 そう言って陽のように笑うと、「お仕事頑張ってね!」と軽やかに手を振って少女は店から出て行った。


 その日の帰り、男はスーパーで鶏のささみと豆腐を買った。家で一人それを食べながら、無意識に、こんなことで幸せになれるはずが無いと考えていた。男は科学を信じているつもりであった。しかし『幸せ』に関して言えば、自分は驚くほどにスピリチュアルで非科学的なのだ。そんな結論に行き着き、幸せになれる魔法は無いのかと思いながら、寝た。

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