2〈魔法少女の提案〉
頭の痛くなるようなアラーム音が鳴り響き、男は唸り声をあげてそれを止めた。布団から上体だけ起こすと、しばらくそのまま何も無い場所を見つめていた。それからやがて、頭を振りながら立ち上がった。
一枚だけ焼いたトーストとインスタントコーヒー。それが彼の朝食だ。トーストにマーガリンを塗って齧りつつ、リモコンを手に取りテレビをつけた。なんてことない情報番組。その内容が頭に入るわけではないが、何もつけ無いよりはマシと思い、流している。
やがて小さなシワのついたスーツを着て男は狭いアパートの部屋を出た。家から歩いて十数分の駅から満員電車に揺られ、人ごみに流されて乗り換える。流され続けて気が付くと勤め先の前に着いている。一回深呼吸をして、彼は飛び込んだ。
やがて昼休憩の時間となる。息苦しさも少しは軽くなる、砂漠のオアシス。一人でゆっくり食事をしたいが都会では一人になるには金がかかる。金のない彼は、勤め人が詰め込まれた安い蕎麦チェーン店でたぬき蕎麦を注文し、スマホ片手に一口啜った。
「たぬき蕎麦が好きなの?」
そんな声が聞こえた。自身に向かって発せられた気がして目線だけを左隣に移すと、少女が一人座っていた。キャスケット帽子を深くかぶり、ぶかぶかのオーバーサイズなパーカーを着た少女だ。帽子の奥に見えた瞳は昨晩の魔法少女のものだった。
魔法少女は大きなエビ天の乗った蕎麦を啜り、小さなカレーを一口食べると、再度聞いた。
「たぬき蕎麦、好きなの?」
「……別に」
男は目を反らして蕎麦を一気にかきこむと、逃げるように店を出た。
仕事終わり。人の群れから逃げるように、男は自宅の最寄り駅へと直行した。駅近くのスーパーに寄って小さな総菜を物色している時、魔法少女がまた隣に現れた。
「お酒は買わないの?」
クリーム色のキャスケット帽越しに男の顔をまっすぐ見つめて、魔法少女は尋ねる。
「大人は何か嫌なことがあったら、お酒を飲んで忘れるって聞いたのだけど」
「……明日仕事だから」
少女の方を見ることなく、男は独り言のように呟いた。小さなビニール袋を片手にスーパーを出て、街灯の少ない薄暗い住宅地の坂道を速足で歩く男の後ろを、魔法少女がついてくる。
「今日も、何か嫌なこととかあったの?あたし、相談にのるよ?」
「別に。いつも通りですから」
小さく呟きながら、魔法少女の声を振り切るように男は足を速めた。
「さっきからずっと、ネガティブパルスが流れ続けている。ストレスや不満、悩みを抱えているということよ。それを解消したいの。その原因を突き止めたいの」
「……だとしたら」
男は立ち止まって言った。
「……その原因は君だと思う。君に付きまとわれていることによるストレスだと。もうついてくるのをやめてもらえます?家も近いので」
魔法少女は小走りで男の目の前に回り込み、彼をまっすぐに見つめた。
「嘘。あたしと出会う前から、同じくらいの量のネガティブパルスが漏れていたわ。あたしが原因では無いはず」
男は眉をひそめて少女を睨んだ。少女はその男の顔を見ると、少し悲しそうな顔になり、小さく俯いた。
「……でも、迷惑だったのならごめんなさい。ただ、あなたの悩みを解決できたらって思って……」
しばらく、沈黙が続いた。少女は顔を伏せ、黙って男の前に立ち尽くしていた。男は、なんだか大人気なかったかな、と考えた。十歳近く年下の子に対して感情的になりすぎたと。男は、少女に向かいゆっくりと口を開いた。
「……いや、俺の方こそごめん。少し強く言い過ぎた」
少女は顔をあげて、男を見た。男はできるだけ優しい表情をしようと意識して彼女の目を見つめ返した。
「……その、ネガティブなんとかを止める必要があるんだよね?具体的にどうすれば良いのかな」
「だから、あなたの中のストレスとか悩みとかを解消する必要があるの。ネガティブパルスの根源はそこだから」
どうやら、はっきりとした解決策は無いらしい。
「でも、悩みと言っても……俺にはこれといった悩みは無いんだけど」
「それじゃあ、今、幸せなの?」
少女は尋ねた。男は困ってしまった。そんな問いに即答できるほど男は幸せでも不幸せでも無かった。
「別に……。でも、今の世の中、自分が幸せって言えるような人の方が少ないんじゃないかな」
「じゃあ、幸せになろうよ。あたしがサポートするから」
「幸せにって……」
なろうとしてなれるものなら苦労はしない。そう言おうとしたが、彼は口をつぐんだ。口に出したら、彼女の発するピュアな言葉で否定されてしまう気がしたからだ。それは何故だかとても嫌だった。男は頷いた。
「分かったよ。でもサポートって、具体的に何をするんだい?」
「まだ分からない。でも、大丈夫。人は誰だって、幸せになる資格を持っているから。幸せになろうと頑張れば、きっとなれるわ」
彼女はウインクして言った。それを見たとき、男は、彼女が本当に魔法少女なのだと悟った。純粋無垢で世間知らずな、魔法のように非現実的な存在なのだと。
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