12
「すみません、髪も洗わずに枕使っちゃって……花粉とか着いちゃってるかもしれません」
「いいのいいの、洗えば良いだけだし」
猫背は正座した累の髪に櫛を走らせる。つくづく綺麗な髪質だと思う。濡羽色とはこういう色を言うのだろうか。自分の適当なケアとはやってることが違うのだろう。
「そういえば、猫背さんってすごい花粉症なのに、どうしてこんなところに住んでるんですか?」
累は姿勢よく前を向いたまま、背面の猫背に問う。
「こんなところ?」
「この部屋、花屋の二階じゃないですか。花粉すごくないですか?」
猫背は重度の花粉症患者である。にもかかわらず、花屋の二階に設けられたアパートの一室を借りて住んでいた。実際に春ともなれば、家を出る度に咲き誇る花々を見かけて目が痒くなることもある。
「ん~……実際すごいけどねぇ、花屋の主人さんに良くしてもらっててね。住み慣れてるんだ、ここ」
それに、と猫背は続ける。
「空気清浄機と薬の力でなんとかなってるってわけ」
「………………」
累はもみあげの辺りを撫でつつ考えこむ。
「私、さっきもでしたけど、薬の副作用がすごくて。猫背さんは眠くなったりしないんですか?」
「ふふ、十年以上の花粉症プレイヤーを舐めるんじゃないよ。自分の身体に合う薬くらい見つけて———」
猫背の、髪を梳く手が止まる。
「……猫背さん?」
「累ちゃん、例えば君が風邪でも引いたとして、それを他人に言いたくないときってどんな場合かな」
「あのバンドの話ですか?」
累はわずかに首を傾ける。
「そうですね……風邪を引いた原因が真っ当なものじゃない場合とかじゃないですかね」
猫背もそうだと思う。人間が隠し事をするときというのは、そういうときだ。
「例えばですね……密漁をしたときとかでしょうか」
「み、密漁?」
累から予想外の語が出てきたので猫背は面食らう。
「こっそり夜の海に入って漁をした結果風邪を引いたとして、まさか夜中に海に入りに行ってたんだなんて言えなくないですか?」
「確かに、それも可能性だね」
密漁という推理には驚いたが、風邪を引く理由なんて他にもいくらでもありそうである。
極端な話、早川がメンバーの彼女を寝取って、それのプレイが屋外だったから風邪を引いたとして、そんなことメンバーに言えるはずがない。
どこから糸口を見つけようか……。
などと考えている内に、累の髪の手入れが終わってしまった。
「はい。良い感じになった」
「ありがとうございます。今度は猫背さんの髪を手入れさせてください」
「ははは、もっと伸びたらね」
猫背は累の肩を軽く叩く。
「あの、猫背さん」
髪を整えてもらった累が、猫背の正面に座りなおした。
「なに?」
「その、早川が風邪を引いていたっていうのは、確定なんですか? バンドメンバーの人曰く、喉の不調は無かったし、別に元気そうだったんですよね?」
「そうだね。でも、彼が風邪薬を服用し続けていることが分かったんだ」
猫背はここ数日で見かけた早川の動向を説明する。彼のゴミ袋を確認したことと、近所の薬局に現れたことだ。
「実はこの前、早川の家から出たゴミ袋を観察したんだけどね」
「うわ(引)」
「偶然近くを通りかかっただけで狙ったわけじゃないよ。でもそこで、風邪薬の箱が捨てられているのを見つけたんだ」
それに、猫背の家の近くの薬局に現れたこともあった。
早川が風邪を引いていたということは、確定と見て良いだろう。
「にもかかわらず元気そうだったってことは、薬で風邪の症状を抑えてたってことですよね。あれ、じゃあどうして歌だけ下手なままだったんでしょう」
「そこがミソなんだねぇ。さっきの、副作用の話題で思いついたことがある」
猫背は楽しそうに、いつのまにか手元に持っていたオカリナを弄る。
「咳止め薬の中にはベンプロペリンっていう成分が入ってるものがあるんだけど、これには特徴的な副作用があるんだ」
「どんなですか?」
「音が、半音下がって聞こえる」
猫背はオカリナの吹き口を咥えた。
レの音を奏でる。
「今のがレね。それでこれが」
猫背は次の音を奏でる。
「……レのフラットってことですか」
「ドのシャープでもあるね」
「なるほど、確かに聞こえる音がズレて感じるのなら、歌なんか歌えたもんじゃないですね」
猫背は早川が服用していた薬の商品名をおさえていた。
調べたところ、そのような副作用が実際に報告されているのである。早川の身にその副作用が現れたというのが、猫背の考えだった。
しかし、行き当たるのは結局同じ疑問点である。
「どうして早川はその薬を服用していることを、メンバーに言わなかったんでしょう。白状した方が面倒くさくないだろうし……っていうか、そもそも隠すようなことですか、これ」
累の疑問ももっともである。恐らく、というか間違いなく、今回の件の肝はそこだ。
もう少し調べる必要がありそうだ。
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