第23話
植田には何もかもを取られた。
蓮は何もかもを持っていた。
目の前には右手が届いてしまい、一緒にコースで横たわる蓮。
江川朔はその届いてしまった右手を凝視する。
8月の空、火傷してしまいそうなほど熱いコース、疲れ果てた脳が自分のやってしまったことを思い出す。
脳へ回る血流が加速し、膨張し、こめかみが酷く脈を打つ。
肺には空気が上手く回らない。
江川は過呼吸を起こす。
それに気がついた蓮が自分を抱えてトラックの内側へと運ぼうと担ぐ。
――お前のせいで、お前のせいでお前のせいでお前のせいでッ……!
江川にとって植田蓮という男は全てを持っていた。
小学校のマラソン大会で4クラス中5位という成績を残し、小学生ながら潜在意識に「俺は足が速い。」という事実が刷り込まれていた。
自分には走ることしかないと心のどこかで天狗になっていた自分の鼻を中学時代になると一人の生徒がへし折るようになった。
その名前は小岩井愛。
初めて目にしたその女性は花のように凛々しく美しかったと中一ながらにそう思った。
集団を作り一斉に咲く花とは違い、一人でも生きていけるかのような強く自分の足だけで咲く花。
その力強さに圧倒され声をかけれなかった江川は自分にある目標を課せた。
――小岩井には勝てたら声をかけるんや……!
中学の同じ陸上部に入る先輩たちに負けるのはまだ、「歳の差があるから」という言い訳が自分の中でできた。けれど同学年。しかも女生徒に負けるとなると話が違う。
そんな弱者の自分が声をかけていいはずがない。
だからひたすらに走った。
自分より速い女生徒を目の敵にしながら必死に走った。
彼女に話しかけるため……。
中学三年生になった頃。
時間が経てばいつの間にか小岩井と同じだった身長は伸び、体ができるのに比例してタイムも伸びるようになる。
いつしか彼女を抜いていた。
嬉しくなって頑張った自分の成果を噛み締めて、「今声をかけたら勝ったから声をかけたやつやって思われそうやから明日声をかけよう。」と決意した。
その翌日。
天気は快晴。告白する訳でもないのに、ロマンチックなほど綺麗な夕焼けの中。
最初に声をかけたのは熊田先輩だった。
先輩は何やら頬を赤らめて、耳の先まで真っ赤にしながら小岩井へ声をかける。
その様子を見て、情景描写を見て、自分はこれから先輩がなんと声をかけようとしているのかを瞬時に理解出来た。
また翌日。
クラス中で熊田先輩が小岩井に振られたことがニュースになっていた。
そして熊田先輩の妹が発端で学年で小岩井をいじめるようになった。
正直嬉しかった。
そしてそれを嬉しく思っている自分が憎くてたまらなかった。
――けどこれで小岩井に声をかけれたら、俺は小岩井のヒーローや……!
恩を高く売る為にも江川は小岩井に声をかけることをまた躊躇った。
そうやって足踏みを繰り返すうちに高校生となり、小岩井の周りには一人の虫が付きまとうようになる。
植田蓮。
けれどこれは好機でもあった。
蓮と仲良くなることで、結果的に小岩井へ近付くことが出来る。
だから声をかけた。
そして持っている自信を、昔の自分と同じように凹ましてやりたいと考え、入部試験というイベントを設けた。
だから相棒やライバルと呼んで親しくした。
結果はこのザマだ。
小岩井は自分のものでは無くなってしまい、記録会では禁忌に触れる。敬愛していた先輩にだって今回で見放された事だろう。
過呼吸になりながら走馬灯のように思い出した自分の半生。
内容のない自分の人生に嫌気がさす。
けれど救急員に囲まれる自分の頭を強くノックする人がいた。
過呼吸になっていた自分は一気に正気を取り戻し、呼吸が楽になる。
開けた視界の先にいたのは熊田先輩だった。
「どうや!頭打ったか!?」
「……え、?」
「舐めとったやつにボロボロにされて少しは頭打ったか!」
驚きと戸惑いで理解ができない。
「俺、前に植田くんに頼んだんよ。サックは足速いのに、今に満足して成長せーへんって……。」
「……!」
「だから江川ともう一回勝負してやってくれってな!……まさか勝つとは思わへんかったけど……!」
反骨精神を見せられたら、ボロボロに負かせてやろうとひたむきに努力するだろうと計算していた熊田先輩。
蓮の成長は想定外だったようだが、蓮に対して「生意気に勝負を仕掛けてきたやつ」だと思っていたのが情けない。
まんまと先輩の策に踊らされいた様だ。
「何やってんだ俺……。」
――いや、何もしてこーへんかったんやな……。
小岩井の時も、陸上も、勇気を言い訳にしてチャンスを掴めなかった。
だから蓮が羨ましい。
しばらくすると、トラックへと続く通路にあるベンチで救急員2人に介抱される自分のもとへ蓮がやってきた。
「こ、今回は僕の勝ちだから……。」
少し顔を上げる自分に蓮は拳を向ける。
「これで、また今度から相棒と書いてライバルな……。サック……!」
こいつはあまりにも眩しすぎる。
蓮を相棒と呼ぶには自分はあまりにも弱かった。
けれど俺は許してくれる蓮に甘えて「おう!」と拳をくっつけるのだった。
こうやって俺は今後も成長しないままなのだろう。
きっとこれからも変わらないまま……。
そう思うと、少しだけ静電気のように小さな痛みが心の中で芽生えた。
いつもの嫉妬心や、常に感じている焦燥感や劣等感とはまた違う。
それは知らない感情だった。
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