第22話
今日、小岩井は予定があって来られないらしい。
もし小岩井が来ていたら、母親に運動会へ来てもらうような気恥しい感覚に陥ってしまう様な気がして、正直少しだけ安心した。
蓮は記録会に出場するため、一時的に陸上部に在籍しているという状態らしく、設営したテントの下で大空にユニフォームを手渡しされた。
「ほら、蓮、コレ……。」
「コレ……誰かのなんですか?」
「んやしらね……。なんか部室に置いてあったんだよ。誰のものでもないらしいし、一応洗ってあるから気にせず使え。」
「それ聞いたあとだと微妙に着たくなくなりますね……!?」
蓮は青いタンクトップと紺色のショートパンツを受け取った。
初めてのユニフォームを貰うという感覚に少しの興奮を覚え、それを胸に抱える蓮。
「おら、植田。行くで、」
遠くから江川に呼ばれた蓮は興奮冷めやらぬまま駆け足で声のする方向へ向かった。
「更衣室に行くのか!?」
「んなわけないやろ。色んな学校が同時にいろんな種目やっとんねんで?そんなんしたら激混みに決まっとるやん。」
「んじゃどこで……?」
そう言うと、テントを設営している客席の裏側で江川は服を脱ぎ出した。
「え!?ここで着替えんの!?」
「そらそやろ……。他にどこで着替えんねん。」
「いや、人多いって……!?」
「だーいじょうぶ。大丈夫やから!知り合いの視界に入らないだけマシやと思いーや。」
蓮は改めて今日小岩井が来てなくてよかったと思うのだった。
興奮と、羞恥と、江川と久しぶりに話せたという嬉しさが複雑に入り交じり、カオスな心境。
そんな中蓮は江川に連れられてサブトラックと呼ばれる、競技場のトラックと同じ距離のトラックのみが置いてある小さな広場に来ていた。
「ここでやったらアップしてええで。」
「アップって何するんだ?」
「急に走ったら体びっくりするやろ?だから先に少しだけ温めといて本番までに体慣らしとくねん。植田はなんか走る前のルーティン的なのないんか?」
「……。考えたこともなかった……。」
「今更やけどあった方がええで。これから走るって気になれるし、緊張も多少ほぐれる。」
江川はそう言い終わると小走りで走り始め、蓮を置いてどこかへと行ってしまった。
体の全身を伸ばし、関節に集まる肉をこれでもかと言うほどに引き伸ばした。
その後四百メートルほど走り、設営していたテントの下へ戻る。
「内田さん。ちょっとお願いあるんだけど良い?」
「どないしたん?」
「僕が走ってる間、僕のフォーム撮影しといてくれないか……?」
「へ?なんで?」
「江川君がさ、試合前のルーティンがあった方が心持ちとして良いみたいなこと言っててさ。おれ、いつも撮影してもらいながら走ってたから……。」
事情を聴いた内田は「仕方がない」といった様子で小さく溜め息をしながらも甲斐甲斐しくマネージャーの業務を行っていた。
「そういうことね……。ええよ。でも容量でかそうやし、植田君の携帯使うからな?」
「うん!ありがとう!」
五千メートル男子が始まる二十分前。ゼッケンや腰に番号の入ったテープを張り、「いざ尋常に!」といったタイミングで蓮のスマホが小さく震えた。
灯る画面に目をやると、チャットアプリからの通知だ。
小岩井:植田頑張れ!
その一言だけだった。
スタンプも何も無く、長ったらしい文章が続くわけでもなく、ただそれだけだった。
けれどその文章にすべてが入っているような気がして、蓮の心に喝が入る。
内田に携帯のパスワードを教えて、蓮は集合場所に向かう。
内田は蓮の弱みを握ってやろうと、軽いおふざけくらいの気持ちで携帯の中を覗いてみる。
さすがにチャットアプリを見るのは気が引けたので、写真や動画を覗いてやろうと思ったときに「F」という名前のファイルがあるのを見つけた。
容量順に並ぶファイルの一番上に出てくるそのFは40GB分の動画が入っているようで、開いてみると中には数えきれないほどの植田の走る姿がサムネイルになって載っている。
軽く引くのと同時に、それほどまでに真剣に取り組んでいることが伝わって来た。
「内田~!お前もそろそろ行かないと間に合わないぞ~。」
遠くから大空先生の呼ぶ声が聞こえてふと我に返る内田理央は「はい!」と元気良く返事をして選手が一番見える一階の入退場口まで移動した。
現在の気温は25度。八月の終わりにしてはまだ涼しい方だろうか。
幸い曇りで天気にも恵まれている。
蓮は点呼が終わり、案内人に誘導されるがままトラックへと向かう。
あっさりスタート地点に並びだす周りに合わせて目立たないように自分も並んだ。
今日の日のために頑張って来た。けれど運営にとっては種目の一つでしかない。
そんなことは当たり前で、蓮は選手と運営人との熱量の差に唖然とした。
江川と目が合う。
顔はしっかり見えたはずなのに、緊張のせいで表情がうまく見えない。
見えてはいるのだがうまく頭で認識ができないといった感じだった。
そこで蓮はすぐに考えを改めた。
――今日のために頑張って来たのはここにいる奴ら全員か……。僕だけじゃない。
緊張で心臓がスキップしてるみたいに強く大きく激しく荒ぶる。
静まり返る競技場の中、けたたましい銃声が鳴り響く。
蓮の心の準備が終わるのを待たずに、誰にでも平等に、冷酷に、あっけなく勝負の火ぶたが切られた。
緊張のあまりうまく走れない。なんてことは全くなかった。
飛び跳ねていた心臓も今は走る歩幅に合わせて小気味よくリズムを奏でる。
始まって早々に、蓮と江川は二つ目の集団にいた。
お互いに一歩も譲ることはせず、戦略的に相手をペースメーカにするなんてこともなく、横並びで並走する。
「せっかくこれまで……駆け引きも、イメージもして……、練習してきたのに、台無しだ!」
心の中の言葉ですら息が上がってうまく考えられない。
けれど、前回の江川との勝負で完敗したときのように無理をしてついていっているような感覚ではなく、お互いにお互いを試しているような、そんな並び方だった。
江川は少しだけペースを上げで前に出る。
それを見た蓮はすかさず自分もペースを上げて前を取る。
延々とそれが繰り返される。
苦しい。自然と顎が上がり上を見上げてしまう。
速く終われ、早く終われ。
そう思っているうちに、少しずつ、少しずつだけ江川に距離を離されてしまう。
負けてはだめだ。これまで頑張ったのに、泣いちゃダメだ。走れなくなる。
熱い。辛い。倒れたい。
一周目が終わったくらいからもうそんな弱音を心の中で吐いていた。
二周目のカーブ。
蓮のスマホを構える内田が見えた。
――……いや、大丈夫……。大丈夫!
自分では気が付かないうちに緊張して自分らしさを損ねていたようだった。
それに気が付いた蓮は姿勢を正して顎を引く。
これまで散々練習してきたフォームを思い出す。
ただそれだけで、楽しくって気持ち良くって、蓮は「何のために走っているのか」なんていつの間にか忘れていた。
――倒れたい!今すぐ倒れたい!もう、ぶっ倒れてやる!そう決めたから!倒れるならあと一周だけ!
諦めるのはいつでもできる。そう思うとあと少しだけ頑張ってみようとそう思えた。
今はもう全てが気持ち良い。
陸上競技場のトラックは一周が400メートルであるため、五千メートルとなると十二週半走る必要がある。
体五つ分ほどの差が江川との間に生まれてしまったが、今ならまだ取り返すことが出来るだろう。
――膝を上げろ……!かかとは前に出し過ぎるな……!腕はラフに!背筋はつむじからつるされるように……!
二人の競り合いは続く。
競り合いが続くということは、蓮が剥がされていないということ。つまり、蓮が成長しているということを示す。
これには暑さでばてていた大空も身を乗り出して応援をする。
どちらか片方の、なんてことは無い。
二人への「頑張れ」だ。
自分が成長したことを知り、さっきまで辛いと思っていた競り合いも辛くて苦しいが永遠に続けたいと思えた。
遠くから聞こえる応援が、自分に「もう少しだけ……!」と思わせてくれる。
あと八周。
江川は一度引き剥がせたと思っていた蓮が徐々に近付いてくるのを感じていた。
後ろを振り返る余裕などないが、背後に迫る血気盛んな覇気のようなものが押し寄せてくるのを感じ取った。
江川は自然と自分のペースが乱されていくのに気がつく。
何も失うものが無い蓮とは違い、江川には部活での立ち位置やクラスでのキャラクターなど負けてしまえば失ってしまうものが多い。
今現在いじめの標的である蓮に負けてしまえば、自分もいじられるかもしれない。
熊田先輩に呆れられるかもしれない。
中学時代から好きだった小岩井も取られ、今いる立ち位置さえ引き釣り落とされてしまったら、自分にはもう何も残らない。
カーブの際に少し首も横に曲げて、背後の存在に視線を移す。
「……!?」
横目にしか見えなかったが、何となく認識ができた。
――なんで笑ってんだよ……!?
笑顔で近付きで来る植田は江川にとって、まるで死の宣告をする死神のようだった。
あと四周。
内田は最近、江川がこれまで以上に部活動を真剣に取り組んでいることを知っていた。
逆にこれまではそれほど真剣ではなかった。
江川に限った話ではない。
この部の一部の人間を除いて、ほとんどの部員はただ漫然と時間が過ぎるまで適当に体を動かしていただけのような、そんな部活だった。
毎日坂の多い外周をひたすら走るだけだった彼はそんな部活の中ではまだマシな方。けれど、最近は筋トレも率先して行い、走る量も増えた。
だから、そんな真面目に「頑張った彼」が負けることは万が一にも無い。
朱に交わることなく、頑張り続けた彼が負けていいはずがない。
そう思っていた。
けれど植田の携帯を見た時に全てがひっくり返った。
フォルダにはびっしりと自分の走る姿が映っている。
植田は「頑張る」だけではなく、頑張り方を探していたのだ。
一瞬にして実力差が無くなったのはきっとその考え方一つの違いなのだろう。
江川には勝って欲しいと願っていた内田だったが、一抹の不安が胸の内で増殖する。
どの映像を見ても終始真剣で楽しそうだった植田に江川は勝てるのだろうか?
あと二周。
江川は植田がラストスパートを仕掛け始めたことに気がついた。
「まだあと800メートルやぞ……!?」
つられてペースが上がる江川。
――負けてたまるか。
――負けたらあかん。
江川に課せられているのはプライドだけではない。
立場、地位、権威、何もかもなくなってしまう。
いつかの蓮と同じように自分の特技だと思っていた長距離走。
自分が素人である蓮に負けてしまえば、自尊心はもう帰ってこないような気がして不安になる。
ジリジリと江川の横目に植田が入ってくる。
視界の占める割合を増やしてくる。
ぷつん。
江川の心の中で小さくどこかで音がした。
――ダメだ……。800メートルは仕掛けるのが早すぎた……。
江川は加速しきれず少しずつ減速し始めてしまう。
完全に集中が途切れ、気持ちと思考が真っ暗になる。
泥の上を藻掻く様にして走る。
――置いて行かんといてくれ……、植田……。
突き出した右手は蓮に届いてしまった。
あと半周。
蓮はラストスパートからもう一段スピーカーをあげようとした。その瞬間だった。
走る方向とは逆の方向。
つまり後ろから。
引っ張られるような感覚。
次の瞬間。
視界はゴールテープから空へと向けられる。
前に出した足が上手く踏ん張れず、蓮はそのまま転倒してしまう。
その真後ろにいた江川は倒れた植田に躓いて一緒に転ぶ。
転んですぐに上体を起こした蓮は後ろを見る。
するとそこには自分の震える両手を見つめる江川が居た。
蓮はすぐに現状を理解した。
「さ、サック……?」
「はっ、はっ、はっ、は、っ……。」
走った後の為息が乱れる蓮とは様子が違い、江川は自分の行動が理解できず過呼吸になったかのように息が上手く吸えてなかった。
とりあえず、後ろにまだ走っている人が多くいるため蓮は過呼吸で動けない江川を支えながらトラックの中へはいる。
すぐに当たりを見回して、オレンジの服を着た救護係の人へ手を大きく挙げて救援を呼ぶ。
それからはあっという間だった。
走って一階まで降りてきた大空先生が植田の首元へ氷袋を当てて冷やす。
さっきまでしづらかった呼吸がスっと楽になる。
感情が真っ白だ。
何も考えていない。
この世がまるでテレビの奥のように見えて、オレンジの服を着た男性に囲まれる江川の姿がまるで知らない人のように見えた。
きっと走り終わって頭が回っていないというのも原因の一つだろう。
「……。」
呼吸が整う。
江川は泣いている。
大空先生以外、誰も声をかけに行かない。
大人に囲まれる江川を見つめていると、そっと蓮の携帯を持った内田が現れた。
「はい。スマホ……。」
「あっ、うん……。ありがとう……。」
夏の日の外ということもありスマホはすっかり熱くなっている。
それをポケットに入れると、二人は黙って江川を見つめる。
しばらく黙って見つめていると内田が小さな声で蓮に声をかけた。
「なぁ……。」
「ん……?」
「今まで、散々、見て見ぬふりして、厚かましいかもしれへん……。けどお願いや……。」
「なに?」
「江川に声掛けてやってくれへん……?」
黙る二人。
内田は蓮の返事がないことを確認して、「無理そうなら大丈夫やわ」と言って再び黙り込む。
疲れた脳が復活してきた。
段々と状況が理解出来てきた。
そのうえで、「泣きたいのは僕の方だ!」なんて思ったが、別に泣きたい訳では無い。
蓮は徐ろに立ち上がると江川の下へ向かう。
座って俯く江川の目の前に立つ。
「……。」
二人は喋り出さないでお互いの様子を探る。
自分の感情には不思議と怒りは無かった。
どちらかと言うと気持ちの大部分は「困惑」が占めていた。
きっと彼も一緒なのだろう。
「ご……。」
「僕の勝ちだから……!」
江川が声を発した瞬間に被せるように言い放ってしまった。
「こ、今回は僕の勝ちだから……。」
少し顔を上げた江川に蓮は拳を向ける。
「これで、また今度から相棒と書いてライバルな……。サック……!」
瞳にいっぱいの涙を貯めて、江川は「おう!」と元気よく返事をした。
テントの下に戻った蓮は、騒然とする部員たちから逃げるようにして荷物をまとめて帰る。
PM2時の帰り道。
空は夏らしい入道雲と、さっきまで真上にあった雲がある。
陽の光がさんさんと降る中、蓮はリュクサックを背負いながら駅まで続く坂を下る。
勝ち。
勝った。
勝ったのだ。
勝ち方は微妙だったが、それでも恐らくこれは完全な勝ちだ。
勝ったのだ。
「勝った……。……勝った……!勝った!」
一番に小岩井に伝えたくて、チャットアプリを開き、「勝った!」と送ろうと思った。
けれど試合としては二人とも棄権の為、勝ったというのは何だか少しの嘘を孕んでいる様な気がして、意味深にビクトリーの意味を込めてピースマークのスタンプを送った。
徐々に気持ちが大きくなり、走り出す蓮。
弾むようにリュクサックが背中を打ち付ける。
五キロ走りきった後にもかかわらず、そのまま蓮は駅まで走りきったのだった。
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