第21話
「いじめられるのは俺じゃないから好きにしたらいい。」
大空真は自分が生徒にした発言をひどく悔やんでいた。
「はぁ……変なとこで意地を張ってしまったな……。」
ワンルームの自室で頭を抱える。
青白いライトに照らされる真っ暗な画面のPCモニターと、パソコンから突如としてなるファンの停止する音から大空がどれ程の時間そのことについて悩んでいたのかが窺えた。
そんな気持ちを遮るようにスマートフォンのバイブレーションが起動する。植田からだ。
「あ、もしもし先生……!今お時間よろしいでしょうか?」
「ん?ああ、休日に電話かけてくんなよ……。んで?」
「すみません。あのー、30日にある記録会って勝手に参加しても構わないですかね?」
「んや、無理だ。今何日だと思ってんだ。あと十日だぞ?」
「いや!出場する方じゃなくって……。」
七月三十日。天気は快晴。
部活のユニフォームに身を包む生徒があふれかえる中、部活のTシャツでもなければジャージでもない人物が一人。
「なんで私服で来てんだよ?」
「あれ?ダメでした?」
「いや、良いんだが……。」
本人が気にしないのであればこれ以上言う必要はないだろう。
大空は腕を組んで嘆息を漏らす。するとふと背後から視線を感じた。
誰かを警戒するように睨んでいる江川の視線の先には、予想通り植田がいた。
――そういえば八月の記録会で勝負するんだっけか……。
熱い日差しの中、空気の悪いクラスの事を思い出し、大空はもう一度大きくため息をついて気持ちを整理した。
「よし!それじゃみんな!場所とってこい!」
炎天下の中。
部員たちは天井のない競技場のベンチにタープテントを設置して日陰を作る。
みんな日陰に避難して自分の種目が来る番を待つ。
そんな中植田だけは滴る汗を無視してひたすら出場選手の記録を確認していた。
「何見てんだアイツ……。」
すこし不思議に思ったが、考えてみれば単純なことで、八月に戦う人間の偵察にでも来たのだろう。
「記録を見たって足が速くなるわけでもないだろうに……。」
思うように記録が伸びず、不安になって江川の記録を確認したかったのだろうと大空は卑屈な考察をする。
大空は真剣な眼差しで記録の載る冊子を食い入るように凝視植田にほんの少しだけ違和感を覚えた。
それに対して今日五千メートルに出場する江川と熊田は、テントの下でイヤホンを付けて瞑想をしたり、バナナを食べていたりと着々と自分のルーティンを行っていた。
戦いをすると決まってから、江川が何もしてこなかったわけではないことを大空は知っている。
毎日練習時間を伸ばして、特段強い訳でもないこの部だが、一人で延々と走っているのをよく見かけた。
実際の記録は今日改めて計測するが、それでも新たに記録更新するのは目に見えている。
この調子でいけばきっと八月にも記録を更新してくれるだろう。
それに植田はどうやって立ち向かうのだろうか。
――負け戦をするようなタイプじゃなかったはずだしな……。
植田は携帯を取り出すと、何かをメモして冊子を置き、こっちに向かってくる。
「先生。」
「なんだ……?」
「僕、五千メートル終わったらそのまま帰りますね……。」
「……あ?すきにしろ……。」
こっちとしては熱さでそれどころではない。
タオルを頭にかぶり、空を仰ぐ大空。
陰に居ながらも暑さで「なぁー」とだらしない声を出していた。
同じ部の教え子でもあり、最近頑張っている江川。
陸上部ではないが、元いじめられっ子の小岩井と仲が良く、結果最近いじめられるようになった植田。
大空自身、どちらに勝って欲しいのか分からない。複雑な心境だった。
「なあああ!」
詰まる息を無理やり吐き出すように癇癪をおこす大空。
「先生叫ばんといてください!」
一つ上の段のベンチに座っていた内田が大空を軽く蹴飛ばす。
「ああ。」
悩んでいるうちに午前の部の五千メートルの時間はすぐにやって来た。
スタートの銃声が鳴り響くと、熊田は序盤からトップ集団を駆け抜ける。
江川も序盤は3番目の集団にいたが徐々に順位も上がって、想定通りの新記録だろう。
遠巻きに二人の走る姿を観ていると、チョロチョロとトラックの外の観客席で走り回る人間が見えた。
「何やってんだアイツ……。」
植田は大空がこちらを見ていることに気がつき大きく手を振っている。
いつの間にか五千メートルの二人はゴールしていて、やはりふたりとも新記録を出せた様だった。
陸上部への偵察が終わった蓮は家に帰ると早速動画を見返した。
この間まで記録が伸び悩んでいたため、未開拓の土地を宛もなく彷徨っているような気持ちだった。けれど小岩井の歌を聴いて、ようやく進むべき道が見えてきた気がする。
――あとは時間との勝負だな……。
江川の今日のタイムは16:30秒。
陸上部としては平均より少し速めのタイムらしい。
あと四週間で江川とのタイム差はおおよそ一分。
蓮は早速スマホと三脚を用意して走り始めた。
夕方の六時頃。
まだ日も沈みきらず暑さが残る。それでも昼間に比べたらまだ楽な方だ。
「あ!小岩井ー!こっちだ!」
「ん、ごめん。ちょっと遅れたわ。」
「大丈夫!いつも悪いな……!」
既にある程度走っていた蓮は溌剌とした声で、小岩井は若干引き気味になる。
アミューズメントの一件で、蓮は「速い人のフォームを真似すれば良い!」と着想を得た。そう考えた翌日から小岩井に頼み込んで自分の走る姿を撮影してもらう様になったのだ。
十日目の今日撮影してきた新たな教材を元に多くの人のフォームを参考にする。
これまでは動画サイトで見つけた人の真似をしていたが、実際に見てみると走るのに大切なのは体力や速さだけではないことを学べた。
記録会とは言ってもやはり上位を目指す選手が集い、そこには仕掛けるタイミングなどの「駆け引き」が存在していた。
新たな観点を手に入れた蓮はフォームや駆け引きを想像しながら、ただひたすらに走る。
一日二十キロや三十キロ走る。
体重は66キロあったところから、2ヶ月で59キロまで痩せた。
あとはひたすらに真似をして真似をして真似をして、自分に合ったフォームを見つけてその人の形を自分のものにする。
そしてある人物のフォームへたどり着いた。
その人が最終系なんてことはなく、きっと今の体格や体重ともあっていたためだろう。
熊田充。
彼のフォームを真似すれば真似する程に形が自分のものになっていくのを感じ、走れば走るほどにタイムが縮み出してきた。
8月10日。勝負の日まであと2週間。
蓮のタイムはみるみる上がり、自宅周辺を走っても5キロを17分未満で走りきることができるようになった。
あと1週間。
午後2時頃。
今が一番充実している。
毎日より速くなる方法を模索し、試し、好きな人と二人で話す。
こんな生活が永遠に続いて欲しい。
小岩井とは学校でも毎日会っていたのに何が違うのだろう。
――そう言えば僕……、虐められていたんだ……。
途端に足が重くなった。
住宅街の中に幅の小さな川がある。
その道を沿うように走ると青々とした桜の木が並んでいた。
中学生の頃からこの街に住み始めてもう4年目になるが、気が付けばずっと喋り方のせいで仲間外れになっていた気がする。
川の近くをフォームを意識しながら走っている。ゴールまで残り200メートル程だろうか、いつもなら全力で走り始めるタイミング。
けれど、ゴールしてしまえば、新記録を出し続けてしまえば、悩む事を楽しいと思うようになってしまえば、いつしか夏が終わってしまうような気がした。
自然と、徐々に、緩やかに明日は前に進まなくなる。
気が付いたら歩いてゴールして、計測していた小岩井が歩み寄ってくる。
「はぁ、はぁ……ごめn……。」
息が切れて上手く喋れない。
「……コンビニ行こか。」
微笑んでそう言ってくれた。
ベージュの帽子に前も着て来ていた水色のジャージ。
夏仕様なのか最近は髪を丸めてお団子になっているが、いつになっても見慣れる事は出来ず、新鮮だ。
ソーダ味のアイスを2つほど買ってきた小岩井は、蓮と並んで袋を開ける。
「めっちゃ夏じゃん……。」
「夏やなー……。」
「あ、入道雲。」
「ホンマやなー……。」
適当な返事をする小岩井の方を見る。
フェイスラインがくっきりと見え、細身の彼女が帽子をかぶった横顔は、綺麗やかっこいいや、可愛い等の言葉では足りず、「可憐」や「美しい」という言葉がピッタリのように感じた。
「記録会の日は晴れるとええな。」
そうだ。
彼女は今本気で僕のことを手伝ってくれているのだ。
「勝たなきゃな……。」
その日は少し心が凹んだ瞬間もあったが、結局僕がゴールしようがしまいが世界は回っているため夏は終わらない。
限られた時間、限られた努力、限られた青春。
そんな限られた僕らは一分一秒の無駄なく、無駄ですら謳歌しなければならない。
きっとこの悩みだって無駄なんかじゃないが、心の中で答えが出ている以上難しく考える必要は無い。
「よし!一発ギャグするか!」
「急に!?なんでやねん!?」
「アイスのお礼って事で!」
「もうしたいだけやん!?」
――僕は彼女が笑っていられるように頑張るだけだ。
きっと将来結婚もしないだろう。
きっといつか別れて、もしかしたら将来陰口なんて言われるかもしれない。
それでもこの瞬間に正しいと思ったこと、楽しいと思った事、いつか振り返って笑い話にしたいと思った。
そうして来る日8月24日。
天気は曇り。最高気温30度。
薄い雲が空を覆っていて、たまにひょっこりと太陽が顔を出す。
夏にしては比較的走りやすい気候だろう。
蓮は陸上競技場へとやってきた。
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