第18話

 七月の半ば、入学したのが四月で学生生活がまだ三か月半ほどしか経過していないことに肩を落として気が滅入る蓮。


 急激に上がった気温の中。朝の日差しに当てられ、周りの生徒も気落ちしていた。


 遠くのアスファルトに目をやると、存在しないはずのオアシスが見える。


 そんな中、けたたましく声を荒げながら同じクラスの男子生徒幾名が通学路を闊歩する。


 蓮は早く学校に到着し、クーラーで冷えた教室に入りたかったが、彼らに見つかって時間ロスをする方が愚策だと思い今日も遠回して学校に向かった。


 蓮が昇降口に入るころ、彼らもまた同じタイミングで到着したようで、獲物を見つけたように悪い笑みを浮かべる。


「うわ!植田やん……!」

「『うわ』ってなんだよ……。」

「『なんだよ』やなくて『なんやねん』やで!」


 一人がイントネーションの違いを強調して少し小ばかにしたように真似をする。


「どっちでもいいじゃんか。」

「『どっちでもいいじゃんか!』じゃなくて『どっちでもええやん』やから!」


 蓮は無視をして生徒たちを横切る。


 すると三人のうちの一人が、逆上して蓮の事を後ろから蹴り飛ばした。


 蓮は咄嗟に片足をついて体勢を整えようとしたが、昇降口の段差につまずいて盛大に転んだ。


 後ろからサイレンのような笑い声が閑静な昇降口に響き渡る。


 多くの生徒に注目して笑われ、可哀想という憐みの眼差しを向けられる。


 手を挙げられることは今回が初めてではなかった。


 高校に入り、いじめられるようになって一か月半の間。


 突き飛ばされても、それさえも無視して逃げれば後ろ指を指されるだけでそれ以上何かされることは無かった。


 今回以上に酷い事は前にもあった。


 コイツら3人組に囲まれ、ひとりが腕を掴んで拘束し、もう一人がズボンをずらそうとしはじめたこともあった。


 あの時は運良く先生が駆けつけてくれたから何とかなったが……。


 無視して、開き直り、いつもの事だと思えばこれまでなんてことは無かった。


 だから今回も立ち上がって何事もなかったかのように無視をすればよいのだ。


 けれどもう……。


 ――疲れた……。もう、立ちたくない……。


 羞恥心も劣等感も焦燥感もありはしない。


 ただ漠然と、凪のように心が穏やかで、「もう立たなければいい。」「いじめられたままでいい。」

「もういいんだ。」そうやって頭の中はクリアになっている。


 もう言葉のナイフにおびえる必要もない。


「床……。つめたい……。うっ!?」


 起き上がらない蓮を不審に思った一人が、蓮の横腹に蹴りを入れる。


「おい!お前。それはさすがにまずいって!」


 発言とは裏腹に一人が悪びれもなく笑いながらそう言った。


 意識があることを確認した三人は、蓮の事をしばらく足で突っつく。


 遠回りをしたおかげか、タイムアップのチャイムが鳴って昇降口には人ひとりとしていなくなった。


 蓮はまだ立ち上がれずにいた。


 目を閉じてこの世のすべてを遮断する。


 意識はある。


 ただこの誰もいない空間はこの世に自分一人しかいないようで、自分を傷つける人はどこにもいないようで落ち着いた。


 蓮は指一つ動かすこともせず、たまに目を開いてはぼーっと遠くを観察し三十分ほど暇をつぶした。


 脳内にめぐる言葉はただ一つ。


 ――みんなしねばいいのに……。


 そんなことを一人で考えて、にやける。


 すると蓮のもとにパタパタと忙しない足音が近づいてくるのが聞こえた。


「植田!植田!?」


 閉じていた眼を開くと小岩井がいた。


 小走りでやってくる彼女は、蓮のもとまで来るとしゃがんで蓮の顔色をうかがうようにのぞき込む。


 その刹那、スカートから垣間見えた一筋の希望は水色をしていた。


 もう何もかもがどうでもいいと思っていた蓮も、さすがにこればかりはどうでも良い訳がなく意図せず注視してしまう。


「何見とんねん……!?」


 蓮は頭に強い衝撃を受けて正気を取り戻した。


 いつものポーカーフェイスがひどく崩れた小岩井は、顔を真っ赤にして顔を真っ赤にして両手でスカートを抑える。


 難しいことを考えていそうな顔も今だけはあどけない。


「僕、何気に小岩井が殴るのが一番ダメージになってる気がする。」


 鼓動が速くなる。さっき見たパンツの光景が頭から離れない。


 ――これが……恋……?


 もう一度頭に強い衝撃が走る。


「なんかまた考えてたやろ!?」

「そんな理不尽な……!か、考えてなんか……。」

「考えとる間やんけ!?」


 また叩かれた。


 蓮は両手を床についてゆっくりと起き上がる。


 ――思っていたよりもすんなりと起き上がれたけど、これはやっぱりパン……おっと誰かが来たようだ。


 蓮は落ちていたバックを拾い上げながら、小岩井に「授業始まってんぞ。」と言って歩き始めた。


 すると、背中に引っ掛かりを覚える。


「……?」


 後ろを見ると、小岩井が服をつかんでいた。


 上目づかいでこちらの様子を伺うような蠱惑的な光を帯びた瞳とは裏腹に、小岩井はがっしりと制服の背中を鷲掴みにしていた。


 ――こういう時は摘まんでたりするのが定番な気がするんだがな……。


 けれど僕の知っている小岩井愛という人間は、こういった不器用で無口な人間なんだ。


 蓮は微笑みながら小岩井に「どうした?」と尋ねる。


「……教室戻る気せーへんし……、サボろーや……。」


 意外な彼女の申し出に驚嘆する蓮。


「いいのか?小岩井みたいな模範生が……。」


「無粋やな~。私がええって言ってんねんからええねん!」


 朝九時半。


 小岩井に腕を横暴ながらに引っ張られ、蓮は学校前のコンビニにやってきた。


 学校をサボった日の朝は、どうしてこれほど澄明な空気が漂っているのだろうか。


「植田!パス!」


 蓮がコンビニ前の銀のポールに腰を掛けながら黄昏ていると、コンビニから出てきた小岩井が何かを投げた。


「うお!分かってんじゃん!ありがとう!」


「奢りやから味わってのむんやで……!」


 冷えたジンジャエールを買ってきてくれたそうだ。強炭酸を投げたことには感心できないが、奢ってもらった手前、余計なことは言わないことにした。


 蓮はいつものように大袈裟に笑うと、悲哀を感じているような眼差しで彼女はこちらを見ていた。


 他人から向けられるといつも腹立たしかったが、今回は不思議と不快ではなかった。


 二人はジンジャエールを片手に駅のある方向へ向かう。


「植田……最近どうよ……?」


「なんだよその漠然とした質問!?そうだなー……十キロのタイムは相変わらず……伸びてない……。筋トレもちゃんとしてんだけどなー。たまに49分台に入ることがあるくらい……。」


「おお!ほな、最初のころに比べたらめっちゃ早なったんちゃうん……?だからそんな悲惨な顔せんでも十分凄いやろ!」


「あれ?そんな悲惨な顔してた?」


 指摘されて気が付いた蓮は「あっはっは」とわざとらしく笑って見せる。それに応えるように小岩井も小さく「んはは」と笑った。


 小岩井についていき、しばらく歩くと誰もいない公園にたどり着いた。


 学校のそばにあるその公園は、自然に囲まれた小さな公園で園内には小さな山もある。


 高く育った木々によってこの空間だけは少しだけ涼しく感じた。


 日陰のあるベンチ。


 グリーンカーテンというのか、天井から垂れるツタが壁になっていて園内でもとりわけ快適な空間が出来上がっていた。


「植田はさ……。なんでそんなに走ることに注力しとるん?」


「……江川と戦いたかったから……?」


 考えたこともなかった。


 彼女は「なんで疑問形なんよ……。」と、釈然としない様子で笑っている。


 最初はただ、自分を肯定したかった。


 多少なり自信のあった長距離走で江川に負けてしまい、自分の完全上位互換だと思っていた江川が小岩井と仲良くしていた。


 これ以上嫉妬で自分が傷つくのは嫌で、だから遠ざけていた。それで先生と話して……。


 ――小岩井の隣に居られるように……。いや、それも違う。


「わかんないや……。おかしいよな!走るだけなんて辛いだけなのにな!なっはっは!」

「そうなんや。」


 仰々しく笑う蓮を横目に、大きく伸びをして空を仰ぐ彼女は、空へ伸ばした両手を勢い付けて立ち上がった。


「むぐ……!?」


 わざとらしく笑う蓮の頬を両手で挟み込み、蓮は誇張したアヒル口のような変顔になる。


 小岩井に両手で顔を触られた蓮は、驚きも相まって鼓動が急激に加速する。


「植田……。知っとるから。私……。頑張ってるもんなぁ……。」


 蓮は逃げるように小岩井の両手から逃れようとするが、がっしりと固定された両手を振り払うことは出来なかった。


「隈もこんなにできとる……。寝られへん夜は辛いよな……。」


 蓮の動きが収まるのを待って、小岩井は蓮の眼の下のクマを親指でなぞる。


 もう一度抵抗してみるも、彼女の両手からは逃れられない。


「頑張ってもタイムは良くならへんし、何をやっても真似していじられる。」


 蓮は必死に目線を外していたが、小岩井と目があってしまう。


 顔が近い。


 拒絶はあえなく失敗してしまう。


「わざとらしい笑いも無理してんやろ……?蓮……。」


 一度あったら、もう目が離せない。


 サイダーで冷えた彼女の手が真夏の気温より冷たくて、気持ちがいい。


 ――ダメだ。ここで僕が小岩井の言うことを受け止めてしまったら……。


 ……もう走ることも、

 ……耐えることも、

 ……もう考えることすらも、

 ……できない気がする。


 昔好きだった曲の中に、「自分の限界を決めているのは自分。」「ゴールと思えばそこがゴール」というような歌詞があった。


 自分もそう思う。


 だからここで小岩井に認められてしまえば、彼女を守るために欲しいと懇願したすべてが満たされてしまいそうな気がした。


 頑張る意味がなくなってしまうような気がした。


 ……それが、怖い。


「泣き虫やなぁ」

「……まだ、泣いてない。」

「んはは、そうかもなぁ。でも、私がいないと蓮はまだ子供やなぁ……。」


 目の前に立つ彼女は頬に両手を添えたまま無邪気に笑う。


「僕……、もう逃げないって決めたから……。逃げてばっかじゃ、なにも手に入らないから……。小岩井だって守れないから……。」


「ありがとな?」


 小岩井の顔を見上げて眼から涙がこぼれないように堪える。


「だから……もうちょっと待ってて……。……死なないで……。」


 小岩井は自分が蓮と出会ったころを思い出した。


 小岩井自身ですら忘れかけていたあの出会い。


 きっと蓮は、またいじめられることになった小岩井の事を心配して、逃げずに戦ってきたのだろう。


 小岩井は両手をそっと蓮の背中に回して、人目を憚ることなくゆっくりと力強く抱きしめた。


「死なへん。」


 背中をさすりながら先生が慰めるように。


「サックに負けても怒んなよ?」

「怒らへんわ。」


 まるで恋人が怒るように。


「ずっと……一緒にいてくれ……。僕、頑張るから、タイムも伸ばすし、成績も……。いじめてきたやつ全員、あっと言わせてやるんだ……。だから……。」


「うん、うん……うん。」


 小岩井は蓮が喋る合間を埋める様にたくさんの相槌をうつ。


 誰もいない平日朝十時の公園。夏の暑さも日差しによって冷たい心が結露を作って温まる様に、ポロポロと蓮は涙を流した。


 彼女の両手に顔を落ち着けている蓮は、目を瞑って涙が溢れるのを堪えた。


 光が遮断された世界では変わりに他の感覚が敏感になっている。


 ――女の子の手だ……。


 同時にほのかに彼女の匂いがするのを感じて、それほどまでに近い距離にいる事を再認識し、鼓動がはやくなるのを感じる。


 ずっとこうしていたくて、蓮は目を瞑ったまま動かない。


 公園周りに生える葉がぶつかり奏でる音。


 まだ本調子とは言えないセミの鳴き声。


 耳の付け根から顎の先まで、柔らかくキメの細かい彼女の手が触れている。


 一度認識すると徐々に匂いが強く感じて脈はどんどん速くなる。


 唇に触れる何か……。


 蓮は驚きながらも、すぐに状況を理解し動かずに目を閉じ続けた。


 ――息が臭かったりしないだろうか……?


 蓮は息を止めながら薄らと瞼を持ち上げる。


 ――近い……。


 少しひんやりと冷たく、反発のなく柔らかさ。


 ファーストキスはレモンの味と巷で言われるが唇同士が当たっているだけで、味なんてしなかった。それでも強いて言うならば、


 ――ジンジャエールの味……。


 そっと二人の唇同士が離れる。


 流石の蓮も目を開き、どういうつもりかと小岩井を見つめる。


「……何か言いや……。」


 彼女は頬を紅潮させながら、バツが悪そうにそっぽ向く。


 蓮の心はここに在らず、ただ一瞬たりとも逃さないように彼女の表情、仕草、顔色を視界に収める。


「……多分一生覚えてる……。」


 言い終わる刹那に蓮は強く頭を叩かれた。


「恥ずいこと言うなし……。」


 その衝撃で正気に戻った蓮は何がおかしいのか分からずも、ただ何かがおかしく、自然と笑いが漏れた。


 吊られるように小岩井も、笑いが悟られないように顔を隠してクスクスと肩を揺らす。


 ラフターヨガとは言うものの、やはり一人で無理やり笑うのは心がけずれてしまう。好きな奴と今、この瞬間。大袈裟なくらい笑えることが、一番心が軽くなる。


 夏の暑い日差しの中。顔が暑いのは夏のせいか恋のせいか分からない。


 小岩井をいつの間にか好きになっていて、いつの間にか一番大切なものになっていた。


 これまでにこんなに人を好きになったことなど無いのではないかと思うくらいに放っておけない存在になっていた。


 だから何が何でも守りたいという一心で彼女を失わないためにも必死になってやれることをやって来た。


 うすうす両思いであることに気がついてはいたが、認めてしまえばその必死さや、貪欲さが失われてしまうような気がして、素直になれなかった。けれど違った。


 好きな人が好き同志だと気が付くと、世界の彩度は一気に増して、夏の空がはっきりと青色なのに気が付いた。


 空をのんびり見つめるのはいつ振りだろう。


 ただ漠然と求めていた「小岩井のために」という考えがガラリと変わった。


「僕たちのために……、出来ること、二人で並んでいられるためにできること……。そういったことを探していきたいと思うんだ。」


 小岩井は相変わらずそっぽを向いて、「ええんちゃう?」と一言。

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