第16話

 日曜日の夜。

 特大の汗を顎から滴らす蓮は、今日も十キロを走っていた。


 タイムは一向に縮まらず、変わらずに50分台。


 自分がほんの少しずつ成長するのと同様にきっと江川も少しずつ成長しているのだろう。

 それに比べて結果の出ない自分。


「あとから始めた僕がもっと走らないでどうするっ……!」


 蓮はもう一度走り出した。


 勝負の時まであと一ヶ月半。


 月曜日の朝。


「おはよ小岩井!」

「ん。」


 金曜日の一件など、何事もなかったかのようにいつも通りの返事をする小岩井。


「僕、土日で35キロ走ってたんだ!すごくないか!?」

「へー、結構走ったんやな。」

「そうそう。タイム縮まんないから、もっと頑張らないとなって!」

「たまには休まへんと効率悪いで?」

「おう!それに今日弁当だしな!」

「……ふーん。」


 曖昧で歯切れの悪い返事をする彼女だったが、耳がほのかに赤くなっているのを蓮は見た。


 今日の朝の登校は月曜日ということもあり、それに踏まえて先日の事件もあったため一段と憂鬱だった。


 けれどこうやって学校に来られているのはきっと彼女の弁当のおかげだろう。しかも今日の昼休み直前の授業は体育だ。


 相変わらずの曇り空でも、心は晴れやかだった。

 体育の時間。


 今日は女子が多目的室でビデオを見るそうで、男子は体育館に集合する。


「今日はバトミントンをやる!二人一組を作ったやつから座れ!」


 その合図とともに周りはどんどんとペアを作り出す。

 いつもなら江川とペアを組んで即座に座るのだが、パン屋での出来事を思い出し、蓮は声をかけることが出来なかった。


 江川を見るとこちらを睨んでいる様だった。


 先日女生徒に囲まれた事件は隣のクラスにも伝わっていたようで、誰も蓮には近づかない。

 何人かに声を掛けようと近づいてみるも蓮を避けるように周りとは空間が生まれる。


 たまたま人数が奇数だったこともあり、周りが座っている中、その場に立ち尽くす蓮。


「……お。今日はもうおらへんのか。んじゃ先生とやろか。座れ。」

「……はい。」


 周りの生徒の注目が蓮に向かう。


 独りぼっちで羞恥の目にさらされ、劣等感や疎外感にさいなまれて蓮は下を向いて顔を隠した。


 ――情けないなぁ……。


 中学時代にも似たことはあったため、些細な問題だと思うことにした。


 ――まぁ今日は弁当があるから大丈夫!


 チャイムが鳴る五分前。

 先生は笛を鳴らすとともに授業が終わるのを知らせた。


「はーい。んじゃネットなおして帰ってな~。」


 各々が使っていたネットを片付ける中。


 同じクラスの人たちによってできていたいくつかのグループがネットを片付けずに遊んでいる。


「植田君俺ら用事あるからよろしく~。」


 ただでさえ先生が手伝わなかったため自分一人で重たい柱とネットを直したのにも関わらず、そんな頼みごとをする生徒たちの事を蓮は無視して体育館を出ようとした。


「おい、なんで無視すんねん。」

「逆に何でやると思ったんだよ。」

「は?」


 言い返してくると思っていなかったようで男子生徒ら三人は動揺を見せる。

 蓮は改めて突っかかってくるのを無視して教室に戻ろうとする。


「おい。まてや?」


 通り過ぎる蓮の服の、首根っこをつかんで一人が振り回す。


 肩を何度も押されて、そのたびに声を荒げる生徒。


 野生の動物が威嚇しているみたいだった。


「なおせよ!おい。ホラ!」


 威圧的な態度に決して屈してはならないと思い、蓮は出来るだけポーカーフェイスを作り生徒たちを睨んだ。


 すると生徒たちの後ろからぞろぞろと着替えの終わった学生たちが出てくる。


 その中にいた江川と目が合う。


 相変わらずの不愛想な瞳に、どんな顔をすればいいか分からなくなって負けじと蓮も睨み返した。


「おい。俺たちも帰るぞ。」


 周りに人が多くよろしくない状況となった男子生徒たちはそそくさと更衣室に入っていった。


 蓮も後追いで更衣室に入ったが、昼休みだったこともありそれなりに人が残っており、これ以上その生徒たちがちょっかいをかけてくることは無かった。


 着替えが終わり教室に戻る。


 小岩井の席に彼女の姿は無く、筆箱とさっき使われていた教科書が置かれていた。


 何の変哲もないいつも通りの風景だ。

 けれどどこかにある違和感。


 蓮は席にも座らず立ち尽くして筆箱を凝視する。


「やほ。」

「うお!?」


 背中を軽くたたかれただけにもかかわらず蓮は驚いて心臓が飛び跳ねる。


「何?何そんな驚いとん?」


 後ろを振り返ると小岩井が少し湿った手を蓮の制服で拭いていた。


「おい。僕の服で拭くな!」

「お?『服で拭くな』って?ダジャレやん!また一発ギャグ?」


 笑う彼女に蓮は安堵して席に座る。

 彼女はヘラヘラと笑いながら机の横にかけていたバックを取り出す。


 バックの中を漁り、水色の巾着が一つ出てきた。

 そしてもう一つ出てきたのはいつも小岩井が使っていた弁当箱ではなく、腑抜けた彼女の疑問の声だった。


「あれ?」

「どうしたんだ?」


 小岩井は「あー、」と声を出しながらバックの中を漁り続ける。


「……いや、植田のぶんしか持ってきてなかったみたい。」

「え?ええっと。んじゃ、僕パン買ってくるし大丈夫よ。」


 そう提案するも彼女は何度も探したバックの中だけじゃなく自分のロッカーや机の中も探して回る。


「ホンマごめん植田……。時間取らせちゃったし……。」

「んや、大丈夫だって!いつも下のパン屋行ってるしモーマンタイ!」


 蓮は強がりながら歯を見せて親指を突き立てながらそう言った。

 彼女の弁当のために頑張ったといっても過言ではなかったため、教室を出ると小さなため息が出てしまう蓮。


 ゴロゴロとなる空。

 天気予報によると暫く雨が続くらしい。


 一学期も三週間すれば終わるのにもかかわらず、六月からずっと曇り空だった。


 昇降口で靴を履き替えて教室を出る蓮。

 昼休みが終わるまであと四十分ほど時間があるため急がなくても良いと思ってゆっくりと学校を出た。


 しかし学校の敷地を出ると、途端に雨がぽつりぽつりと振って来た。

 急な下り坂を駆け足で降り、坂下のパン屋へ向かう。


「あっぶねー。結構濡れるとこだった……!」


 雨が避けられる場所で体中の水滴を少し叩いてから店内に入る。

 いつも置いてあるメロンパンとチョココロネを手に取って店を出た。


「強くなってるじゃんか……傘持ってくればよかったな~。」


 着たときに比べて強くなっている雨に、蓮は右手で目元だけ濡れないようにしながら駆け足で坂を上りだす。


 すると雨をはけさせるための溝。泥に紛れて何かがあるのを見つけた。


 視界の端でとらえたそれを、こんな雨の中であればスルーしてしまいそうなそれを蓮は無視することが出来ずただ茫然と立ち尽くす。


 眼に入ったのは小岩井の使っている紺色の巾着袋だった。


 まさかと思い蓮はパンの入っていた袋をその場で手放して、夢中でその何かに近づく。

 少し泥を避けて持ち上げたのは予想通りの彼女の袋。


 開いて中を見ると、淡い桜色の弁当箱が入っていた。


 動悸が徐々に速くなるのを感じる。


 脳が時間をかけて理解をするたびに、血管が収縮し、血流が速くなる。


 呼吸が浅くなり、体中の血が引いて視界が暗転してしまいそうだ。


 モノクロに見えてきた世界に、蓮が一番恐れていたことが起きていることに気が付いた。


 彼女にまでいじめの魔の手が伸びていたということに。


 いや、考えればすぐに分かっていたんだ。

 でも考えないようにしていた。


 自分がいじめられているのに、傍目から見て一番仲がいい小岩井に被害が無いはずはないのだ。


 一度パン屋に戻ると、パン屋の前の雨を避けられる場所で弁当を広げる。

 朝から丹念に卵焼きを焼いている小岩井の姿を想像する。


 きっと昨日の夕飯にほうれん草のお浸しが入っていたのだろう。

 彩度の低いピンク色の弁当箱ということもあってか、鮮やかに見える食材たち。


 弁当箱の中身は無事なようだったが、箸は泥まみれだった。

 蓮は箸についた泥を制服で拭きとると恐る恐る弁当を口にした。


「ちょっと濡れてる……。」


 こんな状況なのに、少し笑みを浮かべる自分に驚いた。


「でも……、うまいなぁ……。うめえなぁ……。」


 涙がこぼれてくる。

 本当に情けない。

 弱い自分が嫌いになる。


 誰がやったのかなんて分からないから、クラスの全員を順番に殴り殺してやりたい。

 そして鈍感で何もしてこなかった自分を消してやりたい。


 行き場のない憤り。それを食欲として、冷たく濡れた米で流した。


 ――やっぱり好きなものほど、離れておくべきなのかな……。でも逃げてばっかりじゃ駄目だから……。


「おい。蓮……なにしてんだよ……。」

「先生……。」


 蓮が弁当から顔を上げると、そこには大空先生がいた。


 授業が始まる時間になる。

 二人はまた進路指導室にいた。


 チャイムのなる教室の中は静寂であることが正解のような気がして、先生と二人黙って見つめ合う。


「なんであんなとこで飯食ってたんだ。」


 チャイムが鳴り終わるとすぐに、少しだけ怒気の含んだ声が蓮に向けられる。


「外で食べたかったんです。」

「なんでみんなを庇うんだ!素直にいじめられているって言えばいいじゃないか!?」


 ――僕が怒られても困るって……。……いや、先生もどうすればいいか悩んでたんだ……。


 いじめている人たちではなく自分に憤りが向けられている理由が分からなかったが、ようやく蓮は理解した。


「庇ってます。でも自分はそうした方がいいと思ったんです……。」

「……。」


 先生は返事をせず、真剣な眼差しでこちらを見つめている。


「いじめをいじめだと認めてしまえば、ほかの人からの扱いも徐々に悪くなっていく。『きっといじめても良い人なんだ』なんて思い、いじめる人は増えていくばっかりですし、いじめてくる奴らは隠れずにやってくるかもしれません。……逆に先生に言ってもなにもかわらないじゃないですか……。仮に僕へのいじめが無くなったとしたって、代わりの誰かがいじめられる。」


 今回の標的が偶々自分だっただけで、今逃げだして、代わりの誰かに不幸が移るとしたら、それは小岩井なのかもしれない。


 これは自己満足だ。


 エゴで私欲で自己中心的で自己本位でただの我儘だ。


 ――小岩井にはこんな思いをしてほしくない。でも僕はやっぱり小岩井と一緒に居たい。


 こんな矛盾とジレンマが思考をぐるぐると回る。


「だから自分の力だけでどうにかするんです。僕は逃げちゃいけないから、どうすればいいのか考えなきゃいけないんです。」


 言語化すると悩みが消えると、どこかの論文で呼んだことを思い出した。

 だからだろうか、自分がこれから何をすべきなのか、少しわかってきた気がする。


 大空はこのまま蓮の話を鵜呑みにしてもしダメだった時、彼が意地でも自分を頼らないだろうと考えた。


 黒縁眼鏡のレンズの先にある蓮の瞳は、怯えながらもまっすぐこちらを睨みつけていた。

 二人の視線は交差する。


「蓮の言うことは何となくわかった……。確かにできることはやるべきだし、俺としても別に大事にしたいわけじゃない。」


 蓮の顔が少し緩む。そこを付け狙うかのように語気を強めていった。


「期限だ。期限を設ける。そん時になったら、俺は俺でやらせてもらうからな!?」

「はい!」


 大空は嘆息をもらして頭を抱える。蓮はその様子を見て勝ち誇ったように笑った。


「んで?」

「はい?」

「期限はいつだって聞いてんだ!」

「……。」


 蓮は腕を組み左上を向き考える様子を見せる。

 大空はもう一度大きく溜め息をつくと、蓮の全身が濡れたままであることにようやく気が付いた。


「ってすまん!お前濡れたまんまだったな……!と、とりあえず保健室!」


 五限目真っただ中の誰もいない昇降口から、二人は保健室に移動する。

 保健室と言えば授業中にもかかわらず人が多いイメージを持っていた蓮だったが、意外にも教師陣以外は誰もおらず、安心して服を脱ぎ体をふく。


「蓮って意外と良いからだしてんのか?」

「お、ほんとですか?実は僕、八月の記録会で江川と五キロの勝負で再戦しようって約束したんですよ。」

「だから練習中ってわけだな……。最近話してるとこ見ないが、ホントにやんのか?」

「はい。一応勝負はしてやるって言われました……。」

「そうか……、んじゃうちの部員として応募しとく。」

「ありがとうございます……。先生。」


 長袖の体操服のジッパーを首元まで占めた蓮。


 着替えが終わり、保健室の先生にも改めて礼を言った。


「先生!期限を決める期限をください!それまでにどうすればいいか考えます!」

「ああ、わかった。んでそれは……?」

「んじゃあと三週間もしたら夏休みなんで、それまででお願いします!」

「……。言っとくが半年とか、一年とかそんな長い期間は無しだからな?」

「もちろん!」


 途中から話を聞いていた保健室の先生は何の話か分からないといった様子だった。


「あ!先生!お願いなんですけど……コレしばらく預かっててください!」


 蓮は大空へ弁当箱の入った巾着を渡す。


「放課後取りに来るんで……!」

「あ、?わ、わかった。」


 少しだけ清々しくなった顔で、泥だらけの巾着袋を渡された大空先生は困惑した様子でそれを受け取る。


 保健室の先生に二人で挨拶をし、部屋を出る。するとちょうどのタイミングで五限の授業の終わるチャイムが鳴った。


 蓮は急いで教室に戻る。

 廊下を駆け足で通り、黒板側の自分と席から一番遠い教室の扉。


 ガラガラガラと音を立てて開くと、扉の横にあるゴミ箱へ目が行く。


 そこには小岩井にあげた紙袋のキーホルダーがあった。


 先生と話し、考えがスッキリして、勝手に少し現状がマシになった気がしていた。けれどそれは自分が変わっただけで誰かが変わったわけではない。


 自分が変わっても意味がないのだと蓮は悟り、少しひたむきになっていた心は急激に下落した。

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