第15話

 金曜日。ここ最近はずっと、どんよりとした雲に空が覆われている。


 学校が始まってもう少しで3か月が経過しようとしていた。

 毎日同じ時間の同じ電車に乗り、同じ時間の同じ道を歩けば見慣れた顔も何人か出来るのは必然だった。


 歩くのが群を抜いて速い人。

 覇気のない顔をして歩く人。

 いちゃつきながら向かう人。

 走って学校に向かう人。

 野球部のバックを持つ人。


 何も変わらない朝。何も変わらない人々。


 それでも最近自分の朝は一変してしまった。


 たった一、二週間クラスメイトの幾名に喋り方でいじられるようになってから、名前も知らない他人の機微が、えてして自分に向けられたもののような気がしてならないのだ。


 気にするなと言われたらそれまでだが、そんな簡単に割り切れるほど人間は出来ていなかった。


 みんなが自分を笑っているような気がして、怪訝な朝はきっと自分のせいで、友達同士でしゃべっているのはきっと自分の悪口なのかもしれない。


 そんな訳は無いと思いながらも、大声で笑い闊歩する生徒を尻目に蓮は敢えて人の少ないルートを選び、大きく回り道をして学校に向かった。


 人が怖いだけじゃない。


 学校に向かうだけなのに、ただでさえ憂鬱な朝なのに、そこに同じ制服を着た人がいるだけで漠然とした疲れと不安が押し寄せる。


 ――……、なんかもう疲れたな……。


 蓮の学校に向かう足が止まる。


 中学生の時も似たような経験があった。


 その時はただ独りでイヤホンを付けて本の虫となり、休み時間は教室にいないように徹底して人を避けていた。

 勉強や本などひたすらにのめり込めば、それ以上自分は傷つかない。

 そう思ったからだ。


「でももう一人じゃない……。」


 それだけが自分が学校に行く理由で、それだけで前回よりも何十倍も苦しんでる自分がいる。

 独りでいることがどれだけ楽だっただろうか。


「うぃっす。おはよ」


 教室についた蓮は江川席の後ろを通り過ぎて小岩井に挨拶をする。

 席に座ると小岩井から「ん」と一音程度の返事が返ってくる。


 江川とはしばらく喋っていない。


 彼女のバックを見るも、昨日買った紙袋のキーホルダーはそこには無く、気に入らなかったのかと少し落胆した。


「植田植田。見て!」


 彼女の呼ぶ声で蓮は顔を上げる。


「筆箱に付けてん……。」


 歯切れ悪く、恥ずかしそうに筆箱を取り出して彼女はキーホルダーを蓮に見せた。


 蓮はさっきまでの憂鬱が昇華されていくような感覚を覚えながら素直になり切れず、不愛想に「おう」とだけ返事をし赤くなった耳を隠すように頬杖を突いた。


「月曜日楽しみにしとってな……!」


 傍目から見ても機嫌が良さげなその声音に、嬉しさ半分と気恥ずかしさ半分。


 蓮が小岩井から目をそらすと、小岩井と反対側にいる一つ離れた隣の席の江川と目があった。


 眉を少しだけひそめて、口角がへの字に曲がった表情は、目が合うとすぐにそらされてしまう。反らした視線をどこに持っていけば良いのか分からないように江川は机に突っ伏すのだった。


 ――変な奴……。いや、前まで変な奴は僕の方だったし、アイツも同じ気持ちなのかな……?


 自分の時と同じように、もしかしたら悩んでしまって何かを避けたくなる時なのかもしれない。


 そうは思ったものの今話しかけに行くのは、新たな冷やかしの対象にされるような気がしたため一人になるタイミングを見計らって声をかけることにした。


 昼休み。チャイムが鳴ると同時に購買組が教室から廊下を駆け抜ける。

 自分たちの周辺のクラスは基本的に購買から遠い場所に教室があるためか、朝イチのコンビニで商品を買う生徒がほとんどだった。けれど江川はそうでないことを知っていた。


 江川は自分と同じ、昼休みに学校を抜け出しパン屋に行くのが好きな人間だった。

 学校を出るとすぐに急激な坂が待ち受けているため、めんどくさがり行かない人が大半を占めていた。そのタイミングを狙えば一人のところで声をかけることが出来る。


 蓮は江川が教室を出るのを確認して他の生徒にバレないよう忍びながら後を付けた。


「ねぇ!サック!」

「……。」


 一度声をかけてみるも返事がない。聞こえていないのだろうか?


「おーいサック?聞こえてない?」

「聞こえとるわ。」

「何そんなムスッてしてんだよ。」

「してへんし……。」


 あからさまに嫌がるよう、わざとらしく冷たい対応をする江川。

 蓮はそれに対して、出来るだけ機嫌を逆なでしないように愛想よく話題を投げた。


「そういやサックはタイム延びたのか?」

「普通やわ」


 ――「普通」って……。


 反抗期の子供を持つ親の気持ちが少しわかった気分になった。


「俺は最初のころに比べたら伸びた。でも、ここ二週間くらいはずっとタイムが変わんなくてさ……。なんか速くなれる方法とかないか?」

「そんな方法があればみんなやっとるわ。」


 ――まぁそれはそうだよな……。


 なんだかんだ返事をしてくれる江川を見て、蓮は何となく「素直になり切れないだけ」なのだろうと考えた。

 ――わかる……。よくわかるぞ~!その気持ち!


 パン屋で先に買い物が終わった蓮は店を出て江川を待つ。


 二分もしないうちにすぐに江川はパンパンに詰まったビニール袋を手に店を出てきた。


「結構な量買ったんだな……。」


 蓮が少し目を見開き驚いた様子で言うと江川はばつが悪そうに


「パンはすぐに腹が減んねん……。」


 とつぶやいた。


「んじゃ戻るか……。」

「植田。」


 蓮が言い切る直前だった。江川は店の前から動こうとしない。


 江川の口から自分の名字が聞こえたこと。


 そしてその声音と、何よりも曇らせた顔と申し訳なさそうに八の字を作る眉。


 蓮は何となく理解した。


 鼓動が止まって、その刹那に一緒に時間も止まってしまったような感覚。


 江川の視線はずっと下を向いていて目が合わない。


「なんだよ……。」


「……もう、俺に、話しかけんといてくれ……。八月は……一応勝負したるけどもう……。」


「…………、おう……。……分かった。」


 多くは聞かなかった。

 江川の震える口元を見て何となくわかった。


 いじめの標的になりかけているという現実に。


 あくまで「いじめ」ではなく、過度の「いじり」だと信じていた。

 クラスぐるみでなく一部の生徒によるもので、その生徒たちさえ無視していれば良いものだと思っていた。


 けれど違った。

 クラス皆で村八分にでもするかのような対応に変わってきているのだ。


 一瞬強く唇噛み締めたが、悔しい姿を見せることは負けを意味するように感じて蓮は頬を緩めて笑顔を作った。


「それじゃ、俺、先帰ってるから!」


 ここで江川を怒ることも、問い詰めることも「違う」気がしたのだ。

 教室に戻ると小岩井はコンビニの袋からパンを広げて先に食べていた。


「そういえば弁当じゃないって言ってたな……。」

「んー?そうそう!」


 相変わらず機嫌がよさそうな小岩井を見て少し元気が出たような気がする。

 口にパンを頬張っており、口元を手の甲で隠しながら喋る小岩井。


「なにいってんだよ。」


 蓮はそう言って笑って買ってきたパンを広げる。

 パンを買いに行って食べ始めるのが遅かった蓮は、当然周りの人たちに比べて食べ終わるのが遅かった。


 食事が終わるとクラスメイトは各々集まって談笑を始める。


 ――仕方がない。仕方ないんだ……。


 江川との一件を思い出しながら、そう自分へ言い聞かせる。

 するといつかの女生徒たちが蓮の周りに集まる。


 蓮は前回のこともあり、少し身構えてしまった。

 悪意に満ちた笑顔が蓮のことを囲い、揶揄う様に蓮を質問責めする。

 


「なぁなぁ植田君!何でそんな喋り方変なん?」


「やっぱ漫画とかアニメの影響やったりするんやろ!?」


「普通に喋ったらええのに、可愛い子ぶってるん?」


「男やのに女々しいな!」


「なんか喋り方だけで優等生っぽいもんな!」


「先生に媚び売っとるんやろ!」


「そんなアピールせんでええから!」

 


 怖かった。恐怖から声が出なかった。

 自分をあざ笑う声。


 クラス中が自分の話をして、「可哀想」と笑いものにしている。


「ねぇ!なんか喋ってや!」


「ねぇ!」「なぁ!」「おい!」「さぁ!」


「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」

「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」

「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」「しゃっべーれっ!」


 突如として始まった手拍子と、「喋れ」というコール。


「……。」


 声が出ない。


 焦り、恐怖、緊張、戸惑い、漠然とした劣等感。


 この世から拒絶されていないような疎外感。

 まるで世界から死ねと言われているような感覚。


 周囲から向けられる憐れみが羞恥心と、これらの負の感情を急速に増殖させる。


 一瞬この世の終わりなのではないかと思うほどに負の感情が膨れ上がっていったが、すこし心に冷静を取り戻すと考えてしまった。


 ――死ねばいいのに……。

 みんなも、俺も……。

 

 この状態、この教室から逃げだしたいという思いが蓮に強く押し寄せたが、蓮はその場にとどまることを選んだ。

 それは隣に小岩井がいたから。


 自分が標的になっているうちは小岩井が対象になることは無い。


 蓮は強がって笑って見せて「そんなコールされたら余計話しづらいよ。」と言って見せた。


「『話しづらいよ~』やって~!」

「やっぱ変な喋り方~!」

「引くわー」


 馬鹿にした真似をして散々な言われようで、それでも蓮はヘラヘラと笑って見せた。


 女生徒は蓮が反抗しないことを良いことに机を脚で何度も突かれながら寄って集る。


 机はどんどん溝内に寄ってきて、蹴られるたびにあばらへ振動が響くようになった。


 左右の席を視界の端で確認する。


 江川はこちらに背中を向けている。小岩井は両手で口元を隠すようにして頬杖をついていた。

 表情は長い黒髪に阻まれてうまく見えなかった。


 チャイムが鳴るより早く、先生が教室に入ってくる。


「おい……!なにしてんだ!?」


 事前に誰かが呼んだのだろう。

 教室に入ると迷うことなく先生が蓮の席に近寄ってくる。


 ――やめてくれ……。


 周りの注目が、より一層こちらに集まる。


 ――やめて……。


「お前たち何してんだ?」


 先生は女生徒数名に尋ねた。


「いや、先生!植田君喋り方珍しいから皆で聞いてただけなんですよ!」


 女生徒たちは悪びれもなく言った。


 ――大事にしないでくれ……。


「蓮……そうなのか?」


 蓮は一生懸命に笑顔を作った。けれど自分がどんな顔をしているのか分からない。


 せめて声だけでも朗らかに返事をしなければと考え、出来るだけハキハキと「はい!」と返事をした。


「…………!」


 大空先生の歪んだ顔が脳裏に焼き付く。

 悲しみと驚きと絶望。まるで『いじられている』のが自分であるかのような顔をしていた。


 自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。


 一瞬の沈黙がうまれ、この空気を区切るように昼休み終了のチャイムが鳴った。

 集まっていた生徒と教室中の視線は散り、いつもの平穏が訪れる。


 小岩井は誰にもバレないよう、それでも勢いよく立ち上がり教室を出た。


「小岩井……!?」


 蓮もすぐに後を追う。

 先生教卓からそれを見ていたが何も言わなかった。


 蓮が廊下に出ると小岩井の姿はもう見えず、彼女が落ち込んだ時に向かいそうな場所を考える。


 ――屋上か……?


 一つの候補が脳裏によぎる。というよりこれしか出てこなかった。

 蓮は思い立つとすぐに走り出し、初めて出会った屋上へつながる梯子の下までやって来た。


 人気の少ない廊下。近くの教室もほとんど使われておらず、隠れるのに最適の場所だろう。


 曇り空と言えど昼だったおかげもあり、あまり動かされない屋上の扉から舞い散る埃に光が当たって光芒のようになっていた。


 ――この先に小岩井がいる……。


 そんなことは分かっていたが、なんて声をかけたらいいのか分からず蓮はその場で立ち尽くす。


 でも立ち尽くしていても何も変わらないことだけは分かっていた。そして一度未遂に終わった彼女がもう一度フェンスの外に身を投げている可能性を考えると、悩んでいる暇など無かった。


 蓮は必死に脳を回転させて彼女にかける言葉を探す。

 天井の扉に勢いよく手を掛け持ち上げようとする。


「小岩井……!っておっも!?」


 扉の上に小岩井がいるのだろうか。扉は固く閉ざされており蓮は開けるのに悪戦苦闘する。


「小岩井!おい!大丈夫か……!?」


 彼女に扉の上からどいてもらうよう、何度も声を掛けながら鉄製の扉を叩く。


 それでも彼女の意志は固いようで、返事もなければ扉の開く気配はなかった。


 しばらく扉を叩いた蓮は、息を整えながら思考を回す。


 そして『扉の上に彼女がいるならフェンスの向こうには行っていない』ということにようやく気が付いた。


「小岩井……。そこにいていいから聞いて……。」


 出来るだけ小岩井の感情を逆撫でしないよう、優しい声音を作って声をかける。


「その……なんだ……。さっきは、隣にいてくれてありがとう!逃げないで隣にいてくれてありがとう……!僕……、」


 言いかけている途中に小岩井から返事が返って来た。


「助けられへんくって……ごめん……。何も言い返せなくって、ごめん……。」


 泣いている声が聞こえる。

 蓮の思考が停止する。


 それは声の発生場所が屋上ではなかったからだ。


 蓮はその場で梯子から飛び降りて、声の下方向に視線を移す。


 そこには女子トイレの扉。

 半信半疑で扉をノックする。


「小岩井……?」

「なに。」


 返事が返って来た。

 蓮は思わず笑ってしまう。


「ぷふっ。ふはははは!トイレかよ!?」


「なにさ!」


 小岩井の声は泣き声ながらも笑っている様子だった。


「僕……てっきり屋上かと思って……!」


 説明をする蓮は笑いが止まらない。


「私も、そこ空かへんかった……。」


 通りで埃が舞っていたわけだ。

 小岩井も扉を挟んだ向こうで笑っていた。


 お互いに声を出して笑い続けて、しゃべろうとしてもうまく声が出せなかった。


 不思議なことにさっきまで本当に人を殺してしまいそうなほど苛立っていたにもかかわらず、今は清々しくすらある。


 しばらく笑い、笑い切ったころに小岩井が小さくつぶやいた。


「何にも言えんくってごめんな……?」


「んや、いいんだよ。今十分笑ったし……。こんな気持ちになれたのは小岩井のおかげさ。」


 思い出し笑いをしたかのように鼻でクスと笑い「確かに……。」と彼女はつぶやいた。


 お互い無言になる。ふと、いつもならどんな話をしていたか思い出そうとしてみたが、大した話はいつもしていなかった。


「教室戻るか?」


 小岩井に提案する。


「ううん。」


 ゆっくりと女子トイレの扉が開いて、扉の隙間から彼女が手を伸ばした。

 目は腫れていて、それでも照れながら笑っていて、ちぐはぐな表情だった。


 そのまま右手を取られて女子トイレの中に連れ込まれる蓮。


「なっ!?何してんだよ……!?」

「シー……!あんまおっきい声出さへんの……!」


 ささやき声ではにかむ彼女。

 蓮は照れて、何度も大きく頷く。


「わかった。」


 その様子を見て小岩井はまた笑う。


「んはは!あのな?外おったら目立つかな思って……。」

「それでもここ女子トイレだぞ!?」

「ええやん、今私しかおらんのやし……!……ほら!」


 小岩井に手を引かれ、トイレのドアが開かれないように二人でもたれかかり座り込む。


 いつも並んでいる席より圧倒的近距離で、肩まで当たっている。


 蓮は高鳴る心臓を止められず、横を向くことが出来なかった。


「ありがと……。」


 彼女はそうつぶやいた。


「……おう。」


 どういう意味が込められているのかはよくわからなかった。


 人気の少ない校舎の一角の誰もいないトイレの中がとても静かで、曇り空も相まって

 ――時間が止まったみたいだ……。

 世界は、今二人だけのものであると、そう思えた。

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