第8話
テスト勉強を一緒にするようになってから暫くして、テスト四日前になった頃。
江川は蓮と小岩井に頼み込み、勉強会へ参加したがるようになった。
「頼むわ相棒!」
「えぇ?僕に言われてもなー。小岩井に聞いてこいよ?あいつがいいって言うなら良いよ?」
「小岩井さんにも植田が良いって言うならって言われてん!」
両掌を合わせて合掌し、拝むように頭を下げる江川を見て、蓮は小岩井に視線を送る。
それに気がついた小岩井は肩を落とすような素振りを見せて何かを諦めたようなエモートの真似をする。
「まぁ、良いよ。って言ってもほんとに勉強してるだけだけどな?」
「中3の時万年赤点の、あの小岩井さんが真面目に勉強するってだけですげーんだからな?なんかコツとかあるのか!?ヒーリングミュージックとか……!」
――小岩井って万年赤点だったのか……。
昨日一緒に勉強した時のことを思い出すも、赤点の常連だったとは全く信じられない。
詳しく話を聞きたかったが、視線の端に映る小岩井の怒気を感じてそれ以上話題に踏み込むことは出来なかった。
「んで?結局参加するんや?」
放課後になり勉強会が始まる。テスト四日前ともなると四回目となるわけで当たり前のように机を向き合わせる小岩井。
その声音は少し不服そうで、どっちでもいいと言っていたにもかかわらず、江川の参加はあまり好ましいものでは無かったのかもしれない。
「ごめんなー!小岩井さん!」
また合掌をして平謝りをする江川。
「まぁ、別にええけど、ホンマに勉強するだけやで?」
「わかってるわかってる!俺も真面目にやるから!」
そう言うと自分たちのひとつ前の席の机を後ろに向けて勉強に参加しだした。
3人が向き合って勉強を始める。
じっと勉強を始めること30分。
「なー、そろそろ」
「あかん。」
何か言い出そうとする江川を察知して蓮はそう遮った。江川は萎れて「はい。」と言うとまた勉強に戻った。
それから江川がうたた寝をしたり、起きたかと思えば持っていたお菓子を摘んだりしてもう一時間が経過した。
「そ、そろそろ帰らへん?」
江川は恐る恐る訊ねた。
「結構中途半端やからもうちょっとしたいかも……。」
小岩井がそう返事をする。
「んじゃあと三十分位は頑張ろ?」
蓮がそう提案すると「分かった……」とため息をつきながら江川は項垂れた。
あと三十分だと思ってやってみると意外と時間はあっという間にすぎた。
「んああ!終わったぁ!」
「ん。おつかれ~!」
「おつかれさーん」
疲れから今度は三人して項垂れる。
いつもは切り上げるタイミングを蓮が見計らっていたため、今回は江川がいてくれて助かったと感じた。
「相棒ー、ジュース買ってきてー」
「なんでだよ。」
「俺の金で奢ってやるからさー」
そう言われたら背は腹に変えられない。
思い腰を上げて席から立ち上がる。
「小岩井もなにかいる?」
「私はコーヒー牛乳でー。」
「なんでよりによって購買まで行かなきゃ無いもの言うんだよ……!?」
肩を落としながらお金を受け取った蓮は礼を言って教室を出た。
教室の扉をガタンと閉めて廊下に出てから、ふと考えた。
小岩井と江川は中学からこの学校で過ごしていたらしいが、どんな会話をするのだろうか?
他愛も無い会話なのか、それとも中学時代の思い出話なのか。そんなことを考えると少しだけ胸が寒さを知ったようにキュとなる。
まるで恋を知らない人のような発言だが、恋とは言いきれないような、そんな心の小さなしこり。
「まぁどうでもいいか。」
開き直って昇降口前の購買にありつく。
購買は無人で、人の代わりに賽銭箱のような小さな箱が用意されていた。
「お釣りは貰えなさそうだな……。」
正門から出て目の前にコンビニがある。値段は変わらないため蓮はコンビニまで向かうことにする。
思ったより時間がかかってようやく教室に戻ると、廊下から江川の笑い声が聞こえた。
蓮は扉を開けようとする手が止めた。
二人はもともと仲が良かったのだろうか?
そうでなくともスポーツマンで有名らしい江川と居た方が小岩井は楽しかったりするのだろうか?
――僕……邪魔かな……。
誰に言われたわけでもなければ勝手に一人で不安になってしまう。そんな自分が情けない。
例えそうであっても優しい二人はそんな事言わないだろう。
扉の前で立ち尽くしていると、向こう側から扉が開いた。
「おお!相棒!遅かったな!あー、プロテインありがとう!俺部室に忘れ物したから先帰っとって!」
返事を待たず、江川は「またな!」と言って手を振って走っていってしまった。
「またな!サック!」
蓮も手を大きく伸ばして振った。
荷物をまとめた小岩井が蓮の席を戻したついでにそのまま座る。
「何話してたんだ?」
「ん?植田のワルグチ……。」
冗談のつもりで言ったことは分かっていたが、蓮はそれでも多少なり自分が傷ついたのを自覚した。「そっか……。」と返事をするとツッコミがなく焦ったのか少し一瞬焦りを見せながらも、最終的には素直になりきれず「うん」とだけ彼女は返事をした。
彼女は無言の空白を埋めるように身体中をひねり骨を鳴らす。
少しねじれてボディラインが良く見えてしまい咄嗟に蓮は視線を別のものに向けた。そんなことはつゆ知らず、全ての骨という骨を鳴らし終わった小岩井は満足気に「んはぁ」と吐息を漏らす。
「そんじゃ……、帰ろうか。」
「う、うん……。」
二人で夕方6時前の帰路に着く。
日は長くなったようで空はまだ明るい。
感傷的になっていた心に夕日という刃が突き刺さり、気持ちは更にエモさをまし、病みが深くなるのを感じた。
そんな事は忘れようと必死に明るく話、沢山笑うように努めた。
「いや!あそこは絶対出るから覚えといた方が良いって!先生も『ここは出しやすいよ、ネ!』て言ってただろ?」
「うわ!西村先生やろ?ちょっと似てんな!」
彼女も笑っていてくれたが、蓮の心のどこかには、まだしこりは残り続けていた。
「植田……、明日なんやけどさ……。明日も勉強会するやんな?」
そう提案してくれた小岩井の顔は髪の毛に阻まれて上手く見えない。
誘ってくれたのが嬉しくて、でもそれに嬉しく思っている単純な自分がなんだか気に食わない。
「ごめん!明日は用事あるから……!」
能天気を演じて、まるで何事もないかのように提案を断った。
そう拒んでもやはり胸のしこりは大きくなる一方で、これまでの人間関係の軽薄さがここに来て仇となり、自己嫌悪もどんどんと大きくなっていくのがわかった。
――素直になれない自分が嫌だ。
小岩井の「そっか」と言う返事には多少の残念さと、仕方がないというのを悟ったような声音であり、嘘をついた自分を責めている様だった。
当然彼女にはそんなつもりは無いし、用事があるなどと言う嘘を「嘘である」と決めつけられるのは本人以外いるはずもない。
蓮は唇を固く結んだ。
きっとこんなに気持ちが沈んでるのは夕日とテスト前のせいだろう。
蓮はそう思い込むことにした。
その日の夜。自室で蓮は初めて目の当たりにした感情によって押し潰されないよう、必死に机に向かってこの感情を払拭しようとする。
気が付くと日は跨いでいて、蓮はその日、人生で初めて寝落ちをした。
朝七時頃。自動でセットされていたアラームが部屋中に鳴り響く。
化学基礎の教科書の上で起きた蓮はノートによだれが垂れてしまっていたことに気が付いて急いでティッシュで拭く。乾いたノートはそこの部分だけ硬くなり、シミにはならなかったものの明らかに目立つような形になっていた。
「ああもう!何やってんだよ!」
苛立ちから誰もいない自室でそう呟いていた。
登校中。
寝落ちした自分など関係なく、いつもの電車には同じ人が乗っていた。
何となく「それでも地球は回っている」という言葉を思い出した。これは地動説を訴える文を端折った物らしく、この文章だけを見ると意味が変わって聞こえるがそんな事はどうでもいい。
ただ自分はこの文から、「自分は誰かの風景にすぎない」というようなニュアンスがあって好きだった。
何かに大きく秀でても意味なんてない。
出る杭は打たれるだけで、何事も程々が一番なのだ。
自分が何をしようがこの世の何事も帰ることが出来ないなら、この世に影響なんて与えなくても、何もしなくても生きていて良いのだと思えるからだ。
特に病んでいるから考えている訳では無い。
現在進行形で病んではいるのだろうが、昔から自分の中の理論値とそんな会話を繰り広げていて、自分の中での悟りのひとつだった。
だから、弱小チームで頑張る江川も、集中力が凄まじい小岩井も、そんな事に意味はない。
将来なにかの選手になるわけでもなければ、将来歴史に乗るほどの発明家や研究員になる予定もないのだ。
程々に良い成績を取り、将来で苦労しないほどの勉強と運動さえしていればいい。
昔からそう思っていたし、これからもきっとそう思い続けると思う。
そう思うことで、この世の全ての辛さや痛みから開放される。
それではこの、ずっと心の奥にある。巨大に腫れ上がったしこりはなんなのだろうか?
いつもと変わりない時間に教室へ入る。
小岩井はまだ学校に来ていないようで、どこかに安心する自分がいる。
蓮は小岩井が来ても気が付かないように寝たフリをすることにした。
いつも小岩井からは挨拶はしない。だからきっと声をかけられることもないだろう。
その予想は悲しいことに当たってしまい、小岩井と話せないまま昼休みへ突入することになってしまった。
いつもと様子が違う蓮に「どうしたん?」と彼女は声をかけたが、蓮は「今日は寝不足なだけだよ」と言って食事も取らずに寝たフリをした。
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