書庫に毒針

黒田忽奈

書庫に毒針



 ふと深呼吸をすると、木と古書の匂いが強く感じられた。気づかないうちに呼吸が浅くなってしまっていたようだ。


 僕はペンを置き、両手を組んで頭上に持ち上げる。硬直した背中の筋肉が息を吹き返す感覚がした。ついでに首も回せば、高い天井に吊り下げられたガラス製の照明が僕の顔面を照らす。不愛想な蛍光灯とは違い、美麗な装飾の照明と暖色の明かりからは、テスト勉強に悩殺されている学生を労わるような雰囲気が感じられる。


 机上に置いてある携帯の時計を見れば、前回見たときより数十分は経過していた。よく集中できていたようだ。


 眼前に広がるのは、何冊ものノートと教科書と参考書。図書館の広い机であっても、これだけ参照する書物が多いと手狭に感じるものだ。


 僕はふと、机の対面に座っている同級生・白岩を見る。彼女はいつ限界を迎えたのか、長髪を机に広げて突っ伏してしまっていた。ばらけた毛先が広がり、頭足類のようなシルエットだ。イカか、タコか、くらげか。くらげは頭足類ではないけれど。


「白岩さん。起きて」


 小声で呼びかけるが、眼前の海産物風は反応しない。机の下の脚を小突いて起こそうかとも思ったが、素直に肩をつついて起こすことにした。僕が軽くたたくと、白岩がモゾリと蠢く。やがて白岩は緩慢な動作で起き上がったが、寝起きなので目の焦点が放散していた。恐らく何も見えていない。赤くて太いフレームの眼鏡が顔に斜めに引っかかっていた。


「……種子島さん」白岩がやっと呟く。そうです。僕は種子島です。


 本日図書館で勉強したいと言い出したのは、白岩の方からだった。学生というものは誰でも何時でも定期試験に追われているもので、僕等も例外ではなかった。そんなもんだから、白岩は僕と一緒に図書館に籠ることを僕に提案してきた。放課後から、閉館時間までみっちりとだ。


 しかし言い出した白岩はもう満身創痍といった感じだった。時刻は閉館まで一時間を切るような頃合いであり、窓の外は濃い藍色に染まっていた。学校から直行して今までずっと勉強していたのだから、そりゃもう疲れる。僕だって寝てしまいたいほどに疲れていたが、テストへの危機感が剣山のように僕の背中を刺していたので、眠気よりその緊張感が勝って起きていられた。


「……眠気覚ましに館内を散歩をしてきます」


 白岩は一方的にそう呟くと席を発ち、フラフラと歩いて行ってしまった。


 まぁ、リフレッシュも必要だろうと思い、僕も休憩することにした。何とはなしに、理科の参考書の巻末に付属している生物の写真を眺める。


 毒蛇の写真があった。飼育する人もいるそうなのだが、どうして有毒な生物を飼おうという発想に至るのだろう。理解できない。



 十五分経過したが、白岩が席に戻ってこなかった。僕はやや不安を覚える。もしや眠気に耐えかねて館内のどこぞで行倒れているのではないかと思い、僕も白岩を探すために席を発った。


 ここの図書館は結構大きいが、迷子が出るような広さでもない。それなりに身長のある白岩は本棚の海に溺れることもなく、すぐに見つかった。


 白岩は貸出カウンターの近くの、展示コーナーの前に立っていた。コーナーには通常の蔵書以外の雑多なものが並べられており、棚には今週ないし今月発刊の新聞や雑誌が陳列されていて、誰かが折った折り紙の作品や、近所の小学校の生徒が作ったらしい稚拙な壁新聞なども掲示されていた。「す」の字が反転していて可愛らしい。棚の脇には蔵書を検索するための端末もあった。黄色に変色した、化石みたいに分厚いデスクトップパソコンだ。


 白岩はそんな棚のうち、円盤状の水槽をぼんやりと眺めていた。何故図書館の中に水槽がディスプレイされているのか知らないが、一際異彩を放っている。


「白岩さん?」呼びかけてみる。


「種子島さん、見てくださいこれ。くらげがいます」


 水槽の中には、何匹ものくらげが漂っていた。円形の水槽を、円弧を沿うように循環している。棚の暗い背景を透過している水槽に対して、真っ白なくらげは美しいコントラストを表出させていた。水槽の天面には照明が備わっており、そんなくらげたちを儚げに照らしている。


「……綺麗です」


 そうつぶやく白岩の眼鏡の分厚いレンズにも、くらげが数匹泳いでいた。


「そうだね」


 七月も佳境に入る頃合いのここ数日は蒸し暑いが、くらげを眺めているとどことなく涼を感じる。陽も落ち停滞した雰囲気が漂う図書館に、低速に泳ぎまわるくらげはどこか似つかわしくて、いつまでも見ていられるような気がした。


 しばし、水槽のポンプが水泡を生む音だけが僕らの沈黙を埋めた。


———じゃなくて。


「白岩さん、席に戻ろう」


「……(露骨に嫌そうな顔)」


 そんな顔されても。


「テスト前だからってここ来たんでしょ。勉強しなきゃ」


「……今日はもう十分勉強しました」


「閉館までまだ少しあるよ。頑張ろう!」


「……ちっ」


 舌打ちすんな。


 結局、白岩はここからさらに十分くらいくらげを鑑賞してから席に戻ってきた。



 図書館を後にしたのは、僕等が最後だった。外は漆黒で、今日は月が良く見えた。満月かは分からないが、かなり円形の銀色の月が浮かんでいた。


 僕と白岩はならんで帰路を往く。当然帰る先は別々だが、途中までは同じ道を辿るのだ。


 僕等が住む町は、海沿いに位置している。道の左手を見れば、巨大な生物のような黒い海が、有機的にその身を捻じりながら、きっと遥か遠い隣国を水平線の下に隠して、際限なく広がっていた。波が立つ度に、月と街灯の光が海を縁取る。


「私、くらげって嫌いでした」


 突如、白岩が沈黙を溶かす。声は小さいが、波以外の音がしない中では十分に聞き取れた。


「小学生の頃、海で遊んでいたときに、友人がくらげに刺されたことがありました。彼女はそれで酷く痛がっていて、それからくらげが怖くなりました」


「うん」


「ですが、今日見た彼らは、とても綺麗に見えました。驚きました」


 白岩は僕の方を見ているが、その視線は僕というより、僕の奥の海に注がれている。


「くらげは漢字では『海月』と書くこともありますね。確かに……水面に映る月はくらげの様にも見えます」


 黒い海の中には、月が泳いでいた。夜空に固定されている本物の月とは違い、海月は波に揉まれ、命みたいにユラユラ。


 ユラユラ。


「……僕の考えだけど、白岩さんがくらげを綺麗に見えたのは、水槽に入っていたからじゃないかなって思うんだよ」


 白岩がこちらを見る気配がした。僕は前を見ながら何となく喋る。白岩に喋っているのではなく、自分の考えを整理するために喋っていた。


「海でくらげに遭うのは危ない。この町だと誰でも学校で習うことだよ。だから、くらげを好きになるはずが無いんだ。でも、水槽に入ってるくらげは綺麗だよね。それって、くらげの危険性を棚上げして、その綺麗な面だけを取り出して、安心して見ることができるからじゃないかな」


 くらげは一般的に、危険な生物として認識される。思い返してみれば、くらげがモチーフのポ●モンも物騒なやつが多い。毒、毒、霊、霊、毒だ。


 ちらと、海月を方を見る。当たり前に綺麗だ。その生物が相当綺麗じゃなきゃ、名前に「月」なんて漢字を当てないだろう。「月」というものは日本人にとって特別なものだから。


「僕が人間の凄いと思う点は、その生物を外見だけを楽しみたいなら、どんな生き物でも捕まえてしまうところなんだよ。くらげは人間を刺す、なら水槽に閉じ込めよう。熊は可愛いけど人間を殺してしまう、なら檻に閉じ込めよう。蜂でも、毒蛇でも、そこにそれを鑑賞したい人がいるなら、人間はどんな生き物でもその危険性をゼロにして、良い外見だけを楽しめるようにしてしまう」


 鑑賞の対象が、毒を持ち、水中でなければ生きられないような生物であっても、人間はそれを地上に持ち出す。水とは無縁の、図書館の中にまでも。


「もしもこの世界に、神様や悪魔がいるとして、人間はそのような存在も捕まえて、籠に閉じ込めるのかな」


 檻にはプレートが付いていて、神や悪魔の説明が付いていて、触らないでくださいとか書いてあって。一日に何回か餌を与えて。そういえば、もしも虹が生き物だったらきっと人間に捕まっていただろうと言う小説家がいた。あの人も、こんな風に考えていたのだろうか。思考が益体も無い方向へ飛んで行く。荒唐無稽なことを言っている自覚があった。


 白岩は僕に口を挟まなかったが、僕が黙ると静かに言った。


「もしそのような存在がいれば、そうするでしょうね」


「やっぱりそう思う?」


「もしいれば、の話です」


 人間は勝手に生物を捕まえ、勝手にそれを憂いている。しかし、くらげの無垢な漂い方を見ていると、彼らにとって、置かれる場所などどうでも良いのだろうとも感じる。


 彼らは何を思って水槽に舞うのだろう。今日も明日も明後日も、人間が神様を捕まえる足掛かりとして、書物の間に毒針が泳ぐ。


〈了〉

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