第六話 悔恨者の誘い
夕焼けに照らされる静かな町並み。組合にあれだけ多くの人が集まっていたとは思えない程、辺りは静寂に包まれている。空を見上げると茜色に染まり、日が沈もうとしていた。春先だからか、暗くなるのも早い。俺は足早に帰路に就いた。
街灯が点き始めた暗い道を歩き続けると、二階建ての寂れた
「こんばんは、相田さん」
建物に近付き、錆びた鉄骨の階段を上がろうとすると、誰かに声を掛けられた。後ろを振り返るとそこには、この借家の大家が立っていた。
彼は
「…こんばんは、大家さん」
「探索者としての仕事お疲れ様です。今日も一日、大変だったと思います。ですが、私はこの建物の管理人。ここの土地代と物件の維持には金がかかるのです。さて相田さん、早速ですが家賃の支払いをお願いしたいのですが」
「……」
はっきり言おう。俺はこの大家のことが心底、苦手だ。嫌いと言い換えていいかもしれない。この人は俺に出会うと、いつも家賃の支払いを催促してくる。今まで毎月の支払いは一度も滞ったことはない。だが、それでも難癖を付けるように、何度も家賃のことを口に出す。九年前に探索者となり、この借家に住むようになってからも大家の言動は変わらない。
「大家さん。先日、お渡ししたばかりでしょう? 今月分の家賃はもう支払っています。それよりも俺は仕事で疲れているので、早く部屋に戻りたいのですが」
「ほっほっほ、そうでした。いやあ、失敬失敬。指摘していただいてありがとうございます。年を取ったせいか、物忘れがよくありましてね。相田さん、どうぞ部屋に戻っていただいて結構ですよ」
「では、失礼します」
「……口がよく回るクソガキが」
大家に一瞥もくれず、階段を上がっていると聞こえる陰口。あの大家は知らないだろうが、俺は常時、魔力を体に流し続けている。だから、小声でボソボソ喋ろうがハッキリと言葉を聞き取れる。というか、
そんなどうでもいいことを考えながら、二階を上がると道の突き当たりまで移動した。目の前の錆びた扉に書かれた“二◯五号室”の文字。俺は背嚢から部屋の鍵を取り出すと、ドアノブの鍵口に差し込んで回すと玄関を開けた。
「ただいま」
誰もいない真っ暗な家に帰宅の言葉を溢す。返事がない、しんとした空間を横目に玄関を閉める。手早く安全靴を脱ぐと家に上がった。
小部屋に移動して照明を点ける。使った武具を立て掛け、背負っていた
リビングの照明を点けると台所に近付く。アルミホイルに包まれた肉を調理台の上に置いた。中を開くと、太もも程の大きさの分厚い肉塊が目に入る。気を遣ったのか、かなりの量を持たせてくれたようだ。川上さんには感謝しないと。
近くに置いてある包丁を持つと、肉を薄く切り落とす。残りはアルミホイルでまた包み、冷蔵庫の中に入れた。昼にたらふく食べたから、夕食は少しあればいいだろう。
吊り下げられたフライパンを
ジュージューと音を立てて、肉が焼ける香ばしい匂いが広がる。赤みは引き、しっかりと火が通っている。焼き加減も丁度よさそうだ。戸棚から醤油を取り出すと、蓋を開け軽くひと回して肉を皿に移した。テーブルに料理を運ぶと手を合わせて感謝の言葉を口にする。
「いただきます」
さて、食べるか。
薄切りにした猪肉を箸で掴むとそのまま口に運ぶ。うん、美味い。塩胡椒と違って甘さのある醤油の味付けが脂身の甘さと溶け合い、くどさのない柔らかな風味を引き出している。
これは少しと言わずに、もっと用意してもよかったかもな。そう心の中で思いながら、調理した猪肉を平らげた。
「ごちそうさまでした」
食べ終えたら、素早く後片付けを済ませる。脱衣所に移動して服を脱ぐと、服を手に持ったまま浴室に入った。シャワーヘッドから温水を出して、体に軽く水を当てると石鹸を使って髪と体を洗う。洗い残しがないか確認したら、水で泡ごと汚れを落とす。
次に着ていた服を水で濡らし、石鹸を軽く塗り込むと手で揉み洗いしていく。家に洗濯機はあっても洗剤がない。手間が掛かるが、手洗いをして少しでも生活費を浮かせないと。
考えごとをしている内に程々に手洗いができたので、服に水を当てて汚れを落とした。びしょびしょに濡れた服をきつく絞り、水分をなるべく出した。
ヘナヘナになった服を手に持ち、シャワーヘッドから流れる水を止めて、すぐに浴室から出た。脱衣所に予め用意していたバスタオルを使って体を拭く。髪も丁寧に拭いているが、普段から石鹸を使用している影響で髪がゴワゴワしている。ちゃんとした洗髪剤がないから仕方ないことか。
体を拭き終えて洗濯物を干すと
「ふわぁぁぁー」
朝早くに起きて仕事に向かったから、疲れが一気にきたのかもしれない。急な眠気を我慢して、寝る支度を始める。
洗面台に向かい、軽く歯磨きをする。リビングに戻り、隅に畳んである布団を広げると照明を消して布団に入った。微かな温もりを感じながら、意識は遠のいていった。
◇◇◇
「…眩しい。なんだ? もう朝か」
鬱陶しく感じる程の強い日差し。起きろと言わんばかりの光に釣られて、ゆっくりと目を開ける。そこには見慣れた天井がなく、雲一つない青空が悠々と広がっていた。
俺は勢いよく上体を起こすと警戒するように周囲を見渡した。辺り一帯は山地が多い日本では珍しく、なだらかな草原がどこまでも続いている。
警戒を解いた俺は起こした体を後ろにゆっくりと倒した。背中に伝わる雑草のクッションに身を委ねてただ、ぼーっと空を眺める。草花の新鮮な香りが鼻をくすぐり、動物たちの楽しげな声を聞きながら、この不可思議な場所で寛いだ。
こんなに穏やかな時間を過ごすのはいつ振りだろう。父さんや母さんが生きていた頃、こんな日々を送れていた気がする。俺があのとき死んでいたら、きっと、ここみたいな安らげる場所に行けたんだろうな。
取り留めのないことを考えながら、綺麗な青空を眺め続けていると、そよ風が吹き始めた。草花を揺らす程度の軽風は撫でるように俺の体を通り抜けていく。
春先の風にしては肌寒さを感じず、ほのかな温かさを感じるくらいだ。ただ、風は徐々に勢いを強めて幾度も吹き続けた。断続的に吹き続ける風を不思議に思い、俺は風が向かう先を見てみようと立ち上がった。
前方に目線を向けると先程とは違う大きな変化が起きていた。なんと草原の奥に先すら見通せないくらい、深く大きな森ができていた。
待て、見渡せるくらい広い平原に森がいきなり現れるなんておかしいだろ。それもすぐ正面の遠くない距離に。…遠くに離れよう、あの場所に関わるべきじゃない。
そう思っていても、なぜか森から目は離せず、意識が向いてしまっている。そして、誘われるように俺の体は勝手に森へと歩き出した。
なんで体が勝手に!? あんな不自然な場所に向かうんだ! ダメだ、力を込めて抵抗しようとしても指先一本すら動かせないっ。なにかが体を動かしているとでも言うのか…。
どんどんと体は森へと近付いていく。どれだけ反発しても意に介さぬようにただ前へと。そして、目の前を覆い尽くす巨大な森の入り口に辿り着いたとき、まるで束縛が解かれたように俺は体の自由を取り戻した。
……一体なんなんだ。なんらかの力が働いて俺をここまで連れてきたとでも言うのか。いや今、気にすることじゃない。もう体は動かせるんだ、早くここから離れよう。
踵を返して森に背を向けて歩き出した瞬間、何者かの気配を強く感じ取った。後ろを振り返って森に視線を向ける。生い茂る樹木が連なり、奥が見通せないのは変わらない。しかし、この森の奥に確かな気配を感じる。
『無念だ。仕えた国に裏切られ、慈しんだ領民たちや部下も皆、殺された。愛した人々、守るべきものを私は全て失った…。今、言葉を喋る私はなにも残すことができなかった、ただの骸そのものだ』
「誰だ? 誰が話しているんだ」
独り言を呟くように誰かの声が聞こえてきた。遠く離れているのに耳元で話し掛けられていると勘違いする程、はっきりと言葉を聞き取れる。恨み言のように一瞬、聞こえたが違う。これは深い後悔の念を伝えてくる、ただ寂しげな心情の吐露だ。
『だが、もう一度機会があるのならば私は迷わない。我が領民を、我が部下を。次こそは大切な物を取り
声の主は先程とは打って変わり、揺るぎなき覚悟を持って信仰する神にやり直しの機会を求め、請願していた。
女神……。
「あの! あなたのことを俺に教えて!?」
俺が声の主に尋ねようとしたとき、突然、強烈な風が吹き付ける。風によって落ち葉が舞い上がり、まるで森を閉じるかのように入り口を塞ぎ始めた。身動きが取れない中、風の勢いはどんどん強まり、遂に目も開けられない程の強風を受けて、俺の意識は徐々に遠のいていった。
『………………』
◇◇◇
「ハッ!? ……あの場所や声の主もいない。ということは夢だったのか」
勢いよく体を起こすと毛布に包まれた下半身が見える。念の為、周囲を確認したが色落ちした天井に黄ばんだ壁が見えただけ。つまり俺がいるのは借家で、体験したあの出来事は夢だったわけか。
「悪夢じゃなかっただけマシか」
気を抜くように肩を下ろす。枕元に置いたスマホを確認すると、時刻は朝の七時を指している。寝汗でびしょ濡れにならない目覚めは久し振りだ。それによく眠れたのか、体の怠さが取れている。
立ち上がり、ぐーっと伸びをすると朝食の用意に取り掛かるべく体を動かす。習慣化された行動をする中で、一つだけ気になることを思い出していた。
“……そして、叶うなら私が
あの吹き荒ぶ強風の中で聞こえた声の主の言葉だ。彼にどんな事情があったのかは分からない。でも、あれだけの覚悟を持っている人物が国に裏切られても、また誰かに仕えたいと言っていた。その言葉にどこか矛盾を感じながらも俺は
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