第二話 狩猟と依頼人
雑木林の中、俺は身体を深く屈めていた。幹の太い樹木に隠れて姿勢を低く保ち、討伐目標が現れるのをじっと待ち続けている。
カサカサと落ち葉を掻き分ける微かな足音。餌でも見つけたのか、木々の間を動く大きな影を捉える。ソイツは警戒心すらない様子でのそりのそりと姿を現した。
ごわごわした茶色の体毛に、でっぷりと肥えた体躯。口から伸びた鋭い一対の牙、そして体表に付着した大量の土。間違いない、魔素適応在来種、
俺と猪の距離は遠くない。気付かれないよう、その場を動かずに様子をじっと観察する。すると猪は膝を折り曲げて
だが、俺にとっては人馴れしていようが関係ない。右手で柄を握り、鞘から剣を静かに抜き出す。盾の革帯を握り締めて、覚悟を決める。
やるなら、今だ! 素早く駆け出して猪に迫る。握り締めた剣に
猪は突然の行動に焦って、付着させた土を鉱物のように硬化させた。
だが、遅い。俺は剣を勢いよく猪に向かって振り下ろした。剣は硬化させた土ごと容易く胴体を切り裂いた。猪の体から鮮血が飛び散る中、顔を顰める。
手応えは感じたが、骨ごと叩き切った感触がない。不意打ちすることに集中して、踏み込みが少し甘かったか…。
「ブヒィイイイイーーー!!!」
猪は傷付けられた事実に怒ったのか、大きな鳴き声をあげた。体から血を撒き散らしながらも目は血走り、鼻息を荒くしている。深手を負って狂乱状態に陥ったようだ。俺に向ける敵意を隠さず、剥き出しにしている。父さんはよく言っていた。手負いの獣が一番、危険だって。
しっかりと盾を構えて魔力を込めていく。
土纏突撃猪の突撃は、分厚い鉄板を容易く突き破る威力だ。だから、受け止めるのではなく流す。突撃を受け流す為、盾を覆う魔力を流線状の形になるよう想像する。
怒り狂った猪は体表の土を顔全体に集中し始めた。顔を覆う土は幾重にも折り重なり、装甲を思わせる形状に変化した。牙にも土が纏わり付き、大きく尖った槍の如く変化した。猪は前足で軽く地面を蹴ると、構えるように前傾姿勢をとった。──突撃が来るっ!!
砂煙を巻き起こし、目視するのも難しいスピードで迫ってくる。このまま目で動きに反応すると、猪の突進が直撃する。俺は視界に頼らず、感覚に従って体ごと盾を斜めに動かした。
動いた直後、構えていた盾に凄まじい衝撃が伝わる。あまりの威力に体を大きく揺さぶられるが、力負けすることなく、突撃に耐え切る。
革帯を握る腕が僅かに痺れ、じくじくと痛み出す。盾越しに抉られるような、この感覚。牙が盾に掠っただけでこの威力かっ。
「ブビィィィ」
猪は周囲の木を薙ぎ倒しながら、立ち止まった。どうやら必殺の一撃を往なされたことに苛立ち、不機嫌そうに鳴いている。だが、攻撃に集中した代償か出血が止まらず、足先が震えている。体表を土で深く覆えば止血できた筈だ。それでも、
「一撃で止めを差してやれなかったのは俺のせいだ。ごめん、無駄に苦しめたよな。次こそは楽にしてやるから」
盾と剣を強く握り締める。身体から魔力を引き出そうと強く想像する。すると魔力が身体から大きく溢れ出すのを感じる。そのまま引き出した魔力を全て盾に集中させる。一撃耐え切ればいい。後は、アイツを楽にする為の僅かな力で事足りる。
猪の様子が変わった。怒り狂っていた先程とは違う、死を覚悟した力強い目付き。猪は衰弱し震え出した身体で再び、前傾姿勢をとった。前足で地面を軽く蹴ると、凄まじいスピードでまた向かってきた。
俺は盾を正面に構えたまま猪同様、前へ駆け出す。あの威力だ、もう逸らしたところで意味はないだろう。なら、盾に込めた魔力で、あいつの攻撃を正面から受け止める!
猪が
魔力は感覚と想像の世界だ。自分の感覚に従って魔力を動かし、想像力を持って変化させる。盾に貼り付けるように何十にも薄く重ねた、魔力の塊。それをお前の牙に直接、叩きつける!!
俺は盾を大きく前へ突き出した。硬いモノに当たった感触と同時にバキンッという割れた金属音が鳴り響く。お互いが勢いよく打つかったからか、へし折れた牙が宙を舞って飛んでいく。
「ブギィィィィィィッッ!??」
猪は大きく後ろへ仰け反り、
先程とは真逆で魔力を込めた盾が衝撃ごと相殺し、猪の牙に打ち勝った。打つかり合った衝撃は全て猪に向かったのか、ふらふらと体が揺れて目の焦点も合っていない。
これ以上、長引かせるのはコイツに悪い。俺は剣を水平に構えて腕を引いた。そして、猪の眉間に向けて鋭く剣を突き出した。
「プギュゥゥゥ」
剣は猪の脳天を綺麗に貫いた。直後、猪は痙攣を起こしたように体がピクピクと動いていた。しばらくすると動きは止まり、静かに息絶えた。俺は倒した猪に向かって軽く手を合わせる。
「苦しませて悪かった。あの世では安らかに生きてくれ」
合掌を終えると、猪に突き刺さった剣を引き抜く。体から抜き出した剣には、べったりと血がこびり付いている。紙を使って拭き取れば確実だが、手っ取り早い方法を使おう。
刃の内側に魔力を込めて外側へ軽く押し出し、血だけを分離するというやり方だ。剣に魔力を流すと、刀身に付いた血が流れるように地面に滴り落ちていく。軽く血振りを行い、剣に付いた血が綺麗に取れたことを確認すると鞘に納めた。
周囲の警戒を行い、なにもいないことを確認すると、背負っていた背嚢を地面に下ろして中からスマホを取り出す。依頼人に依頼達成の報告をする為、電話を掛ける。
「もしもし、相田です。お受けした依頼は無事、完了しました。」
『もう終わった? 相変わらず仕事が早いな、ゆう坊。どうだったい猪は?』
「成人男性と同じ大きさのよく肥えた個体でした。この大きさになると、川上さんの場所まで運ぶのは骨が折れそうです」
『そいつぁ、大変だ。俺も現場に向かうからよ、ゆう坊はそこで待っとけ。軽トラでかっ飛ばしてくるからよ』
「今からここに来るんですか!? 川上さん、危ないから現場に来たらダメですって。……川上さん、聞こえてます? もしもーし。ああ、通話が切れてる。本当に活発な人だ」
「よう、待たせたな」
俺の目の前にいる、さっぱりとした性格の御仁は
白髪が混じりの短髪。厚着をしている為、分かりにくいが無駄な贅肉が付いていない筋肉質な体。痩せこけた頬と鋭い眼光のせいで、初対面の相手はヤクザと勘違いしてしまう凄みを持っている。
「川上さん。現場まで
「ゆう坊、それはダメだ。世界が変わってもコイツらは変わらねぇ。知ってるだろ? 野生の獣には見えない雑菌がうじゃうじゃいやがる。無理して扱って、
「川上さん……。心配しなくても俺、ちゃんと軍手は持ってますよ?」
「アホ、軍手しててもよ。まあ、一人より二人だ。一緒に運ぶが」
「分かりました」
俺と川上さんは猪の手足を持って、軽トラまで運び始めた。山の麓近くで仕留めた為、幸い距離はそこまで遠くない。
猪を持って山をゆっくりと下っていく。緩やかな傾斜ではあったが、足を取られないように気を付けた。上りより、下りの方がスピードが乗る分、危ないからな。
下山すると、近くに停めてある川上さんの軽トラを見つけた。軽トラに近付くと二人掛かりで四苦八苦しながら、猪をなんとか載せ終えた。ロープを使って、荷台からズレ落ちないように固定すると、俺たちはようやく一息吐いた。
「はぁはぁ。しかしよ、えらく重くなかったか? こいつ、どんだけ食い漁ったらこんなにデカくなんだよ」
「魔素適応した個体です。世界が変わる前なら、ここまで大きく成長しなかったでしょう」
魔素適応。十年前、異界から
ただ、全ての生物が魔素適応できたわけじゃない。日本において、魔素適応した人々の数は約三割程と言われている。つまり、力を持った生物を駆除できる人手が足りないんだ。特に地方なら、尚の事。それに探索者としてやっていくなら依頼を受けず、
「俺にはそれだけじゃないと感じるがね。見ろ、野生の獣にしちゃあ毛並みが良い。色艶もそうだ。天敵が少ない在来の猪とはいえ、こうまでなるかい」
「コイツ、警戒心がなかったんです。まるで人馴れしてたみたいに。もしかしたら、以前は人に飼われていたのかもしれません」
「……そうかい、納得したよ。昔から、この辺りは人が少ねぇ。子供もいねぇんだ、野生の獣を可愛がることで手前を慰める奴もいる。ペットじゃねぇ、こいつらは人が思うよりも長く生きる。魔素適応した個体は更に長く、図太く生き残る。それもこれも人間様の自分勝手な憐れみから滲み出る、傲慢さによってな」
「……川上さん」
日本には増え過ぎた動物を自然淘汰する為の捕食者が少ない。だから、人間が捕食者の役割を演じなければいけなかった。主に猟師がその役割を担い、バランスを保とうと獣たちを駆除し続けた。だが、魔素や魔力の存在が既存のルールを破壊した。
曰く、魔力を持つ全ての存在は魔力を持たない者の攻撃を受けない。これは世界が変わった後、各国に周知された事実だ。魔素適応した在来種、外来種を問わない、あらゆる生物に銃や爆発物、核兵器ですら通用しない。なぜなら魔力を通さない代物だからだ。
銃ですら、かすり傷一つ付かない生物を倒す手段は限定された。つまり、魔力を通せる武器を使うことだ。それらは皮肉にも弓や刀剣類といった、かつて主流だった文明の過去の遺物だったんだ。
「湿っぽくなっちまった。ほら、ゆう坊も乗ってけ。さっさと町に戻ろうや」
「では、甘えさせて貰います」
「おう。乗ってけ、乗ってけ」
一緒に軽トラに乗り込む。川上さんはハンドルの下部に鍵を刺して、エンジンを動かす。マフラーから出るガソリンの排気音がよく聞こえる。シフトチェンジを手慣れた様子で行うと、ゆっくりと車が動き始める。俺たちはひび割れた道路を進み、山を後にした。
◇◇◇
車内の窓越しに流れゆく景色を眺める。人口が大きく減り、放棄された田畑や家屋。のどかな田舎という風情は消え去り、手付かずとなった廃村をこれでもかと見せ付けられる。
「ゆう坊よう、この仕事を初めて何年経った?」
「九年です」
「…九年か、そりゃあ年を取るわけだ。さっきも話したがよ、この辺は元から人が少なかった。だが、
「“家族の誰かが亡くなった災禍”、いつの間にかそう呼ばれているようですね。誰が言い出したか分かりませんが、的確な言葉だと思います。十年経っても俺自身、過去に囚われていますから」
異界現出によって、あまりにも多くの人々が亡くなった。十年前、少子高齢化が社会問題として議論されていた状況で三割の人口が消滅した。これは深刻な問題となり、各地域ごとの男女比に大きな偏りが生じている。心に深い傷を負う、多くの未亡人と
「ゆう坊……。愚痴を言ったみたいで済まねぇ。相田家には俺もよく世話になった。猟師として食えてきたのは光さんのおかげだ。余所者だった、あの人が地元や俺たちを支えて続けてくれたんだ。本当に
「気にしないで下さい。その言葉を聞けば本人はとても喜んだ筈です。飄々としていても思い遣りのある父でしたから」
「……そうだな。これ以上、湿っぽい話はナシにしよう。そろそろ家に着く、荷下ろしを手伝ってもらっていいか?」
「ええ、勿論です」
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