第十四話 ただひとり
“……っ。う、と。憂人っ!”
誰かに名前を呼ばれた気がして、瞼をゆっくりと開いた。ぼんやりと正面を見ると明るさはなく、ただ真っ黒に塗りつぶされていた。
「あ、れ?」
ずっと一点を見つめ続けていたからだろうか。気付くと意識を失っていた。目覚めるとまた目の前に広がる暗闇を見続けた。使命や義務があるわけでもないのに。そして考えもなしに同じことを続けて、何度も何度も気を失った……。
どれほど意識を失ったのだろう。数えることすら出来ていない。でも気を失い続けたお陰だろうか、頭が動き始めたように思う。なぜなら、これまで感じたことのない強烈な違和感を覚えたからだ。体の節々から鈍痛が走る。ズキズキといや、ハンマーで体を叩かれ続けているような絶え間ない痛み。本能が遮断していた痛覚を呼び覚ましたんだろう。
ああ、痛い。死ぬ程、痛い…。少し力んだだけで、言葉にならない激痛が襲ってくる。痛む手足をそれでも、なんとか動かそうとした。しかし、全身になにかが重くのし掛かっているせいで体をうまく動かせない。
体の鈍痛に呼応してか、頭が割れるような痛みが生じる。少しでも痛みを紛らせるようにふと思った。父さんと母さんは助かったのだろうかと。
「……ああ、そうだ。俺たちは高層ビルの倒壊に巻き込まれて、生き埋めになる覚悟をした。そこで意識が途切れて、それで!?」
不明瞭だった思考が研ぎ澄まされていく。あのとき、二人は俺の近くにいた。ならここから遠くない場所へきっといる筈だ! そうに違いない。
痛みに耐えて体を動かそうと懸命にもがいた。身を捩ることさえ、出来ない状況に苛立ちが募る。それから幾度も体を動かそうと試みた。だが、ここから抜け出すことは叶わなかった。
諦めきれない俺はあれから、また何度も体を動かした。間を空けず、動き続けたお陰か片腕の自由を取り戻した。しかし、瓦礫に圧迫されていたせいか、あまり力が入らない。
「なんだ、この感触?」
ずっと体を動かし続けた影響だろうか、押し潰されている背中側が生温かい。ぐっしょりと湿り気を帯びているように感じる。でも不思議なことに背中側の痛みは、四肢の痛みに比べれば遥かに軽かった。
「父さん、母さん。何処にいるんだよっ」
出来るなら叫び声をあげて父さんたちの居場所を確認したい。でも、あの化物共がまだ近くにいることを想像して、大声を出すことを躊躇った。せめて、今いる場所の状況を把握出来れば……。
「なん、だ。あれ?」
周囲を見渡す為に顔をムリヤリ横に向ける。そこには“腕”があった。手を軽く伸ばせば届く、ほど近い距離に。その腕を見たとき、言いようのない焦燥感に駆られた。片腕を必死に動かし、手を伸ばした。力が入りにくいことにもどかしさを感じながら、腕を掴んで目の前まで近付ける。手は女性らしい線の細さと柔らかさがあった。
目を凝らすと指に暗闇でも薄らと光る指輪が嵌められている。薬指に付いていることから、これは恐らく結婚指輪だ。俺はなぜか指輪から目を離せず、震える手付きで指から外した。
手にした指輪の内側を見るとなにか文字のようなものが彫られている。暗闇の中、凝視していると刻まれた文字がぼんやりと見えてきた。
……え、あ、か、母さんがしんだ? はっ、はは…。なにかの冗談だろう。偶々、同名の人間が瓦礫に押し潰されただけじゃないのか? そうだ、その筈だ。俺たちがいたのは地下だが、倒壊した建物の影響で沢山の亡骸が地下に流れてきたっておかしくない筈だ!
俺は見つめていた指輪から目を逸らして、反対方向に顔を向ける。そこには、もう一つの“腕”があった。女性の腕と同じく、ほど近い距離に存在している。視界に入れた腕を拒否するように体が震え始める。まるで見てはならないと本能が拒否するように。
けれど震える左手を力尽くで動かして腕を掴み、目の前に近付ける。先程の腕とは違い、硬くしっかりとした重みがある男性の腕だ。同じく薬指に指輪が嵌められてあるが、親指は右側を向いているから、これは右腕なのか。指輪を外し、内側を素早く確認する。
「──
◇◇◇
『とうさん。なんでゆびをさわってうれしそうなの?」
『今日は結婚記念日なんだ。昔を思い出して懐かしくなっちゃってね」
『けっこんきねんび?』
『僕と愛奈が結ばれた、大切な日なのさ』
『ふーん、そうなんだ。でも、ゆびわってそんなにだいじなの?』
『ふふっ、憂人。大切な人と結婚するとね、指輪を交換するの。お互いの絆と永遠の愛を誓ってね』
『基本的に男性が女性の為に指輪を買うのが定番なのさ』
『じゃあ、なんでゆびにふたつゆびわをつけてるの?』
『これには理由があるんだ。結婚式を控えた一週間前にね、僕は予約していた指輪を店で受け取り、愛奈にプロポーズしようとしたんだよ。そしたら』
『意気揚々と現れた光さんに指輪を渡したの。逆プロポーズというのかしら? 実は、こっそり結婚指輪を買っていたの。サプライズとしてね」
『あのときは驚いたよ。プロポーズする直前、ニコニコした顔で指輪を渡してきた愛奈に。勢いを削がれた僕は慌てて用意した指輪を手渡したのさ』
『それっていけないことなの?』
『いいえ。でも本来、結婚指輪は左手の薬指だけに付けるものなの。ただ、わたしたちは両手の薬指に指輪を付けたのよ』
『まあ結婚式では大層、驚かれたよ。でも愛奈が僕の為に内緒で用意した指輪だからね。それなら一緒に付けようと決めたのさ。この指輪はね、僕たちにとって特別な思い出の品なんだ』
『すご〜い。なんか、かっこいいね!』
『ありがとう、憂人。いつか、あなたが大きくなったら、わたしたちの指輪を片方ずつあげるわ』
『おれに!?』
『ああ、そうさ。憂人が大きくなったら、僕たちと離れ離れになるときがくるかもしれない。だから指輪を通して、僕たちが傍にいることを忘れないでほしいんだ』
『じゃあ、いますぐちょうだい! おれ、だいじにするから』
『うーん、流石にまだ早いかな。憂人がもっと大きくなってからじゃないとね』
『ええー!? そんなぁー』
『『あっはっは(うふふふふ)』』
◇◇◇
「あ、ああ。あああっ」
なんで痛みが軽かったのか。なんで背中がこんなに生温かったのか。なんで俺の近くに二人分の腕があったのか。なんで指には両親の名が彫られた指輪が嵌められていたのか。
瓦礫の下敷きになる寸前、逃げ場がない俺たちは抱き合っていた。あのとき、二人が俺を庇うように覆い被さったとしたら? そのお陰で奇跡的に瓦礫の衝撃を和らげることが出来たのならば、辻褄が合ってしまう。父さんと母さんは俺の代わりに犠牲になったんだ……。
「うっぐ、うぁあああ。うわあぁぁぁあああーーー」」
二人が亡くなったと心が認めた瞬間、
もう、父さんの頼りになる姿を見ることは出来ない。母さんの優しい声を聞くことは出来ない。大切な二人と言葉を交わすことも! 三人で抱き締め合うことすら、叶わない!!
「なんで、なんで俺なんだよっ! 俺だけが生き残ったんだよ!! 頼むっ、俺を父さんと母さんの元に連れて行ってくれよ!!! 化け物共、俺はここにいるぞ!!!! 早く殺してくれ、二人に会わせてくれよぉぉぉっ」
狂ったように泣き叫んだ。化け物共に今すぐにでも殺されたくて、自分がどうなるかなんて知ったことではなかった。ただ、二人が亡くなった事実を受け入れられなくて。この、どうしようもない苦しみから解放されたかった。
「……頼む、殺してくれ。誰か、誰でもいい。俺を二人の元へ連れて行ってくれ。考えられないんだ。父さんと母さんがいない日常が。だから、お願いです。誰か、俺を、ころしてください」
ひたすら泣き続けて涙すら枯れ果てた。胸中に残ったのはかけがえのない存在を失い、ぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感。そして先の見えない世界に取り残されたという、どうしようもない孤独感だった。
二人のいない、この世界を生きる理由が見つからなかった。沢山の人たちの命を奪った化け物共は存在し続けるだろう。生き残ってもヤツらに怯える日々が待っているだけ。そんな悍ましい世界で生きたくない。
「そうだ。父さんたちのいる、この場所で朽ち果てよう。俺はただ、二人の元へ行きたいんだ」
左手に持った二人の指輪を握り締めた、決して手放すことのないように。このまま体は父さんたちと同じく瓦礫に潰されて、直に死ぬだろう。
「……ああ、透や同級生に謝らないと。遊びに行けなくなったって。叔父さんや咲良さん、香純さんにも謝らないと。屋敷に行けなくて、ごめんなさい。でも、きっと理解してくれる筈。こんなに辛い世界なんだから。皆、先に向こうで待ってるよ、…また、ね」
意識が徐々に薄れていく。最初に気絶したときとは違う、蝋燭の火が消えかけているような不思議な感覚。ああ、自分の命も終わりが近いと悟った。死の気配が段々と近付いてくると走馬燈がよぎり、直近の出来事が思い出される。
…東京旅行、楽しかったな。初めて会った親戚、叔父さんたちや香純さん。使用人の皆さん。父さんたちと家族三人で東京を巡ってとても楽しかった。こんな最後になってしまったけど、俺も苦しみから解放される。
微かに開かれた瞳に映る、目の前の暗闇が徐々に照らされていく。ああ、死の瞬間、人に訪れるのは闇じゃなくて光なのか。その光景に安堵して、ゆっくりと瞼を閉じる。瞼越しにも強まる光を感じながら、俺は意識をそっと手放した。
◇◇◇
「ここは何処だ?」
死んだ俺を待っていたのは、なにもない真っ白な空間だった。どこまでも果てしない白が続く空間。これが死後の世界っていうのか?
ぼーっと立ち尽くしていると空間に変化が起こる。色が徐々に変化し、形が変わっていく。危機感すら覚えず、どこまでも平坦にその光景を見ていると視界が塞がれたように見えなくなる。
「さっきとは違う場所なのか?」
視界が塞がれていた一瞬で景色は様変わりしていた。周りを見渡すと乳白色を基調とした空間にいた。ソファにテーブル、備え付けられたテレビ。どこか見覚えのある景色だ。まさか、ここは自宅なのか。懐かしい場所を見て驚いていると目の前に人影が現れた。それは、亡くなった筈の二人の姿だった。
「父さん、母さん」
父さんと母さんが俺を見て優しく微笑んでいる。同じように二人を見返すが、視界に映る父さんたちが、いつもより大きく感じた。怪訝に思い、自分の手に視線を向けて目を見開く。いや、これは二人が大きくなったわけじゃない。俺が小さくなって目線が下がっているんだ。
困惑している俺に父さんが近付き、軽く抱き上げると母さんの側まで移動した。そのまま二人は近くのソファに腰掛けた。そして俺に言い聞かせるように、ゆっくりと喋り出した。
『僕や愛奈はね、子供が無事に産まれてくれたなら出自や身分を問わず、他人を労われるような優しい子に育ってほしいと思ったんだ』
『わたしたちは最初、あなたの名前を“優”にしようと考えたの。優しさを表す素直な言葉だから。でも優しさは人を憂う気持ちがあるから生まれるものなの。だから』
『僕たちは、“憂人”と名付けたんだ。優しさは人の痛みや苦しさを理解し、共感しようとする心の情動だからね』
なんで背丈が急に縮んだのか分かった。これは幼い頃の思い出だ。俺の頭の奥底に深く刻み込まれていた記憶なんだ。
あるとき、なにげなく父さんたちに名前の由来を尋ねたことがあった。二人は俺を抱き上げて優しく、その意味を教えてくれたんだ。あのときと一言一句変わらない二人の言葉が、愛情が心に染み渡る。
『忘れないで。あなたが優しさを持ち続けた先に素敵な未来が待っていることを』
『覚えていて。僕たちは憂人がどんな選択をしても傍にいることを』
『『僕(わたし)たちが君(あなた)を想うように、憂人も誰かを大切に想える幸せな人生を送るんだよ(のよ)』』
話し終えると父さんと母さんが、俺を穏やかに見つめている。俺に付けてくれた大切な名前。二人から貰った、色褪せない無償の愛。
…そっか、俺に生きろって言うんだね。分かった。二人のいない現実に戻るのは辛いけど、少しだけ頑張ってみるよ。ありがとう、父さん、母さん。
「怪我人が多過ぎて、やっと休憩にはいれそう〜 ふぅ、なんでこんな辛い世界になっちゃったのかな。先輩、私はどうすれば…」
「……とう、さん。か、あさ、ん」
「父さん、母さんか。そういえば両親と連絡が取れなかったなぁ。私は両親との仲はそこまでよくなかったから。災禍に巻き込まれて、もう亡くなっているかもね。って誰の声!?」
「おれ、いきる、よ」
「──っまさか!? 嘘っ、怪我人がまだいたの! 先生!!! 病院内に血塗れの男性が倒れています!」
「なんだって!? 今すぐ向かう!」
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