第九話 別れを惜しんで

 


朝の目覚めは思ったより、快調だった。あんな夜遅くまで父さんたちの話を聞いて、睡眠時間が少なかった筈なのに。もしかしたら二人と話して気が楽になったお陰なのかもしれないな。

 すっきりとした俺と違って二人は眠気が取れていないみたいだ。あの母さんですら髪が大きく跳ねて目が開かず、うつらうつらとしている。

 眠そうな両親を尻目に布団から起き上がる。綺麗に畳んで隅に運ぶと部屋を出て、そのまま洗面所に向かう。用を足して朝の歯磨きを軽く済ませると部屋に戻った。


 「おはよう、父さん、母さん」


 「「おはよう、憂人」」


 二人は起きたみたいだ。いつの間にか身嗜みが整っていたのを見て、貴人の血筋の凄さを改めて感じ取った。使っていた布団もちゃんと畳まれて隅に置かれていた。

 

 「憂人、着替えたら先に別棟へ行っておいで。そこで朝食を摂るからさ」


 「分かった」


 キャリーケースから服を取り出して手早く着替える。着ていた服を折り畳んでビニール袋の中に入れ込んだ。袋を荷物の側に置き、別棟へ向かおうと部屋を出た。






 昨日は気付かなかったが、別棟内は西洋風の内装だった。壁や床は全て板張りでニスが塗ってあるのか、色は黒みが強く年月を感じさせる質感だ。通路の壁に断続的に立て掛けてある白いランタンが黒い内装と相まって異国の雰囲気を醸し出している。

 そのまま道なりに通路を進むと濃茶の大扉の前に着いた。そういえば、この部屋で夕食を食べたんだなと考えながら扉を開けた。


 中は大部屋といえる程、広々としている。赤い大きな絨毯が床に敷かれていて目を惹かれる。天井に吊り下げられた飾電灯シャンデリアの暖色光が黒を基調とした部屋を明るく照らしている。

 部屋の中央には白い食卓布テーブルクロスが敷かれたロングテーブルが配置されていて、黒い椅子が等間隔に置かれている。テーブルには上品な燭台が載せてあり、食中に使用する銀のカトラリーが各席に並べられていた。


 「おはよう、憂人」


 「おはよう、叔父さん」


 入り口に立ったまま、部屋を見ていると後ろから叔父さんに挨拶された。すぐに挨拶を返すと俺は叔父さんと一緒に中へ入り、席に着いた。集中すると周りが見えなくなるのは自分の悪い癖だな。


 「…昨夜は良く眠れたか?」


 「はい、すっきり目覚めることが出来ました」


 「そうか。心配しておったのだ。昨日の憂人は心ここにあらずといった様子であったからな。私の言葉に反応して、なにか気を病んでしまったのではないかとな」


 「勿論、気にしました。でも考え過ぎないことにしたんです。俺には支えてくれる人たちがいますから」


 「よく透き通っている目をしている。うむ、嘘は言っていないようだ。…憂人、見沢家のことだがな、お前たちが地元に帰るまで手出しはさせない。無論、“大きな出来事”に対しても。美貴家の当主として責任を果たすことを約束する」


 叔父さんは佇まいを正してこちらに向き直った。俺を見つめる、その眼差しは優しくも意思を貫き通そうとする力強さを感じた。

 俺もその眼差しに応えようと力強く見つめ返した。すると叔父さんは少し驚いたように目を丸めたが、すぐにいつもと変わらない高笑いを始めた。


 「ガッハッハ、たった一日でここまで変わるか。やはり憂人も美貴の血を継いでいるだけあるな。流石、私の息子だ」


 「…叔父さん」


 「いえ、旦那様。憂人様は光様のご子息です。お間違いのないように」


 「──か、香純さん!? いつの間にっ」


 「旦那様が参られたときから、お傍に控えておりました」


 「香純よ。憂人を私の息子と言ってなにが悪い。咲良だって憂人が屋敷に来てから、生き生きとしているのだ。息子と言って減るものではないだろう」


 「息子のような存在と息子では意味合いが異なります。その理論が正しいのなら、私は憂人様の乳母兼教育係を自称出来ます。後、次いでに母を名乗ることも宣言いたします」


 「いやいや、後半の言葉は絶対、香純さんの願望入ってるでしょ!?」


 相変わらず、香純さんの思考が全く読めない。それにどうして今日はいつにも増して距離をグイグイ詰めてくるんだ!?


 「うふふ。相変わらず、香純に好かれているのね。三人だけで仲良くして、ゆうちゃんのお母さんとしては羨ましいわ」


 「姉さんまで悪ノリしちゃってさ。まあ、それだけうちの憂人が人気者で僕は嬉しいよ」


 「光さん、いいじゃない。お義姉様や皆も憂人のことを息子のように思ってくれているのよ? わたしはとても嬉しいわ」


 どうやら皆、来てくれたみたいだ。流石に俺と叔父さんの二人では香純さんを止められないからな。いや、叔父さんが香純さんを焚き付けたのか? まあ、どうでもいいことか。

 その後は給仕が運んできた食事を味わいながら、皆と世間話をして残り少ない時間を楽しんだ。



 

◇◇◇


 「憂人、忘れ物はないかい?」


 「今、確認中」


 父さんに返事しながら、キャリーケースの中を再度、確認する。歯ブラシや折り畳み傘も入っている。日用品は大丈夫だな。

 今、気付いたが朝食を食べてから母さんの姿を見かけないな。どこに行ったんだろう?


 「そういえば、母さんは?」


 「愛奈はね、僕たちよりも先に準備を済ませて義兄さんたちに会っている筈だよ。屋敷から離れることを誰よりも名残り惜しいと思っているだろうから」


 そうか。母さんは元々、屋敷に住んでいたわけだし、咲良さんのことをあんなに慕っていたんだ。…別れが辛くなるのは当然だよな。


 「さて、僕は先に部屋を出るよ。憂人も準備が整ったら玄関においで。荷物は使用人が運んでくれるから」


 父さんは俺に向かって話し掛けた後、襖を開けたまま部屋を出ていった。

 着替え等の衣類のチェックを行い、漏れがないか確認し終えるとキャリーケースの中に仕舞い込み、ファスナーを閉める。これで準備は終わったな。

 俺は部屋を出る為に立ち上がる。見納めようと部屋全体を見渡した。たった一日しか泊まっていないのに寂しさがふっと湧き上がってきた。そんな気持ちを誤魔化すようにかぶりを振って玄関へと向かった。


 「遅れてごめん」


 「気にしなくていいさ。さあ、広場に行こう」


 玄関に着くと父さんたちは靴を履いて玄関口に立っていた。俺の遅れを気にした様子は一切なかった。部屋で準備をしていた間に四人で色々、話していたんだろうな。

 遅くなったことを申し訳なく思いながら、式台に腰を下ろして沓脱石の上にあるスニーカーを履いた。靴を履き終えたのを確認すると、父さんたちはゆっくりと外へ歩き出した。俺も皆の後に続いて外に出た。

 

 俺たちは黙ったまま道を歩いていた。正門を抜けた先に見える、あの広場に着くまで重苦しい雰囲気のまま、沈黙はずっと続いていた。

 広場に着くと出立の準備が整っているのか以前、乗った黒いリムジンが停めてあった。運転手は後部座席のドアの前に立って、俺たちが別れを済ませるのを待っている。


 「…屋敷の滞在というのも、あっという間であったな。こんなに清々しい出日和でびよりだというのに。晴れた空を見て、少し憎たらしく思ってしまうとは」


 沈黙を破るように叔父さんが喋った。その顔は普段と変わらない表情に見えた。けれど寂しさは隠しきれず、目元は僅かに伏せてた。


 「ごめんなさいね。たっくんは人一倍、あなたたちが屋敷に来ることを楽しみにしていたの。気丈に振る舞っているけど、本当はとても寂しいのよ」


 フォローするように口を開いた咲良さんは、叔父さんの隣にぴったりと寄り添っている。けれど表情は曇り、とても物悲しげだった。


 「済まぬな。お前たちを笑って送り出したかったが、こんなにも別れが辛いものとはな。十三年前に九州へ旅立った、あの日よりも今日が一番遣る瀬無い」


 「……義兄さん、姉さん。しばらく時間は掛かると思うけど、また会えるさ。憂人も屋敷に慣れたんだ。いつか、ここに戻ってくるからさ」


 「ええ、わたしたちも次からはなるべく時間を置かずに戻る予定です。だから憂うことなく見送って下さい」


 「無論、言わんとすることは分かっている。だが一度帰ってしまえばそれこそ……。いや、これ以上言ってしまうのは当主としてらしくないな。…憂人、愛奈、光。お前たちは私の家族だ。用がなくても構わん、いつでも屋敷に帰ってくるといい」


 「光、愛奈ちゃん、ゆうちゃん。ここはあなたたちが帰ってくる、もう一つの家よ。だから、いつでも戻ってきなさい。私たちは客間を空けてずっと待っているからねっ…」


 叔父さんと咲良さんは別れを惜しむように暖かい言葉を掛けてくれた。けれど二人は別れの寂しさを紛らわせるようにお互いの体を抱き締めていた。


 「叔父さん、咲良さん。また『憂人様、私からも一つ』え?」


 叔父さんと咲良さんに言葉を返そうとしたら香純さんに話しかけられた。いつから居たんだ、この人。少し怪訝になりながら、香純さんの方を向いた。


 「光様と愛奈様には先に別れの言葉を贈らせていただきました。お出掛けの準備が遅かった憂人様にはお声掛けする機会がありませんでした。なので、この場をお借りして申し上げたいことがあります」


 「じ、準備が遅くて悪かったですね!? というか部屋に入って直接、俺に言えばよかったのでは?」


 「いえ、この場だからこそあなたに言えることがあるのです」


 ど、どうしたんだこの人。普段ならもっとボケ倒すのに。なんで、そんなに真面目な顔をしているんだ。頼む、いつものように揶揄ってくれよ。香純さんにまでそんな顔されると調子が狂うんだ。

 香純さんはそんな自分勝手なことを思う俺に構わず、傍まで一息に近付くと俺を掻き抱いた。


 「か、香純さん。一体どうしたんですか?」


 「。あなたは気遣いが出来て謙虚で他者を労われる優しい子。誠実なあなたは答えを見つけられない自分に失望して責めてしまうけれど、気にしなくていいの。私たちと出会って少し前向きになれたようにあなたはきっかけ一つで大きく変われるの。だから、どうか焦らないで。あなたの人生を一変させる、素敵な出会いがこの先にきっと待っているから」


 抱き締められながら聞こえてきた声音は、使用人としての香純さんではなかった。いつもの揶揄うような若々しいトーンではなくて、まるで母さんを思わせるような柔らかく親しみを感じる声音だった。


 「......」


 「覚えていて。屋敷の皆があなたを常に大切に思っていることを。そして私もあなたを心から大切に想っている一人だということを。だから憂人、この言葉をどうか忘れないでね」


 別れを惜しむように、ただ強く抱き締められた。あんなに近くでじゃれ合っても感じなかった優しくて甘い、香豌豆スイートピーを思わせる香りが鼻腔をくすぐる。

 しばらく俺を抱き締めていた香純さんは決心したのか、抱き締めていた手を緩めてそっと離れた。香純さんはいつもの澄まし顔に戻っていた。でも、その瞳からは一筋の涙が溢れていた。


 香純さんの優しい思いに後ろ髪を引かれそうになる。このたった一日でいや、十三年前から俺のことを見守っていてくれたのかもしれない。

 でも俺たちには向こうでの生活があるから、屋敷にはずっと居られない。この迷いを断ち切る為に。そしてなにより、皆が安心して見送れるように別れの言葉を贈りたい。


 「…叔父さん、咲良さん、香純さん。屋敷で働いている皆さん。俺はここに来るまでずっと悩みを抱えていました。正直、今でも悩みは尽きません。でも、ここに来てから悩みが軽くなった気がしたんです。それは関わってくれた皆さんが真摯に俺と向き合ってくれたからです。俺は皆さんから受け取った優しさを忘れずに前へ進もうと思います。短い間ですが、ありがとうございましたぁっ!」


 一息に喋り終えると、感謝を込めて頭を下げた。姿勢を気にせず、ただ、深々と。

 最後まで気を抜かずにいたつもりだった。でも不思議なもので言葉に出すと抑えようもない切なさが胸から溢れ出して、両目から止めどなく涙が零れ落ちる。そうか、俺は叔父さんたちや屋敷の皆さんをこんなに大切に思っていたんだっ……。


 下げている頭を誰かに撫でられた。丁寧な撫で方ではなく、くしゃくしゃと髪を乱すような乱雑さで。ただ、その手付きには相手を思い遣る優しさを強く感じた。


 「よく言えたね。その気持ちを決して忘れてはいけないよ、憂人」


 「うんっ。うん!」


 「さあ、寂しくなるけど僕たちも出発しようか」


 父さんは俺の上体を起こすのを手伝い、顔を泣き腫らした母さんに付き添ってリムジンへ向かった。

 俺も二人の後に続いて車へ近付くと運転手は後部座席のドアを開けて、こちらが車内に入るのを静かに待っていた。

 三人で車内に乗り込んで座席に着いた。席に着いたことを確認した運転手はドアをパタンと閉めて運転席に乗り込んだ。


 最初はワクワクしていた高級車の雰囲気や乗り心地もどうでもいいくらい、心中は寂しさに支配されていた。

 ブルブルとエンジンの駆動音が振動と共に伝わってくる。遂に別れのときがやってきた。車がゆっくりと動き出して屋敷の外へ向かうと思った。しかし車体はゆっくりと円を描くように反転し、正門の前へと車を近付けた。

 運転手の意図が分からず、困惑していると黒いスモークガラスの窓が開いた。外を見ると正門手前に横一列で整列する使用人と給仕、全員が並んでいた。奥には俺たちを見送ろうとする叔父さんたちも立っていた。様子が気になって窓から顔を出すと使用人の皆さんは示し合わせたように姿勢を正した。


 「「「「「愛奈様、光様、憂人様。お気をつけて行ってらっしゃいませ!!!」」」」」


 心の篭った大きな掛け声と共に使用人の皆さんが一斉に頭を下げる。一糸乱れない美しいお辞儀だった。冷静に仕事を熟していたイメージがあったけど、心から俺たちを思ってくれていたことが強く伝わった。

 長い静寂の後、最後の挨拶が済んだことを確認したのだろう。車はまた動き出し、今度こそ屋敷の外へと向かい出した。

 

 「ありがとう! きっと、また会いに戻ってくるから!! だから、それまで元気でいてください!!!」


 こちらが見えなくなるまで頭を下げ続ける屋敷の人たち。そして何度も手を振って別れを惜しむ叔父さんたち。俺は見送る彼らに負けないくらい手を振り返していた。この景色を記憶に深く刻み付けたくて。“大切な家族となった人たち”の姿をいつまでも見続けていた。




 ◯界現出まであと三日…。

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