第七話 家族三人水入らず
叔父さんと語らいが終わり、部屋を出て行こうと席を立った。障子に近付き、開けようとするとなぜか人の気配を感じた。僅かな隙間が出来ているし、誰かがいるのは間違いないだろう。確信を得た俺は障子を勢いよく開ける。すると香純さん、そして父さんと母さんが目を逸らして誤魔化すように立ち尽くしていた。
「皆、なにしているのさ」
「ええっと」
「香純さんもあの場から去ったのになんで居るんですか」
「……」
「ちょっと、なんで一言も喋らずに顔を逸らしているんですか」
立ち去った筈の香純さんに視線を向ける。香純さんは黙ったまま、俺に顔を合わせようとしない。申し訳なさそうな表情を作っているが、それとは反比例するように口角を大きく釣り上げていた。…ああ、最初から皆に会話を聞かれていたな、これは。
内心の恥ずかしさを隠すべく溜め息を吐く。そのまま情けなく項垂れているとポンポンと肩を叩かれた。目を向けると父さんが隣を静かに指差していた。
そこには目に涙を浮かべながら怒っている咲良さん。そして少し緊張した様子の叔父さんが向き合っていた。
「…どうして、今まで話してくれなかったのですか?」
「済まぬ。このことを話せば咲良がとても傷付くのではないかと思い、話せなかったのだ」
「当たり前です! 私にとってあの出来事は今でも忘れられない程、辛いものでした…。でも、それ以上に傷付いたのは、たっくんが私に胸の内を打ち明けてくれなかったことです!」
「返す言葉もない」
「私とたっくんは夫婦でしょう? 私だけが辛い思いを抱え込んで生きてきたわけじゃないの。たっくんだって同じくらい辛かった筈よ。だからっ」
「──っ咲良」
咲良さんは正面から勢いよく懐へ飛び込むと叔父さんの体を抱き締めた。小柄の女性とは思えない程、力を込めた抱擁に目の前の存在を決して離さないという意思を感じた。
「私の意識がない間、当主として懸命に頑張ってきたよね。お義父様に歯向かって辛い思いをいっぱいしてきたよね。大丈夫、もう一人には絶対しないから。辛くなったら、いつでも弱音を吐いて。私があなたを抱き締めて、心が癒えるまで離さないから」
「……咲良。そうだな、私が間違っていた。これからはいっぱい甘えさせてくれ、私の咲良」
涙を流しながら、咲良さんを優しく抱き返す叔父さん。二人が互いをどう想い合っているのか、よく分かる。咲良さんは薄々、感じていたんだろう。叔父さんの抱えていた辛い気持ちを。…報われて良かった。
父さんたちのほうを振り返ると、少し離れた所から二人の様子を感じ入るように見つめていた。母さんに至っては感極まり、さめざめと泣いていたのが印象的だった。
叔父さんたちの邪魔をしてはいけないと思い、父さんにアイコンタクトを送る。俺の意図を察すると男二人で母さんと香純さんの背中を押して、この場を後にした。
◇◇◇
「で、いつから聞いてたの?」
「勿論、最初から」
「…はぁ、やっぱりか」
俺と父さんは二人をあの場所から連れ立った後、客室へまた戻っていた。流れで連れてきてしまった香純さんに退場願おうと思ったのだが、面白そうだからという理由でキッパリ断られた。現在、各々がこの部屋で寛いでいる。というか使用人なのになんで、こんなに自由なんだ香純さんは。
「恥ずかしがることじゃないさ。寧ろ、嬉しく思ったよ。憂人にもちゃんと悩みがあったことに。家に居るときはそういった弱味を一切、見せてくれなかったからね」
「そうね。小さなときは腕白だったけれど、年を経る度に大人びていくんですもの。思春期に入っても親に反抗することは全くしない。そんな落ち着いている姿を見て、母親として少し淋しさを感じてしまったの」
「でも、俺は父さんと母さんが大好きだし、反抗するぐらい鬱陶しく思っていないよ」
「あっはっは。そう思ってくれるのはとても嬉しいね。…父親の僕が思うに憂人は同年代に比べて成長するのが早かったんだ。誠実な性格からか周囲の人たちを気遣う内に自分の悩みから逃げ出すことすら出来ず、真っ直ぐ道を歩き続けてきたのだとね。そんな憂人に僕から言えることはもっと我が儘に。自分の気持ちに正直になってほしい。ただ、それだけさ」
「そんなこと、いきなり言われても自分のしたいことなんて思いつかないんだ」
「いいのよ、無理に答えを出そうとしないで。わたしも昔は自分というものがなかったの。家に従順で反抗という言葉すら理解できなかった。でもね、お義姉様が嫁いできて一人の人間としての価値観を教わったの。憂人にもいつか自然と答えを出せる日がきっと来るわ」
「母さん…」
「和やかな雰囲気の中、誠に申し訳ありません。そろそろ入浴の時間となります。旦那様と奥様には私が出向いてお声がけするので、ご準備されていて下さい」
『失礼致します』と一礼すると、香純さんは速やかに部屋を出ていった。
相変わらず、ペースを乱すのが得意な人だと苦笑した。しかし、もうそんな時間なのか。ここに来てから、時が経つのが本当に早く感じるな。
「さあ、準備をしてひとっ風呂浴びに行こうか」
「そうだね」
俺はキャリーケースから着替えを取り出して父さんと一緒に部屋を出る。そのまま廊下を歩いて一直線に浴室へ向かった。
浴室に着いたがどうやら銭湯のように男女で別れているわけではなく、一般家庭と同じく一つみたいだ。
少し残念に思いながら、持ってきた着替えを近くの椅子の上に置いた。そのまま服に手をかけて脱いでいく。事前に用意されていた籠に脱いだ服を入れればいいみたいだ。
「不思議に思うかい? 名家といえど普通の家庭と変わらない部分はあるよ。お風呂を幾つも増やすより、他に金をかけたほうがいいからね。例えば、マッサージチェアとか」
「そっか、屋敷であっても変わらない部分はあるんだ。…ちなみに置いてるの? マッサージチェア」
「いや、置いてないね。ここは」
「置いてないじゃん!? ってか、本当にないのマッサージチェア?」
「ないない、残念ながらね。ただ、扇風機とエアコンはあるから、そこは銭湯と変わらないところかな」
「…そこは、ちゃんとお金かけたんだね」
「よし。服を脱ぎ終わったら、さっさと中に入るよ」
父さんに促されて中へ入る。浴室の中は思ったよりも広く四、五人は入れそうな余裕がある。壁から床に至るまで板張りで物珍しさに目を惹かれる。
洗い場には銭湯と同じように複数のシャワーヘッドが備え付けられていて、順番待ちをすることもなさそうだ。シャワーヘッドの手前に予め、バスチェアも置かれてたので遠慮なく腰を下ろす。
近くに置いてあるシャンプーを使って、頭を優しく揉み洗いしていく。洗い残しがないよう一頻り、髪を揉みほぐすとヘッドのボタンを押して、泡だらけの髪を洗い流す。そういえば忘れ物があったような…。
「父さん、垢すりある?」
「ははは、垢すりじゃなくてボディタオルでしょ。まあ、僕もあっちではそういう言い方をしてたか。ほら、脱衣所に置いてあったよ」
「ありがとう、父さん」
手渡されたあか、ボディタオルを石鹸で泡立てていく。十分に泡立ったら体を強く擦り過ぎないように注意して、隅々まで満遍なく洗っていく。後は泡立った体をシャワーでしっかり流した。全身も洗い終えたし、早く風呂に入って一息吐くか。
「憂人も準備は済んだね。さあて、風呂に入ろうか」
父さんに軽く頷き、浴槽に近付く。どうやら浴槽は木材を使った長方形の木風呂だった。木風呂は幅が広く、一度に二、三人は入れる余裕がある。浴槽のすぐ横には固定された蛇口とハンドルが付いていて、自前で温度管理も出来そうだ。
足先を入れて温度を確かめる。…大丈夫そうだ。そのまま、体をゆっくりと湯船に沈めていく。暑過ぎず、ぬる過ぎない。丁度いい湯加減だ。
「「ふぅー、生き返るぅ」」
「いやー、木風呂はやっぱりいいね。この独特のヌルっとした触感や僅かに香る檜の匂いは実にいいものだ。バスタブのツルツルした触感も捨てがたいけど、木風呂は別格だよ」
「そうだね。敢えて入浴剤を使わないことで木風呂、本来の触感や匂いを楽しんでほしいという心遣いをちゃんと感じるよ」
「そうであろう。ちなみに入浴剤を使うと木風呂にシミが付いてしまう恐れがあるので、我が家では原則、使用禁止にしている」
「へぇー、それはとてもタメになる話だねって叔父さん、いつの間に!?」
「ガッハッハ、お前たちが来る前から湯船に浸かっていたぞ」
嘘だろ、なんの気配も感じなかった。湯気が出て多少、前が見え辛くなっていたとはいえ限度があるだろ。使用人だけかと思ったけど、叔父さんも忍者の類だったのか…。
「相変わらず、風呂が好きだね。義兄さんは」
「当然であろう。風呂は私の数少ない楽しみの一つだ。その為にわざわざ、風呂場だけ改装したのだからな。それにお前も人のことは言えんだろう、光」
「もちろん僕も人並み以上にお風呂は好きだよ。それでも、義兄さんの情熱には大いに負けるよ」
「全く、お前という奴は。皮肉を言われてるのか、本心なのか分からんな。まあ、折角の風呂だ。細いことは水に流そう」
「叔父さん。それだけ風呂が好きなら、水風呂やサウナも付けたいと思ったんじゃないですか?」
「憂人よ。そこまでしてしまうと、この場所だけで全てが完結してしまう。そうなるとわざわざ遠方に足を運び、湯船に浸かる楽しみを自らなくすことになる。
「それでも妥協できなくて木風呂を設置する辺り、義兄さんも中々の業突く張りだけどね」
いつものようにじゃれ合いが始まると俺は遠い目をした。しかし、叔父さんは父さんの皮肉を受け止めると少し寂しげな表情で話を始めた。
「ふん、義弟の癖に言うではないか。……光、明日にはここを発つのであろう?」
「そのつもりだよ。元々、屋敷に長居する予定ではなかったし。それに義兄さんの仕事もこれからもっと忙しくなるでしょ?」
「ああ、明日からは目まぐるしい忙しさとなるだろうな。ある意味、今日がお前たちとゆっくり時間を過ごせる最後の日になるやもしれん」
「そんなに忙しくなるんですか? 休みも取れなくなるくらいの」
「憂人。二人で話したとき、美貴家が各界と繋がりがあると言ったな。それはつまり、あらゆる情報が
「……大きな出来事?」
「なに、心配するな。今日までは美貴家当主ではなく可愛い甥と時間を過ごす、ただの叔父さんだ。残された時間は少ないが、家族の団らんを楽しもうではないか」
あの後、一緒に風呂から上がって洗顔を済ませた。部屋から出るとすれ違うように母さんたちが浴室に入るのを横目で見つつ、客室に戻った。
客室に戻った俺は叔父さんの言った“大きな出来事”という言葉になぜか言い知れぬ恐怖を感じていた。まるで取り返しの付かないことが近い内に起こるんじゃないかと。入浴を終えた母さんが部屋に戻ってきた後も、この言いようもない不安感を消し去ることは出来なかった。
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