第六話 当主の吐露
叔父さんに促されて六畳程の小さな部屋に入った。掛け軸を飾っている質素な内装だが、縁側があるようで中庭がよく見える。
二人で一緒に部屋の畳に腰を下ろし、外の景色に目を向けた。庭師によって剪定された庭木の美しさ。そして小さな溜池から聞こえてくる獅子おどしの小気味よい音色。それらがとても心地いい。
「中々、良い所であろう? 執務室で行き詰まるとな、私も気休めにここへ来ることが多い」
魅入るように庭先の景色を眺めていた。すると気を遣ってか真隣にいる叔父さんは庭先に目を向けたまま、優しげな口調で俺に話しかけてきた。
「ずっと、この景色を見ていたいと思えるくらい素敵な場所ですね」
「うむ、そうかそうか。そう思ってくれたならここに連れてきた甲斐があるな」
「…ところで叔父さん。二人で話したいことって、なんですか?」
「なにか悩んでいることがあるのだろう? 車内で話をしていて、胸に抱えているモノがあるのではないかと思ってな」
流石、叔父さん。あの短い時間で分かってしまうんだな……。
俺、相田憂人には生まれてから目標というものがない。なにかを掴みたいという貪欲さもやり遂げたいと思う夢もない。ただ、漠然とした不安を抱えて
生まれてから勉学や運動できる環境に不便しなかったし、心から大切に思える両親や友人を持てた。でも、ずっと胸中に存在する孤独感を消せなかった。
今まで色々な人たち、地域の人々や同級生とも親交はあった。でも深い繋がりがあるといえば違うだろう。なにせ俺は皆が現状にもがき苦しみ、それでも目を輝かせて未来に進んでいく姿をただ、近くで見ているだけの人間なのだから。
「俺は今までなんとなく生きてきました。恵まれた環境にいたからかもしれません。皆のように必死になって成し遂げたい夢や目標もない。だから泥臭くも目標に向かって歩み続ける人たちの頑張る姿がとても眩しく見えたんです。俺には持ち合わせていないモノだから」
「うむ」
「父さんや母さんはこんな俺を見て、とことん悩んで答えを出してほしいと言いました。それでも答えは未だ出ません。まるで道に一人取り残されて、同じ場所を彷徨い続けているような感覚なんです。叔父さん、いつか俺に答えが得られる日は来るのでしょうか…」
「憂人。家族とは胸の内を互いに言い合える関係だと私は思っている。お前は辛い胸の内を曝け出してくれた。ならば次は私の番だ。少し昔の話をしよう、私の過去話をな」
叔父さんは話を聞き終えると、庭先に向けていた視線をいや、体ごと俺と向き合うように正面に座り直すと、ゆっくりと口を開いた。
「美貴家の長男として生まれた私は、家督を継いだ歴代当主と同じく人の上に立つ存在、貴人としての教育を父上から施されてきた。政界、財界、芸能界と各界に
「…そこまで過酷なものだったんですか」
「ああ、そうだ。幼子はあれが欲しい、これが欲しいと親に
「そんな、そこまで…」
「歳の離れた妹が生まれても父上の苛烈さは変わらなかった。ただ、ひたすら責め苦にも思えるような指導に耐えた。そして美貴家の次期当主としての生き方に順応してきた頃、私に婚約者ができたのだ」
「叔父さんに婚約者が? もしかして」
「うむ、咲良だ。美貴家とまではいかんが相手はそれなりの家でな。両家の合意の元、私たちは婚約を交わした。妻である咲良は快活で笑顔の絶えない人でな、仕事に追われる私をいつも癒し、支えてくれた。影響を受けたのは私だけではなく、人形のように無表情だった愛奈を表情豊かな子に変えた程だった。咲良は美貴家の人間にとって太陽のような存在だったのだ」
嬉しそうに当時のことを話す叔父さん。美貴家という辛い環境の中で出会った咲良さんに心から救われたのだろう。それはきっと母さんも同じだった筈だ。
「私たちはお互いを支え合って充足した日々を送っていた。だが、
だが、話の途中から叔父さんは歯を食いしばり、拳を強く握りしめて胸中に渦巻く様々な感情を吐き出すように話を続けた。
「…無精子症。聞いたことはあるまい? その名の通り、子をなす為に重要な要素である精子を作れぬ病だ。治すことも出来ない不治の病に等しい。私の体質を知った互いの家族はショックを受けてな、話は揉めに揉めた。妻の咲良が“先天性の異常もない健康な体”だったことも拍車をかけた」
「…その後になにが起こったのですか?」
「……憂人。貴人の夫婦のどちらかに問題があって子が望めないと分かったとき、互いの両家はどのような行いをするか分かるか? 一つは夫婦を引き剥がして片方を実家へと連れ戻し、腫れ物の如く扱うこと。もう一つは傷物でも気にしない他家の有力者に女として
叔父さんは先程とは打って変わって全身から力が抜けて、険しい面持ちも萎びてしまったように覇気が失せていた。ただ、両目から零れ落ちる涙がこの話の結末を容易く予想させた。
「咲良の自殺未遂だ。血溜まりに倒れる傍らに遺書を残してな」
「──っ」
「家の利益の為、他家の有力者へ宛がわれる筈だった咲良はわ、私以外に身を捧げたくないと遺書に残してこの世を去ろうとしたのだっ……」
叔父さんは感情を抑えきれずに嗚咽を漏らしながら、起こった出来事を話した。
さ、咲良さんが自殺未遂を……。胸を掻き毟りたくなるような鋭い痛みを感じる。叔父さんの言葉を聞いて、こんなに胸が苦しいのに。そのとき感じた悲痛さはどれほど辛いものだったのだろう。
一呼吸入れた叔父さんは目元を拭った。すると先程とは違う雰囲気を纏い始めた。まるで己の罪と正面から向かい合うような態度。いや、違う。間違えも含めて、自分であると受け入れた力強い眼差しで俺を見つめてきた。
「咲良はずっと意識不明の状態だった。そんな最中、私は初めて父上に反抗した。きっかけは些細なことだった。“あの子を大切に思うなら諦めろ”と言われたとき、体の芯がカッと熱くなって父上を打っていた。そして止まらぬまま、愛する女性を捨てろと言うならこんな家に尽くす義理はない! と言い切った。それから私は親の言うことに疑問を持たない従順な人間ではなくなった」
「……」
「遅れた
咲良さんの意識は戻り、なんの後遺症も残らなかった。痺れや痛みも起きなかったそうだ。しかし、自殺未遂を起こしたときに体中を刃物で切りつけて出来た傷跡。まるでこれが命を絶とうとした咲良さんを罰するかのように身体に深く刻み込まれていた。
「咲良の傷跡は現在でも消えておらぬ。それだけ覚悟を決めていたことの表れだ。家の決めごとに逆らってでも自らの意思を貫こうとする、な。…憂人は言ったな、進むべき道に迷っていると。助言をしよう、進むという行動には必ず、後悔が付き纏うのだ。私にとっての後悔は咲良が自分を追い詰めるよりも早く、父上に反抗していればという思いなのだ」
「…もし、叔父さんは時間を巻き戻せるなら、婚姻を破談にしようとした両家の取り決めを力尽くで止めますか」
「時間を巻き戻せたらか。あのときの出来事を考えない日はない。だがな、憂人。全てをなくしてしまったという喪失感の中、父上に反抗したからこそ、今の私があると思っているのだ。お前には矛盾するように聞こえてしまうだろうがな」
──な、なんでだよ叔父さん!! 言ったじゃないか、後悔しているって。大切な人を死に追いやり、決断できなかった自分を責めているんじゃないのか!? どうして、そんなに達観しているんだ…。
「叔父さん、嘘をつくのはやめてください! 咲良さんは深く傷ついてしまったんでしょう!? なら、自分の選択は誤りだったと思う筈だ!」
「憂人。答えとはすぐに導き出せるものではない。自分が誤ったと思う選択の中から気付くこともある。きっと私の回答は酷く冷たいモノに聞こえた筈だろう。それは否定しない。私から話を聞けば光も同じく憤ることだろう」
「なんで、そこまで客観視出来るんですかっ」
「咲良に出会えたからだ。今まで培ってきた経験や知識は確かに私を助けてきた。だが、それだけではないのだ。辛い目に遭っても前を向き、明るく振る舞う妻の生き様を見て物事の捉え方が変わったのだ。人生には選択を悔やむことは幾らでもある。だが、私は咲良に倣い前を向くことを決めたのだ。これから先もずっとな」
俺の感情的な物言いにすら、しっかりと言葉を返す落ち着いた態度。そうか自分の気持ちをごまかしていたわけじゃないのか。ちゃんと叔父さんの中には二人で育んだ価値観が根付いているんだ。知りもしないで騒ぎ立てて馬鹿だな、俺は。
「ごめんなさい。勝手に騒いでしまって」
「気にするな。それに憂人、お前の求める答えは人生を左右する大切なものだろう。今、無理をして答えを出す必要はない」
「でも、俺はどうしても焦ってしまうんです。周囲の人たちに比べたら小さな悩みに感じてしまって。生まれてから重大な使命や責務を負わされたわけじゃない。誰かと添い遂げる覚悟や自分の選択を受け入れる強さが俺にはありませんっ。なにもないんです…」
「うむ。けれどな憂人よ、お前には人と違う特別なものが備わっている。それは人の痛みを自分のことのように思う共感力。…つまり“優しさ”そのものをな」
「ち、違う。俺にはそんな大層なもの持ち合わせていません。それに優しさなんて誰でも持っている筈のものでしょう!」
「ならば、なぜ涙を流し続けている。ずっとお前は私の心に寄り添おうと辛そうな顔で話を聞いてくれたではないか」
…涙。頬に手を当てると幾重もの雫が指先から零れ落ちるのが分かった。視界がさっきからボヤけていたのは、俺が泣いていたからなのか…。
「人とは存外、狡い生き物でな。親しい者の不幸であっても、どこか他人事のように受け止めてしまう。だが、憂人は私の受け入れてきた痛みを全て感じ取ろうとしてくれた。それは誠実さと純粋さの表れであると思うのだ。故にお前を慕い、守りたいと思う者がこの先、きっと現れる。そこに憂人が求めている答えがあると私は確信している」
「どうして叔父さんは会ったばかりの俺にここまで親身になってくれるんですか? 叔父さんと咲良さん、二人の子供ですらないのに」
叔父さんは座ったまま、距離を近付けるとゆっくりと俺を抱き締めた。父性を感じさせる力強さは一切ない。今までの俺の人生を労わり、包み込もうとする優しい抱擁だった。
「憂人の言うように私と咲良の間に子はいない。だがな、あるとき愛奈に想い人が出来たのだ。相手は咲良の実弟だった。二人の交際に父上は猛反発したが、私たちの関係を見て妹は添い遂げる覚悟を決めていたのだ。その姿を見て私は悟ったのだ。子を残せない私たちに変わって血を継ぐ互いの
「……」
「憂人、お前は私と咲良のかけがえのない子供だ。誰がなにを言おうと私はそう思っている。お前がどの道に進もうと構わない。道に迷って悩み、苦しんで時間がかかってもな。だが、忘れないでほしい。憂人を傍で応援している私たちがいることを。いいな?」
「お、叔父さん。叔父さんっ。……ふっ、ぐっ、あっああ、あああ」
俺は父さんよりも大きな体にしがみ付き、甘えるようにひたすら泣きじゃくった。
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