第118話
《sideセリーヌ》
ソルト殿と初めて会った時、私の中には大きな不安があった。
アーシャを連れ去ってしまうのではないかという焦りと疑念。アーシャがこの騎士団にとって欠かせない存在であることは言うまでもない。
そんな彼女を、過去の縁があるという理由で、彼が王都から連れ去ってしまうのではないかと心の底で怯えていたのだ。
だから、私は彼に対してあえて冷たく接していた。騎士団長として、そして「氷の騎士」としての威厳を崩すわけにはいかなかった。
あの時の私は、彼に心を許すつもりなど毛頭なかった。
だが、あの黒い霧の魔物との対峙で、私の気持ちは少しずつ変わり始めた。
騎士団の者たちとともに霧の中で戦い、相手の強大さに押されていく。
その時、初めて自分の無力さを痛感した。
いくら剣技や魔法に自信を持っていても、仲間を守る力がなければ意味がない。
あの霧の魔物は私たちを苦しめ、同士討ちへと追い込もうとする冷酷さを持っていた。次第に団員たちが苦しむ中、私はどうすることもできなかった。
その時だった。霧の中から現れた彼、ソルト殿の姿を見たのは。彼の放つ聖属性の浄化の力が、私たちの戦局を一気に変えた。
彼の力で団員たちが救われ、私もまた助けられたのだ。
あの時、私は初めて他者に助けられるという経験をした。そして、その後の彼の言葉 -「誰かを守りたいと思う気持ちがあるなら、それが君の力になる」-その一言が、私の心に深く染み渡った。
誰かに認めてもらう。それがどれだけ嬉しいことなのか、あの時の不安に駆られた私にとっては溢れ出す気持ちのようだった。
それから、ソルト殿への気持ちに変化が起きた。
彼はただの冒険者ではなく、私たちの弱さも認め、受け入れてくれる存在だった。
助けられたという事実が、私の彼への不安と疑念を少しずつ溶かし、代わりに心の奥底で小さな灯が灯るのを感じた。
そして、今回。彼が執務室に来ると聞いた時、私はどう接すればいいのかわからなかった。
公の場では、騎士団長として冷静であるべきだという思いが先立つ。
副官やアーシャの前では、決して私情を挟まずに接するべきだと考え、つい冷たい態度を取ってしまう。
彼に誤解を与えているかもしれないけど、それでも「氷の騎士」としての私を崩せなかった。
しかし、二人きりになった瞬間、不意に心の鎧が溶けるような感覚が訪れた。
彼と向き合って話すと、妙に胸が高鳴る。距離感がつかめず、どうしていいかわからない。気持ちとは裏腹に、なぜか彼の側に近づきたくてたまらなくなる。
「で、だ。ソルト殿、話をしよう」
自分でも驚くほど、彼との距離が近いことに気づく。顔がわずか数十センチしか離れていない。彼が少し困惑した表情を見せると、私は恥ずかしさで顔を熱くする。
「えっと、セリーヌ様…少し、距離が近いような気がしますが」
彼の言葉でハッとして、思わず視線を逸らしてしまう。
どうして私はこんなに近づいてしまったのだろう。いつもの自分ならば、このような軽率な行動は絶対にしない。
それなのに、なぜか彼の側にいると、冷静さが保てなくなる。
「あっ、そうか。すまない。私は…その…距離感がな、少しわからない時がある」
しどろもどろに言葉を紡ぎながら、気まずい空気をなんとかごまかそうとする。けれども、彼はそんな私を優しく見つめ、ふっと微笑むのだ。
その笑顔を見た瞬間、私の心は一気に暖かさで満たされていく。
「いや、全然大丈夫です。私も少し緊張していましたし…その、気にしないでください」
彼の優しい声に、私は少しだけ安心する。そして思わず、とりあえず隣に座るという行動に出た。
近くで彼の声を聞いていたい、ただそれだけの気持ちだった。
執務室のソファに並んで腰を下ろし、私は彼と少しずつ打ち解けながら話を始めた。共に任務に出るという話が進む中、私はふと考える。
これから彼と共に歩み、任務をこなしていくのだとしたら -そんな日々が続くのだとしたら、私はどれほど嬉しいだろうか。
騎士団の団長として、冷静であろうとする自分とは裏腹に、彼の側にいると心が揺れる。冷酷さではなく、彼に認められたい、彼と共に在りたいという思いが強くなっていくのを感じる。
『氷の騎士』である私は、彼の前ではまるで氷が溶けるかのように……。
♢
ソルト殿との打ち合わせから数日後。
私は彼と共に黒い霧討伐の任務に臨むことになった。任務の場所は、王都の北に広がる暗い森だ。以前、私たちが苦しめられたあの黒い霧の魔物が再び現れたと報告があり、放っておけば騎士団の威信に関わる。
今度こそ、私たちの手でこの問題に決着をつけなくてはならない。
ソルト殿がこの任務に協力してくれるのは心強い。彼の聖属性の力は、この手の魔物に対して絶大な効果を持つことは、前回の戦いで身をもって知った。
だが、問題は彼が今回の同行者として誰を連れてくるかだ。アーシャだけではないかと勝手に期待していた私は、彼の連れてきた者を見て、動揺を隠すのに必死だった。
「セリーヌ団長、こちらが今回の同行者、クルシュです」
ソルト殿の言葉に、私は心の中で揺れが生まれた。
彼の側に立っているのは、ソルト殿と共に旅をしている剣士の女性、クルシュだった。彼女は無属性の使い手で、剣術に長けた優れた戦士だと聞いている。
そして、何より、彼の側にいることが自然に見える彼女の存在が私をざわつかせた。
「よろしくお願いします、セリーヌ団長」
クルシュは一礼し、私の前に立った。冷静さを装い、表情を崩すことなく彼女に応じる。いつもの氷の騎士としての自分を貫かねばならない。
「こちらこそ、よろしく頼む。無属性の剣士としてその実力は噂で聞いている。力を貸してもらえるのは助かる」
私の声は冷たく響き、いつもの騎士団長らしい口調だと自分でも思う。だが、内心では、目の前の彼女の存在にどうしようもなく焦りを感じていた。
彼の側にいる彼女、彼に対して信頼を寄せている彼女、その全てが私の心を乱していく。
冷静でいなければ。私は氷の騎士であり、彼の前で動揺を見せるわけにはいかない。
自分にそう言い聞かせる。騎士としての誇り、そして団長としての立場を思い出し、何とか心を落ち着かせる。
だが、彼女の瞳に宿る強い決意と、彼に向ける尊敬のまなざしを見ていると、どうしようもなく不安が胸を掻き立てるのだった。
森へと進んでいく。
私たちは先頭に立ち、ソルト殿とクルシュは少し離れて後方に続く。前を見つめ、任務に集中しようとするが、どうしても彼らのことが気になってしまう。
彼の側にいる彼女の姿が、ちらちらと視界の端に映るたびに、胸が締めつけられるような感覚を覚える。
(私は一体、何を焦っているのだ。こんなことでどうする。私は団長だ。私の使命は、任務を成功させ、仲間を守ることだ)
そう自分に言い聞かせる。ソルト殿が同行してくれることは、戦力としても非常に心強い。
それに、彼の力がなければ、再びあの黒い霧の魔物に立ち向かうのは難しいだろう。だからこそ、彼の力を借りることは当然の判断だと自分に言い聞かせる。
だが、それでも彼がクルシュを連れてきたことに対する焦りは、心の中から消えない。クルシュがどれほど彼にとって特別な存在なのかを、何となく感じ取ってしまうからだ。
そんな私の心のざわめきとは裏腹に、ソルト殿はいつも通りの落ち着いた様子で周囲を警戒している。彼の後ろ姿を見ていると、あの日の彼の言葉が頭をよぎった。
「君の心の強さがあるからこそ、仲間を守れるんだ。」
彼は私にそう言ってくれた。だが、今の私はどうだろう。焦りや不安に駆られ、心の中でぐらついている。これでは団長失格だ。
(だめだ、こんな弱気でどうする。私は彼に頼られているのだ)
クルシュが隣に来たことに動揺している場合ではない。彼に対して私はただの協力者であり、この任務を無事に終わらせるための仲間だ。
それ以上のことを考えてはいけない。自分にそう言い聞かせ、氷の仮面をかぶり続ける。
「セリーヌ団長、前方に異変があります」
副官の報告に、私はすぐに顔を引き締め、前を見据える。
森の奥に漂う黒い霧が、私たちの前に立ちはだかっていた。
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