5.そして幸せに暮らしましたとさ

「お、お父さまとお母さまを殺さないで!」


 魔獣と化したルーツィエの前に立ちはだかったのはユリウスだった。小さな体躯を精一杯伸ばして両親を庇っている。

 その両目には今にもこぼれ落ちそうなくらいの涙が溜まっていた。


「おお、これはこれは、ユリウス王子殿下。初めまして」


 ユリウスに気付いた魔獣ルーツィエは視線を落とし、いっそ慇懃な声音で挨拶をした。


「王子殿下は私と会うのは初めてですね。あの処刑の時にはまだ生まれていなかった……いえ、母君のお腹の中くらいにはいたのでしょうか? ですがまぁ、顔を合わせるのはどのみち初めてましてでしょう」

「お父さまとお母さまを、どうするつもりですか」


 フルフルと震えながらユリウスは魔獣ルーツィエへと問う。赤羽の魔獣は目を細めながら答えた。


「もちろん、我が父と同じように惨たらしい恥辱の死を迎えていただくのですよ。我が一族が汚名の中で果てたようにねぇ」

「ひぃぃ……!」


 金縛りにあったクリストフは逃げ出すこともできずガタガタと震えていた。目は剥かれ額には脂汗が浮かび、顔は恐怖に染まっている。ヨハンナも同じような形相だ。


「お、お願いルーツィエ。謝るから許してちょうだい……」

「そ、そうだ。ゆ、許してくれぇ……」

「許す! ああ、許すですって!?」


 ギョロリと目玉を動かし、魔獣ルーツィエは失言をした夫妻を睨み付ける。


「お前たちは許さなかったというのに! 父を、母を、叔父を! まだ幼かった弟ゲオルグを! 無実を訴える彼らをお前たちは一顧だにせず処刑した! だというのに自分の番だと知ると必死に許しを乞う! 謝っただけで許されると思う! なんと身勝手で哀れなんでしょう!!」

「た、頼む……命だけは……!」


 それでもクリストフは命乞いを続けた。動けない彼にはそれしかできなかったからだ。


「お、俺が死んだらこの国は終わりだ。ナハティガル家があったという証も、失われてしまうぞ……!」

「関係があるか。どうせ我が血族は私を除いて誰もいないのだ。であれば記録も何も、滅んでしまった方がよい」

「元々あったお前たちの領地に住む領民は、ど、どうするのだ」

「ナハティガル家に対する無体を知った領民たちは反乱を起こしたそうじゃないか。それをお前たちは武力で制圧した。ほとんどを殺し、生き残った僅かな領民も奴隷にして使い潰した。今ではあの地には見知らぬ者しか住んでいなかったぞ」

「な、何故それを……」

「この翼が見えないか? 飛んで確認することなど造作もない」


 これ見よがしに翼を広げ、魔獣ルーツィエは見せつける。お前の知っているようなことなど、全て調査済みだと。


「もう私の愛したナハティガルはどこにもない。ならば、王国など滅ぼしても構わんだろう?」


 そして説得する材料などどこにもないことを、クリストフも認めざるを得なかった。


「ぐ、うぅ……」

「話は終わりか? なら……」


 魔獣ルーツィエは固まったままの王夫妻へ向けて一歩を踏み出す。死神の宣告めいたそれに、クリストフは震える歯をカチカチと打ち合わせた。


「ひ、ひぃぃ……!」


 圧倒的な力を見せつける魔獣たち。人間が敵う筈がないというのは、散々に見せつけられた。だから絶望してしまう。その裁定は絶対なのだと。


「や、止めてください!」


 それでも魔獣の前にユリウスは立ち塞がった。


「……ユリウス王子殿下。話を聞いておりましたか? 彼らが悪いのですよ。私の家族を殺し、私を悪魔の森へと追放した。正当な復讐でしょう。異論がお有りで?」


 魔獣ルーツィエは猫のように背を屈め、ユリウスと視線を合わせてその瞳を覗き込んだ。歪み、深淵めいて深くなったその瞳孔を間近で見たユリウスは恐怖から声を上げそうになるが、グッと堪え、魔獣ルーツィエを睨み返した。


「確かに、お父さまとお母さまが悪いのかもしれません」


 ユリウスは両親とは違い、真っ当な感性をしていた。それは意外とクリストフたちが教育上手だったのか、あるいは教師たちの手柄か。またあるいはここからクリストフたちは歪んでいったのか。今となってはもう定かではないが、とにかくユリウスは両親の罪を認めた。

 しかし。


「それでも、二人は僕の家族なのです!」


 だとしてもユリウスの親はクリストフとヨハンナ、二人だけだった。

 家族。その言葉に魔獣ルーツィエはあの日のことを思いだした。


「お願いです! 僕から家族を奪わないで!」


 あの時、父が処刑されようとしている瞬間に泣き叫んでいた自分。奪われた家族の為に復讐を遂げようとしている魔獣ルーツィエには、今のユリウスの気持ちが痛いほど分かった。ただ家族がいなくなることを拒み、無力だとしても必死に抗おうとした。

 ユリウスは、ルーツィエと同じだ。


「どうしてもと言うなら、ぼ、僕を……僕を、こ、殺してからにしてください」


 フルフルと震え、精一杯にユリウスは言った。彼ほどの歳の子どもが自分の死を受け入れるのには、どれほどの勇気がいっただろう。


「そ、そうだ! そんな子どもを手にかけるのか!?」


 それに便乗しようとしたのは、クリストフたちだった。


「いくらお前でもそんな子どもを手にかけるのは良心が痛むだろう! それにお前の処刑当時に生まれていなかったと言うのなら、ユリウスに罪は無いだろう! だったらお前はユリウスを殺せないはずだ!」

「そ、そうよ! ユリウス、私たちを守って頂戴!」

「………」


 我が意を得たりと言わんばかりに二人は勢いづいた。自分たちが助かる光明が見えたと思っているのだろう。魔獣ルーツィエの目は冷たい。

 だが、一部だけには同意だった。


「ああ、そうだ。あの時いなかった者たちに罪は無い」

「だ、だったら……」

「だから、こうしよう」


 そして魔獣ルーツィエはその場で歌いだした。部屋に響く、伸びやかで美しい旋律。ゾッとするような冷たい音の中に、僅かばかりの慈しみが籠められた歌声だった。

 魔の歌。それを聴いたユリウスの瞳がトロンとまどろむ。


「ユ、ユリウス?」


 己が息子に変化にクリストフは名前を呼ぶ。だが返事は無い。やがて歌はピリオドを結び、止んだ。

 再び静寂が訪れた室内で、魔獣ルーツィエは優しく言った。


「さぁ、ユリウス。こっちに来なさい」

「はい……」


 それまで決してここを退くものかという決意で立ち塞がっていたユリウスは言われるがままに歩き出し、赤羽の腿へと抱きついた。

 素直に命令を聞いてしまった息子に王夫妻は目を剥く。


「ど、どうして!?」

「おや、先程言ったことをもう忘れたのか? 私の声は、精神を自由にできるのだよ」


 魔獣ルーツィエは、言いながらユリウスの頭を撫でる。その瞳は何も映してはいなかった。


「歌で、記憶を操った。もうお前たちのことを親だとは思っていない。だろう、ユリウス?」

「はい……お母さま」


 蕩けた眼差しのまま、ユリウスは頷いた。

 絶望したのは王夫妻だ。


「そ、そんな……」

「言っただろう、復讐だと。ずっとお前たちに一番効くような罰を考えていた。仮にも人の親に一番効くのは、やはり子どもを奪われることだろう。それもただ命を奪うのではなく、親としての全てを奪うのはどうかと考えた」


 ニヤニヤと嗤い、魔獣ルーツィエは告げた。


「これからは私がユリウスを育ててやる。お前たちの代わりに、もっとずっと立派にな」

「そんな、ユリウス、ユリウス! こっちに戻ってらっしゃい、ユリウス!」


 ヨハンナが呼びかけるが、ユリウスは微動だにしなかった。ぎゅっとしがみついたまま、ただそこにいる。まるで見知らぬ土地で母親に縋り付いているかのように。


「ああ、素晴らしい。私はお前たちから親であったという事実すら奪うのだ! ……そして、もうお前たちを守る者はいなくなったな」

「ひ、や、やめてくれぇ……」

「ワケが無いだろう」


 魔獣ルーツィエはそっとユリウスを脇にずらし、金縛りのまま動けないでいるクリストフとヨハンナへと近づくと、両の脚でその身を掴んだ。鋭い爪がガウンとドレスを貫通し食い込む。


「ひぎぃ!?」

「この時を、十年も待ったのだから!」


 そのまま、魔獣ルーツィエは窓から空へと飛び出した。仇をぶら下げて、大空を舞う。


「ひぃやあああああぁぁあああああ!!!」

「ははは! どうだ、お前の王国、その落日の風景は!!」


 眼下にはあちこちから火の手を上げる王都の有様が広がっていた。火を吐く魔獣が家屋に吹き付け、家々を焼いて回っている。未だあちこちでは生き残りを追いかけているのか、悲鳴も止んではいなかった。

 王城も、空を飛ぶ魔獣に襲われて落城していた。既に国でもっとも堅牢だった城砦の面影は無い。先程兵士長を掴んでいた竜が翼を持つ者たちを率い、残った兵士たちを炙りだしている。ちなみにその脚には、爪の先に引っかかる兜しか残ってはいなかった。

 人も、文化も。何もかもが消え去ろうとしている滅びの光景。それをうっとりと見つめながら、魔獣ルーツィエは足元の二人へ話しかける。


「これはお前たちが引き起こしたことだ。家族を謀略に陥れ、その身を無惨に引き裂いたお前たちの因果、その報いこそがこれだ!」

「ひぃあああああぁぁぁ……」


 掴まれたクリストフはそれどころで無かった。高所へ晒される恐怖にいっぱいで、絶叫を上げることしかできないでいた。ヨハンナに至っては、既に気絶してしまっている。

 思っていた反応を得られず、魔獣ルーツィエは面白くなさげに鼻を鳴らした。


「ふん、つまらん。もう終わりにするか」


 魔獣ルーツィエはそう言うと、パッと、その足を離した。

 重力に引かれ、二人の身体は落ちていく。


「ひぃいいいいいぃぃぃいいいいいぃぃ!!!」


 落ちていく間、クリストフは回想した。何がいけなかったのか。母を無視してルーツィエを殺しておけばよかったのか。それともヨハンナの口車に乗らなければよかったのか。あるいは、始めからルーツィエを受け入れておけばよかったのか。

 後悔する。だが、もう全ては遅い。


「ひぎゃあっ!!」


 グチャリという音。全身を突き抜ける激しい衝撃。それが落下した自分の音だと、クリストフはすぐに理解した。


「あ、が……い゛、生ぎでる゛?」


 手足には凄まじい痛みが走っている。あらぬ方向に折れ曲がっているのも見えた。声も出ない。自分の身体は恐ろしいことになっているのだろう。だが、生きていた。


「ぐ、げ……」


 隣でもヨハンナが蠢いていた。痛みで起きたのだろう、苦しげに呻いている。だがそちらも、まだ息があった。


「な゛ん゛、で」

「まだ足りないからだ」


 バサリ、バサリと音がして、魔獣ルーツィエが舞い降りる。二人を見下ろす翡翠の視線は、ゴミを見るようだった。


「そんな程度の痛みでは、まだまだ私の復讐には足らない。お前たちにはたっぷりの苦痛を味わったまま、死んでもらう」

「ご、ごれ、以上……?」

「そうだ」


 翻すように翼を上げる。すると、囲うように魔獣たちが進み出た。どれも、乱杭歯の間から涎を滴らせているような奴ばかりだった。


「お前たちの無能が犠牲にした民衆たちの苦痛も味わわなければ損だろう。だから生きたまま喰われて、死ね」


 そう言って、魔獣ルーツィエは腕を下げた。途端、殺到する魔獣たち。


「いぎ、やべでぐれぇぇぇっ!!」

「ひぎぃぃ!! いだいいだいぃぃ!!」


 腕を、足を、乳房を捥ぎ取られ、二人は喰われていく。生きたまま己の身を引き千切られていく苦痛。普通に生きていれば決して味わうことの無い感覚にクリストフとヨハンナは絶叫した。

 その叫びの中、縫うように子守歌のような旋律が響く。


「あ゛……うぎっ」


 その歌を聴いて不思議に思いながら、クリストフはまたどこかを食い千切られた。だが、まだ死ねない。それどころか、痛みで気を失うことも。


「な、ぜぇ……」

「歌を歌ったからだ」


 肉クズになっていく二人を魔獣ルーツィエは満足げに見下ろす。


「お前たちが途中で気絶しないよう、歌で働きかけた。死ぬまでの間、充分に苦痛を味わって、逝け」

「ぞん、な゛ぁ……」


 絶望し、苦痛の中喰われていく。

 内臓が食い破られるのも、骨がしゃぶられるのも、目玉がほじくられるのも。その全てを鮮明に感じたまま自分の身体が冷たくなっていく。そのことに恐怖しながら、クリストフもヨハンナも同じ事を思う。


(ああ、あの時ナハティガルを、処刑しなければ……)


 これ以上無いほどの後悔を魂に刻み込み、クリストフとヨハンナは死んだ。




 肉片すら残らない血の染みとなった二人を見て、魔獣ルーツィエは息を吐いた。


「お父さま、お母さま、叔父さま、ゲオルグ。見てください、全て終わりましたよ」


 そう空へと語りかけるが、当然のことながら返事は無い。そのことに虚しい涙を流しながら、それでも魔獣ルーツィエは家族が安らかなるよう祈りを捧げた。


「女王様、連れて参りました」


 その背に声をかけるのは、角と翼が生えた赤銅色の髪の偉丈夫だった。肌に生えた鱗は、あの時兵士長を振り回していた竜と同じ色をしている。

 魔獣ルーツィエは余韻を残したまま振り返った。


「えぇ、ご苦労様でした」

「悲願の成就、おめでとうございます」

「貴方にも苦労をかけましたね、オイゲン」

「いえ、これが償いの一端にもなれば幸いです」


 そう慇懃に頭を下げるのは、かつて兵士だった男だ。

 現在の兵士長と共に、ルーツィエを森へと追放した片割れ。だがオイゲンはそのことを悔い、自らも悪魔の森へと身を投げ出した。その果てに、魔獣と化したルーツィエと出会ったのだ。

 以来オイゲンは、その罪を雪ぐために仕え続けた。


「ええ。許しましょう、オイゲン」


 十年間、ずっと支え続けてくれた竜人のことを、ルーツィエは許した。


「そしてこれからもずっと支えてください。まだこれからが、永いのですから」


 魔獣ルーツィエの姿が変じる。

 見上げる程に高かった全長は縮み、かつてと同じ丈となった。翼も下半身も縮み、赤い羽は彼女の肢体をドレスのように覆う。そこにいたのは異形の気配を残しつつも、美しい貴婦人だった。

 ルーツィエはオイゲンにエスコートされ、彼の連れて来た者たちの前に歩み出た。


「ようこそ、私の可愛い子どもたち」


 優しく声をかけたのは、集められた子どもたちだった。その先頭にはユリウスがいて、全員同じように目が蕩けている。


「ええ、クリストフ。一つだけは、その通り。十年前に生まれていなかった者に、罪はない」


 だから彼らだけは殺さなかった。十歳未満の子どもたち。それだけは生かした。

 子どもたちの前に進み出たルーツィエはその肩に優しく手を添えた。


「ではみんな、行きましょうか。新しい国の始まりです」

「「「はい、お母さま」」」


 魔獣と子どもたちを引き連れ、ルーツィエは歩き出す。

 復讐を終えて、新たな明日を手に入れるために。





 ナハティガル魔王国。

 そこはかつて王国があった土地を占領し、新たに打ち立てられた魔獣の王国。

 人間の代わりに魔獣が暮らすその国は、攻めかかる国を討ち滅ぼしながら永く存在し続けた。

 子どもたちに愛され、竜の伴侶に支えられる、一人の女性。

 その者を後世の人々は、魔王ルーツィエと呼んだ。

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