4.魔王降臨
魔獣の襲来。そしてクリストフが王城に立て籠もってから三日が過ぎた。
魔獣たちは相変わらず、王城を襲うことは無い。時折気まぐれのように城壁を引っ掻きに来る魔獣はいるが、他の魔獣に諫められるように咆哮されると群れの中へと渋々戻っていった。魔獣たちは王城を避けるようにして手を出さない。故に、王城は未だ無事だった。
しかしそれは兵士たちにとって安息を意味しない。魔獣は確かに王城を襲わないが、王都の民たちの捕食は現在も続いていた。耳を塞ぎたくなるような凄惨な悲鳴が、今も響いてくるのだ。兵士たちの精神は刻一刻と削られていた。
「兵士長、討って出ましょう!」
兵士たちが兵士長へと訴える。
「もう限界なんです! 寝ても覚めても悲鳴が聞こえてくる、気が狂いそうです!」
「街に妻子を持つ者も多く、家族が襲われているかもしれないと、制止を振り切って飛び出そうとする者だっています!」
「城に籠もったまま何もできず死ぬのなんて嫌です、出撃させてください!」
「……駄目だ」
兵士たちの懇願に、兵士長は首を横に振った。
「何故!」
「出たところで、あの恐ろしい力を持つ魔獣たちに勝てるのか。家屋を積み木の如く破壊し、一口で人間の半身を食い千切るあの化け物たちに敵うとでもいうのか」
「し、しかしこのままではどの道飢え死にしてしまうのでは!?」
「……耐えれば、他の領地からの救援があるかもしれない。今は堪えるのだ。それに城門を閉ざし決して開けてはならないというのは、他ならぬ王命だぞ」
兵士長は王の命令であるということを引き合いに出し黙らせようとした。しかし兵士の一人が食い下がる。
「そのクリストフ陛下は、今どこに……!」
「……それは」
痛いところを突かれ、兵士長は押し黙るしか無かった。
「うぅぅ、ううううぅ」
寝室で、クリストフはシーツを被って震えていた。年を経ても美しいと言えた美貌はもはや見る影も無く、髪は艶を失い目元は落ちくぼんでいる。ガタガタと震え、癇気の子どものように唸るその姿に、王の威厳はどこにもなかった。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
外から悲鳴が聞こえてくる度、クリストフはシーツを目深に被って聞こえなかったことにしようとする。だがそれは無理なことだった。民衆が食い破られる悲痛な叫びは、例え耳を塞ごうと響いてきた。
夜だろうが早朝だろうがお構いなしだ。当然、この三日間一睡もできていない。
だがもし悲鳴が無かったとしてもクリストフは眠れなかっただろう。何せずっと自分を悩ませてきた悪夢が現実の光景となったのだ。眠ったとしてもこの地獄のような現実が繰り返されるだけであることは明白だった。
「陛下、陛下!!」
ドンドンと寝室の扉が叩かれる。聞こえてきたのはヒステリックな女の叫びだった。
クリストフはその音からも逃れようとシーツに包まる。
「陛下、いらっしゃるのでしょう! 開けますよ!」
我慢ならないとばかりに扉を開け押し入ってきたのはユリウスを連れたヨハンナだった。
部屋を見渡したヨハンナはベッド上の情けない姿のクリストフを見つけ、キッと睨み付ける。
「陛下! やっぱりここに」
「よ、ヨハンナか」
流石に伴侶と息子が相手となると夫としてのプライドが勝るのか、クリストフはベッドから降り咳払いをした。
「きょ、許可も無く入ってくるな。王妃と言えど、無礼だぞ」
「そんなことより、どうにかしてくださいまし!」
ヨハンナは半ば金切り声で詰め寄った。
「さっさと外の獣共を追い払ってください! 私もユリウスも恐ろしくて堪りません」
「む、無理だ。そんなことができるならとっくにやっている」
「じゃあ避難させてください! 王族だけでも脱出しましょう!」
「それも駄目だ。王都は完全に包囲されている。私も逃げられないかと兵士を斥候にやったが、魔獣に喰われてしまった」
「じゃあどうするというのです!?」
「そんなものこっちが聞きたい!!」
二人は声を荒げ、言葉は激しくなる。やがて王夫妻の言い合いは罵り合いにまで発展した。
「貴方はいつだってそう。変なところで臆病でいつもしくじる! あの獣たちの姿が見えた時点で私たちを避難させておくべきだったのです!」
「何を! お前はアイツらの怖さを知らないからそう言える。逃げたところで追いつかれれば終わりだ。それなら丈夫な王城に籠もった方がマシだ。女は口を出すな!」
「その結果が今の現状でしょう!? 女よりも女々しい国王に言われる筋合いはありませんわ!」
「なんだと!?」
耳を塞ぎたくなるような罵倒の応酬。間に挟まれたユリウスはオロオロと狼狽えながらそれを見上げていた。両親の喧嘩を止めるという難事は、幼い彼にとっては鬼門だろう。
この国でもっとも高貴な身分である二人を止められる者はおらず、このままなら不毛な罵り合いがいつまでも続いていただろう。
だが、そうはならなかった。
何故なら部屋の窓ガラスが、強い風に煽られ罅割れ、吹き飛んだからだ。
「うわああぁぁぁっ!?」
「きゃああぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げる二人。ユリウスも唐突な出来事に驚いて固まるが、次いで聞こえてきた音に視線を外へと動かした。
それは羽音だった。
「な、なん……ひぃっ!?」
同じく音に気付いたクリストフは窓の外を見た。そして、そこにあった存在に顔を青ざめさせた。
そこにいたのは巨大な翼を持つ、半人半鳥の魔獣だったからだ。
「う、うわあああぁぁぁっ!!」
「ひ、きゃあっ!?」
クリストフもヨハンナも恐怖を感じて部屋の隅へと後退る。ユリウスは硬直したまま置いて行かれた。
そして窓枠をくぐって、鳥の魔獣が侵入する。
鳥の魔獣は女の顔をしていた。美しい造形だ。彫刻のような輪郭に、ゾッとするような冷たい双眸を浮かべている。その冷徹な輝きを宿した緑色の眼差しにクリストフは記憶がくすぐられるものがあったが、恐怖が勝って思考が纏まらなかった。
両腕は翼、下半身は鳥。上半身は人型だが、服のように赤い羽毛が覆っていた。下半身と翼が巨大なため、上背があり威圧感がある。
鳥の魔獣は翼を胸に当て優雅にお辞儀をしてみせた。
「ご機嫌よう、クリストフ国王陛下」
「しゃ、しゃべった……し、しかも何故、俺の名前を」
魔獣が言葉を発したこと、そして自分の名前を口にしたこと。その両方にクリストフは慄く。
赤羽の魔獣はクスクスと笑った。
「あら、お気づきになりませんか。顔かたちは、あまり変わっていないと思うのですが。それとも偉大なる国王陛下にとっては、私の顔など憶えている価値も無いということなのでしょうか」
「何を……いや、しかしその声……」
紡がれる声は恐ろしい様相に似合わず美しかった。その声にクリストフは覚えがあった。そして、顔も思い出す。
「き、貴様、ルーツィエ、ルーツィエ・ナハティガルか!?」
それは十年前に追放し、今は生きている筈が無い女の名前だった。
「ええ、陛下。思いだしていただけたようですね」
言葉だけは慇懃に、しかし顔は意地悪い愉悦に歪めながら魔獣ルーツィエは肯定した。
クリストフは唇を戦慄かせた。
「あ、あり得ない。お前は、死んだ筈……!」
「いえ、生きていました。ずっと、悪魔の森で」
「馬鹿な……! 喰われて死ぬ筈だ!」
それこそあり得る筈が無い。誰も帰還したことのない悪魔の森へ足を踏み入れれば、魔獣に襲われて死ぬのだから。
「そもそも、魔獣とは何か」
魔獣ルーツィエは講釈を述べるかのように胸を反らし、指の代わりに羽根をピンと一つ立てた。
「簡潔に答えを言いましょう。魔獣とは、『悪魔の森へ入った人間が変化した姿』なのです」
「何だと……!?」
「悪魔の森へ入ると、人の身体は変化するのです。醜い獣の姿へと」
ヨハンナは震えるばかりで一言も言葉を発せない。ユリウスはポツンと、一人捨て置かれている。
「悪魔の森へ入って誰も戻ってこないのは、人間ではなく魔獣となるから。悪魔の森の周囲に魔獣が蔓延るのは、森こそが魔獣の生まれる原因だから。真実を知ってしまえば、呆気ないものですね」
「お、お前は、魔獣に堕落したというのか」
「堕落。酷い言われようですが良い響きですね。ええ、そうです」
唇が弧を描く。ニタリと笑って、魔獣ルーツィエは答えた。
「私は堕落したのです。身も心も獣に委ね、それでも生きながらえた。人では無くなっていく身体と冷たい獣の倫理に浸食されていく心。それでも耐え忍び、私は生きた」
魔獣ルーツィエは覗き込むようにして鎌首をもたげた。瞳を激情に歪ませて。
「全ては、この時の為に。お前に復讐する為だ、クリストフ」
「ひぃ……!」
形だけは笑みだが、その表情は怒りと憎しみに染まっていた。クリストフが生涯で見たことがない程に、凄絶な顔だった。
「長かった……長かったよ、クリストフ。十年だ。獣に浸食されて消えそうになる自我を必死に保ち、そして全ての魔獣を従えられるようになるまで」
「全ての魔獣……で、では、王都を襲った魔獣たちは」
「私の手勢だよ、クリストフゥ」
憎悪を滴らせながらも、魔獣ルーツィエは心底愉快そうにせせら笑った。
「あはははっ! 知らなかっただろう! 魔獣になると不思議な力も身につくようでね、私の声は生き物の精神を自由にできるのさ。この声を、特に歌を聴いた者は私の意のままとなる! 配下とすることも、ね」
「た、民を襲わせるとは、人の心は無いのか」
「人の心! あはははははっ!!」
ゲラゲラと、涙すらも浮かべながら魔獣ルーツィエは大笑いした。
「それをお前が言うのか、クリストフ! 民を見捨てたお前が、私の良心に訴えるのか! あははっ!」
「ぐぅ……」
「あはは……それに、関係ないね。私たちの処刑を笑って見物した外道共のことなんて」
煮える鍋の底のような感情を滲ませながら、魔獣ルーツィエは吐き捨てた。
「お父さまから受けた恩を忘れ、死体を辱めた奴輩もみんな死ねばいい! あの場にいた連中に例外なんてない。ただ殺すのすら憎らしい。悪夢に震え精神の細らせ、魔獣に喰われる絶望の中で死に絶える! それでようやっと溜飲が下がるというものだ」
「あ、悪夢……?」
クリストフの脳裏にフラッシュバックする夢の、今は現実となった光景。そして不気味な歌。そして気付く。その声は、目の前の女の物であると。
「もしかして、貴様が、貴様が俺に悪夢を見せていたのか……!?」
「あははっ、ご明察。私の声は、歌にすることで人の心をも操れる。こんな風にね」
魔獣ルーツィエが短いフレーズを口ずさむ。それだけで、クリストフとヨハンナの身体は金縛りにあったように動けなくなった。
「ひぃっ!?」
「逃げられても面倒だからね。まぁ、逃げるところも無いんだが……お」
聞こえてきた悲鳴に魔獣ルーツィエは首を巡らせる。それは外からでは無く、城内から響いていた。
「始まったようだな」
「ど、どうして城内から……」
「そんなの、私が魔獣に襲わせたからに決まってるじゃないか」
その瞬間、窓の外を黒い影が過ぎる。影の正体は翼を広げた竜の魔獣に足を掴まれ振り回される、兵士長の姿だった。
「た、助けてくれぇぇぇぇっ!!」
「翼を持つ魔獣が私一人だけかと思ったかい? 今までは私が命令して襲わせなかったのさ。何せ最後まで残したい、デザートみたいな物だからねぇ」
遠くなっていく兵士長の悲鳴を見送って、魔獣ルーツィエは視線を王夫妻へと戻す。まるで鼠をいたぶる猫のように、ゆっくりじっくりとその全身を舐めるように睨んだ。
「さて……どうしてくれようか」
「ひぃ……た、頼む、見逃してくれ。アレはヨハンナに乗せられてのことだったのだ」
「陛下!?」
自分を売ったクリストフにヨハンナは目を剥く。
「そんな、アレは陛下から願い出たことでしょう!」
「知らん、お前が勝手にやったことだ! だから俺もヨハンナの被害者なのだ! 殺さないでくれ!」
「そ、それならば死刑執行書にサインしたのは陛下よ! 私は証拠を用意しただけ、実行したのは全部陛下よ!!」
「なっ、お、お前!」
「醜いことだな。だが、もう今更だ」
二人の命乞いに魔獣ルーツィエはつまらなそうに言った。
「お前たちのやったことは明白で、そして結果が全てだ。私の家族はみんな死んだ。だからそこに関わっていたお前たちは全て殺す。それだけだ」
「そ、そんな……」
「言いたいことはそれで終わりか? だったら、もう未練は無いな」
「ひぃぃぃ……」
「待って!」
怯える王と王妃。二人を庇って魔獣との間に割って入ったのは。
「お、お父さまとお母さまを殺さないで!」
まだ幼い、王子ユリウスだった。
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