第3話

 翌日は日中から水上楓の姿を田浦は視線で追った。担任しているクラスの生徒ではないが、三組の授業を受け持っているので、彼女のことは以前から知っていた。

 線が細く、落ち着いた物腰の少女は周囲の生徒よりも大人びた印象で、やや浮いているようにも見えた。親しくしている友達はあまりいないようで、休み時間なども一人で本を読んでいたり、ぼんやりと窓の外を眺めている姿が見受けられる。心配になり、田浦は一度「いじめられていたりしないか?」と尋ねたことがあった。しかし、楓は薄く微笑んで首を左右に振るだけだった。


 篠原とき子が訴えてくる前から、水上楓がパパ活をしているという噂は耳にしていた。友達もなく、学校以外の生活が容易に想像できないので皆がその噂を信じ、誰も彼女を庇う人間はいなかった。教師間でもその噂は当然耳に入っていたが、大人しい生徒であるし、証拠と呼べるものも一切ない。悪意ある噂ということで、それ以上取り上げることはなかったのだが、まさかこのような面倒事になるとはと田浦は昨日から数えて何度目ともなる溜息を漏らす。


 授業中、他の生徒に教科書を読ませている間、田浦は何度となく様子を窺うがいつもと変わったところはなく、余所見をすることなく授業に集中している。いったい何を考えているのだろうか。他の人間に見詰めていることがバレないように観察を続けるが、その心中は計り知れない。

 放課後も誰かと会話をするわけでもなく、荷物をまとめると楓はそそくさと教室をあとにする。郊外で誰かと待ち合わせをしている可能性もある。疑心に苛まれながら、田浦は取るものもとりあえず彼女のあとを追った。


 昨日も大館の尾行を行い自己嫌悪に陥ったが、今夜も酒量が増えそうだ。そんな思いを抱きながら、夕闇が迫る街並みを歩いた。途中、書店やスーパーマーケットに立ち寄って、細かい買い物はしていたが、その他別段やましい素振りもなく楓も家に帰っていった。

 男と密会している場面に出くわすことがなくて、よかった。余計なトラブルを招くことがなくて済み、田浦は安堵の息を吐いて、置いてきた荷物を取りに学校まで戻った。


     ※


 学校に戻ると、田浦は男子生徒たちの他愛もない会話を耳にする。

「いい加減、告白しちゃえばいいじゃん。」

「いや、でも切っ掛けがなくて、」

「そんなの待っていたら、いつになっても気持ちを伝えられねえよ。大体、水上相手じゃあいつまで経っても切っ掛けなんてできないぞ。」

「確かに、」

「でも、あいつ色々とやっているみたいだから、頼めばやらせてくれるんじゃね?」

「噂だろ、それ。」

「いやいや、そうでもないらしいぜ。この間、男と一緒に歩いているところを見た奴がいるっていう話だ。」

「家族とかだろ、」

「さあ、な。」

 二人の生徒の会話を立ち聞きし、先程の安心感は何処か消え、田浦の心には再び不安が支配しはじめた。


     ※


「何かあったの?」

 職員室に置いたままだったスマホを手に取ると、週末会う約束をしていた相手から連絡が入っていた。普段は田浦から連絡を取らないとメッセージを送ってくることがないのだが、その時は珍しく相手から連絡があった。

「唐突にどうした?」

「予定を急にキャンセルしたから、何かあったのかなと思っただけ。」

 本当にそれだけなのだろうか。ならばなぜ昨日のうちに返信をしなかったのだろうか。疑問に思いながらも、田浦は新たな約束を送る。


「うん。いいよ。」

 返事はすぐにきた。浮き沈みの激しい一日だったが、田浦はどうにか心安らかに一日を終えることができそうだった。


     ※


 幸か不幸か大館茂吉と水上楓の行動に報告すべき点が見られないまま、田浦は週末を迎えた。

 試験休み期間ということで、普段であれば運動部の活動で賑やかな休日の校庭も、その日はひっそりと静まり返っていた。聞こえてくるのは校内で使用されている電動モップの駆動音だけ。

 毎週土曜日、大館は校舎の掃除が行き届いていない箇所の清掃を行っている。そのことを知っていた田浦は早朝から無人の学校に眠たい眼をこすりながらやってきたのだが、予想外に職員室には先客がいた。


「教頭、どうされたんですか?」

 職員用昇降口の鍵が開いていたので不思議に思っていたが、休日に教頭が学校にやってくるのは彼が覚えている限り、はじめてのことだった。

「ちょっと、残務があってね、」どこかばつの悪い表情で、教頭は言葉を濁す。「そういう君は?」

「大館の行動を監視するためですよ。」誰の所為で休みの日まで学校に赴いていると思っているんだ。という心の声は押し殺しながら、田浦は答える。

「それで、何か分かったことはあるのか?」

「いいえまったく。やはり、根も葉もない噂なんでしょう。」

「そうか。」教頭は一つ頷き、溜息を吐く。「しかし、それで篠原さんが納得してくれますかね。」


 あの篠原とき子という女は人の話に耳を傾けるタイプではなく、ただ直情的に自身の考えを述べるだけの厄介なタイプだ。どのように説得すれば調査の結果に納得してくれるか、田浦も教頭も頭を悩ませる。

 だが、約束の日にちまでまだ数日残っている。もしかしたら、その数日で状況は一変するかもしれない。無駄なことに頭を使っても仕方ない。気持ちを切り替えて、田浦は教頭と別れて受け持っている教室に隠れて大館が掃除をはじめるのを待つ。

 旧型の電動モップは駆動音が大きく、周囲の物音を隠してくれる。先日の校舎裏の倉庫を監視している時よりも、気楽な思いで田浦は大館の様子を窺っていた。


 時計の針が正午を回ったころ、窓の外に生徒の姿が目に付いた。あれは、と身を乗り出して校門を潜る男子生徒の顔を検めると、先日水上楓への告白を煽られていた生徒だ。確か、西川大樹だっただろうか。何故彼が休日の学校にやってきたのだろうか。訝しがりながら、校舎の中に入っていく姿を田浦は見詰め続けた。

 しばらくすると、モップの耳障りな音は止み、大館は片付けをはじめる。それとほぼ同じタイミングで校庭を横切って校舎へと向かってくる新たな生徒の姿が窓から見えた。


 水上楓だ。


 田浦は慌てて教室を出るが、廊下には大館の姿はすでになかった。どこに行ったのだろうか。一瞬、理解が遅れるが、よくよく考えれば清掃道具を片付けに倉庫に戻ったと分かる。彼は急いで倉庫へ向かい、大館の行動を確認に向かう。

 しかし、倉庫で道具を片付ける彼は、先日と同じく特に怪しい行動をするわけでもなく、黙々とひとり仕事をこなしているだけであった。


 楓はどこにいるだろう。踵を返し、田浦は校舎へと戻り、渡り廊下を渡る。いくつかの教室の横を通り抜けるが、西川の姿も見当たらない。ざわざわと田浦は胸騒ぎを覚える。

 はやる足を抑え、田浦は先程までいた教室に戻ると、そこでようやく彼は水上楓の姿を見付けることができた。

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