第2話
――どうして逃げていたのですか。
乳白色の濃い霧の向こうから、誰かが彼に問いかける。何故、オレは逃げていたのだろうか。彼は質問に答えるように考えを巡らせる。
「生徒のひとりが亡くなったんだ。」
――どうして、亡くなられたのですか。事故死? 病死?
「違う。彼女は殺されたんだ。教室で、首を絞められて、」
――貴方が殺したのですか?
「そうじゃあない。オレは、オレは、」
――では、どうして逃げていたのですか?
「疑われたんだ。だから、逃げなければならなかった。でも、あいつらはオレをどこまでも追いかけてきた。」
こんな問答している間にも、あいつらはオレが何処にいるか見つけ出して、あの扉から駆け込んでくるかもしれない。不安が急激に彼の心を支配していく。
――どうして、そのようなことになったのですか?
労わるような優しい問いかけに、彼の恐れは幾分和らいでいく。この人ならば、自分の言い分をしっかりと聞いてくれるかもしれない。霧の中、相手の顔も姿も分からないのに、彼は安らぎを覚えてにわかに心を開いて語りだす。
「事のはじまりは、どれだったのだろうか、」
※
「あの噂は本当なんですか?」
尻尾を踏まれた犬が上げる悲鳴のような甲高い声を張り上げて、篠原とき子は眼前の男二人に詰め寄る。
足の短いテーブル越しのソファに向かい合って座るなり、お茶を出す暇も与えずに彼女は金切り声を張り上げていた。
「いや、まあその、」教頭はここ数年でとみに薄くなってきた頭部を右手で撫でながら、ぎこちなく頷いて見せる。
そこは学校の来客用の応接室。生徒の父兄であるとき子は耳にした噂の真偽を確かめるために娘の担任とその直属の上司である教頭を捕まえて、ヒステリックに声を張り上げて詰問をしていた。
「いつもいつもこの母親は、」田浦昭は吠え立てる雑音をうんざりとした思いで聞き流しながら、内心溜息を吐く。何か事あるごとに篠原とき子は学校に乗り込んできて、喚き立てる。彼も今まで何度彼女に拘束され、問い詰められたことだろう。今日も、学校に乗り込んでくるなり、田浦と教頭を捕まえてうっぷんを晴らすかのように声高に苦情を訴える。
その内容を要約すると、次のようなものだった。
「用務員の大館茂吉が以前勤めていた学校で女子児童に卑猥なことを行い、クビになったという噂は本当か。」というものと、「三組の水上楓という生徒が、いわゆる援助交際をしているという噂は本当か。」という二点であった。まとめ上げれば短く、イエスかノーで返答できる質問であるというのに、とき子は昨今起きている教員による猥褻事件や逸脱した生徒が他生徒に与える悪影響など、もっともらしい話を何度も何度も寄り道しながら話をするので時間がかかる。
「安心してください。そのような事実があった場合、速やかに対処いたしますので。」
「事実が発覚してからでは遅いと言っているんです。いいですか、中学生という年齢は多感な時期なんです。ちょっとした噂や伝聞にもすぐに悪影響を受けてしまうんです。ですか、それらが本当のことであったならば、どんなに子供の心を傷め、苦しめるか分かっていますか。真偽を確認してからでは遅いんです。子供たちを真に守るのであれば、悪い影響を与えかねない種は芽が出る前から刈るべきなんです。」
「しかし、それではもしも噂が根も葉もないものであったなら、取り返しがつきませんよ。」
教頭は至極まっとうな言葉を返す。しかし、目の前のモンスター相手にその対応は得策ではないことを隣で聞いていた田浦は経験として知っていた。
「では。では、教頭先生は子供たちにもしものことが起きたら、どのように責任を取られるのですか。いいですか、最近の子供たちの周りには私たちが子供のころと違い、多くの誘惑が溢れています。それらは多くが悪い道へと連なっているものです。私たち大人はその道をひとつひとつ潰して、子供たちが安心して健やかに成長できる道筋を作り上げていかなければならないんです。教頭先生はそれを拒否されるというのですか。それでも聖職者ですか。この世に子供以上に神聖なものはありません。聖なる職に就いていらっしゃるならば、神聖なものに仕えなければなりません。あなたはそれを怠ろうとおっしゃるのですね。」
捲くし立てるようなとき子の言葉はひとつひとつを汲み取っていけば、さしたる内容ではなく、どこにでも転がっている小石程度のものであるが、雨霰と矢継ぎ早に撃ち込まれると、つい圧倒されてしまいその要求を飲み込んでしまう。
「わかりました。」拷問から逃れるために自供する捕虜のように、教頭はぶんぶんと首を縦に振る。「田浦先生が噂の真偽を確かめさせ、速やかに対処いたします。」
えっ。唐突な話題に半ば意識を別の方向へと飛ばしていた田浦は眠りから叩き起こされた時のように、現実とのピントが合わない呆けた顔を思わずしてしまう。
「なので、一週間お時間をください。疑わしき者は罰するでは、それこそ生徒たちに悪影響を与えかねません。なので、内々で速やかに調べて、対処いたします。それでいかがでしょう。」
へつらうような物言いで、教頭はとき子にお伺いを立てる。彼女としては即刻対応してもらいところであったが、対処をするという言質はとったので、幾分の譲歩を見せて小さく顎を引いて頷く。
「というわけで、よろしく頼むよ田浦君。」
教頭の縋るような期待の眼差し、値踏みする篠原とき子の冷たい視線。この状況下で首肯以外の選択肢があるというのだろうか。心の内で悪態を吐きながら、田浦昭は「わかりました。」と了承の言葉を口にした。
※
こんな探偵まがいなことをするためにオレは教員になったわけではない。職員室の自身の机に戻ると、イライラする気持ちを足に預けてカタカタと膝を揺らす。
大館と水上の素行調査。一週間後、休日返上で調べた結果を教頭と篠原とき子に、今日と同じ応接室で報告しなければならない。ピーチクパーチクと文句を垂れ流すが、中学教員のサービス残業が社会問題になっているのは知らないのだろうか。苛立ちは際限なく繰り返され、収まる兆しはない。
胸にわだかまる思いを抱えながら、田浦はポケットから取り出したスマートフォンで画像データを開く。他の教員に見られたら、変な勘繰りをされかねないのでこっそりと周囲に人がいないことを確認しながら、先日デートした時に撮影した写真を見詰め、心を慰める。
彼女とはまだ数回しかデートをしていないが、年齢よりも落ち着いた雰囲気があり、こちらの話す言葉にもしっかりと耳を傾けてくれる。オレの理想はこの娘だ。はじめて一緒に同じ時間を過ごした時から、田浦はそう感じていた。
苛立ちは甘い記憶でなだめられたが、別の問題が彼の心に去来する。
「もしかして次のデートの予定って、」
相手のことを思い、昂っていた気持ちが急激に下がり、血の気すら引いていく。慌ててスマホの画面をスケジュール帳に切り替え田浦が今週末の予定を確認すると、土曜日の欄に彼らしからぬ♡のマークが張り付けられていた。
「あのババァ、」口には出さず抑えていた呪詛の言葉を発する。頼まれた業務を無視してしまおうかとも考えるが、そのあとに襲い来るとき子の叱責を想像するとその勇気も湧いてこない。それに、もしもそのことがバレたら叱責だけで済む気がしない。「仕方ない、」
溜息を洩らし、週末の予定をキャンセルしたい旨を連絡する。怒るだろうか、と不安が心を締め付けるが、返ってきたのは「わかった」という短い一言。果たしてこのワンセンテンスに含まれている思いは如何様なものなのか。頭を悩ましても正解に辿り着ける気がせず、田浦は諦めるようにスマホを机の上に放った。
ただ、頭の片隅にはスマホから延びる目に見えないラインの先にいる女の子の姿がちらついて離れない。薄い唇をわずかに緩めて不器用に微笑む表情や、小さな掌に宿る暖かい温もり。しかし、しばらく会うことはむつかしいだろう。いや、今回のことでもう一緒に過ごすことはできなくなってしまうかもしれない。でも、職を辞すわけにもいかない。
身体中の空気を吐き出すような大きな溜息を吐いて、彼は立ち上がって職員室をあとにした。
※
放課後の校舎を練り歩きながら、田浦は視線を左右に彷徨わせる。教室に残る数人の生徒の姿。部室にこもり、何やら作業に明け暮れる気配。校庭から響きあがる、運動部の掛け声。いつもと変わらない放課後の様子を確認しながら、二つの校舎を繋ぐ渡り廊下を進み、西の空に傾いた太陽の陽射しから逃れ、薄暗く人の気配も希薄な校舎裏に出ると、コンクリート造りの風雨で黒ずんだ小さな倉庫が目に入る。
校内の様々な備品が収められたその倉庫は、大館の作業空間でもある。
田浦は足音を殺しながら、半開きとなっている扉へと近付いていく。呼吸を止め、わずかな物音も注意しながらそっと中を覗くと、背の低い、白髪交じりの男が棚から段ボールを取り出し、がさごそと何かを探している。その手に貴金属は嵌められていない。
名簿を確認した限りだと五十代ということだが、未婚か離婚歴があるということだろうか。もちろん、信条で指輪を嵌めていないということは考えられるが、以前彼が放課後の作業の合間に女子生徒に向けていた視線を思い返すと後者であるとは思いつらい。
大館茂吉がこの中学校で雇われはじめたのは、田浦が赴任したのと同じ二年前。しかし、年齢も違えば、立場も違うので今まで積極的に関わることはなかった。ただ、その中でも雑務の依頼で何度か声をかけたことはある。その時に、何度か彼が運動部の女子生徒たちをまじまじと見詰め続ける姿を見かけた。そうそうその手の趣味の人間と出くわすとも思えなかったが、やはりそういうことなのだろうか。その後も田浦は大館の行動を監視し続けたが、その日は特段怪しい素振りを見せることもなく、帰宅していった。もちろん、彼が家に帰りつくまで尾行し続けた田浦は、己の行動が馬鹿馬鹿しく、その晩は普段あまり飲まない酒の杯を一人で傾けた。
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