二人の獣――夕陽の教室

乃木口正

第1話

 男は走っていた。薄暗い路地を曲がり、背後から近付いてくる気配から遠ざかろうと光のない方へ光のない方へと。


 狭い通りには投げ捨てられた酒瓶や缶、鼻を衝く悪臭を漂わせる生ゴミが転がっている。目の利かぬ薄闇の中、男は何度も足を取られそうになるが、立ち止まっている暇はない。彼を捕まえようとする魔手が、確実に近付いてきているのだから。

 人気を避けて避けて路地を進んだ先、暗所になれた瞳孔にネオンのまばゆい光が突き刺すように飛び込んでくる。毒々しいほどの色遣いで、客を呼び込むための看板のはずなのに、悪趣味なそれは人を誘い込むものには思えない。

 ちかちかと瞬く光が網膜に収斂し、脳に光と色の洪水を映し出す。チカッ、チカッ、と焼き付くそれは思い出したくない記憶を刺激し、フラッシュバックのように意識の表層に引き上げる。


 床に倒れた少女。

 着崩れた学生服。

 窓から射す夕日。

 呼び止める大声。


 立ち止まっている場合ではない。眼前に浮かび上がってくる生々しい記憶を振り払い、彼は左右へと視線を馳せる。左はしばらく進むと壁が道を断ち切り、右へ進むと大きな通りへ続いている様子で、明かりと喧騒が伝わってくる。

 背後から、足音が迫っている気がする。男は判断に迫られる。どうする、どうする。「こっちだ。」追手の声が、耳に届いた気がした。大通りに出てしまえば、街灯が彼の顔を照らして隠れることはむつかしい。どうする、どうする。


 迷い、思考がぐるぐると掻き回る中、けばけばしいネオンライトが視界の片隅で瞬く。通常であれば近寄りがたいその彩りが、まるで誘うかのように蠱惑的に見えてくる。知らない人間ならば、誰もこんな店に入り込もうとは思うまい。そう判断し、男はそっと闇の色に上塗りされた焦げ茶色の木製の扉を開ける。ネオンで眩く輝く『mojinsya』という店名を思い返しながら。


     ※


「いらっしゃい。」

 扉をくぐると、そこはとても狭いバーであった。入って右手側にカウンターがあり、壁棚には酒瓶が整然と並び、表の看板を掲げる店舗の内部とは思えないほどに調和のとれた棚である。その棚の前には顔を覆うようにもさもさとした髭を蓄えた大柄な、可愛く言えば熊――悪意を込めて言えば、デーモン――のような男がグラスを磨きながら、入店してきた彼を見詰めていた。


「あ、えっと、いいですか?」

 店主と思しき大柄な男の鋭い眼光に見られ、どぎまぎとしながら男は改めて店内を見まわす。狭苦しい店内にはカウンター席しかなく、客の姿は一人もない。隠れるために飛び込んだが、果たして入店してよかったのだろうか。躊躇いの言葉が口を衝くが、店主は「お好きな席にどうぞ。」と低い声で答える。


 人一人通るのがやっとの通路に並ぶ椅子を交わしながら、少しでも照明が弱い奥の席に男は腰を下ろす。ふう、と走り続けていた疲労と緊張感からの解放に思わず安堵の息が漏れる。しかし、バタバタと店の外から足音が響いてくると、反射的に背筋に緊迫が戻り、入口をまじまじと凝視してしまう。

「大丈夫だ。こんな店に隠れているとは思わないはずだ。」自身を言い聞かせるように、彼は心の中で同じ言葉を何度も繰り返した。


「追われているの?」


 不意に、背後から声をかけられた。驚き、男は向けていた視線を入口から背後に向ける。

 店内の細い通りの最奥、照明の光が一番届かない場所に少女が一人座っていた。丸い輪郭にそれを覆うふわふわとした髪は首筋にかかる辺りで切られ、幼さが強調されている。しかし、見た目は確かに幼く、十代ほどに思えるが、じっと彼を見詰めるその瞳は無邪気さとは程遠い深い知性の色が浮かび上がっている。

 一体彼女が何者なのかという疑問もあったが、それよりも男の頭を占めるのはこの少女が何処から湧いて来たのかという疑問であった。さきほど、彼が入口から離れたこの席に腰を下ろした時には、誰もいなかった。照明が薄暗いとはいえ、人間一人を覆い隠すような濃密な闇ではない。


「誰かに追われているの?」

 トパーズのような明るい色をした瞳で、男を見詰めながら少女はもう一度尋ねた。

「なんで、俺が追われていると、」

「だって、しきりに入口を気にしているし、物音に過敏に反応しているのだもの。」

「ああ、そうか、」

 自分では意識していなかったが、そんなに露骨な仕草をしていたのか。男は意識的に視線を扉から外し、少女へと再び顔を向ける。彼女は小首を傾げながら、胸元に抱いたパンダのぬいぐるみの頭を優しく撫でている。その仕草はやはり幼い少女のように見えるが、男は彼女が幼い女の子ではないことを本能的に感じていた。


「顔色がよろしくないですね。」カウンター越しに、店主が上半身をぬっと突き出して男の表情を覗き込む。「気付けによろしければ、」

 店主は甲まで毛で覆われた手でショットグラスをテーブルに置き、琥珀色をした液体をたっぷりと注ぐ。揮発した刺激と匂いが目と鼻を衝く、ウイスキーともブランデーとも違う粘度のある液体。

「ささ、どうぞ。お代はいただきませんので。」

 有無を言わさぬ押しつけがましい口調で、店主はショットグラスをぐいと男の手前に押し出す。断ることはできない。そう判断して、男はショットグラスを掴み、ままよと祈りにも近い気持ちでそれを仰いだ。


 ぬるりとした感触が舌を包み、次の瞬間鼻腔を駆けあがる突き刺すような強烈な香りが広がる。嚥下すると喉、食道、次々に灼熱で焼け爛れ、胃の中で盛大な炎を巻き上げる。燃え上がる火炎は火の粉を撒き散らし、それが血管の中へと紛れ込むと熱はあっという間に身体中を駆け巡り、終いには脳を焙る。鏡を見なくても自身の顔が赤ら顔となっているのは、帯びた熱で理解できた。ぐらりと視界が揺れ、レースのカーテンを閉ざされたように霞もかかる。


 まずい、意識が……。疲れた身体へのアルコールが効いたのか、はたまた度数の強過ぎる酒だったのか、男の意識は徐々に、徐々に遠ざかっていった。

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