第12話 灰爪

 思い出すのはいつも、培養液の幕越しの景色だ。彼女は全身すっぽりと培養槽の中に入れられ、満たされた溶液の中から「彼ら」を眺めている。「彼ら」の言っている事は今一つ解らない。まだ頭に微かに残る、人間だったころの知識を参照すると、それらは俗に専門用語と呼ばれる、まあなんというか自分には理解出来ない遠い世界の言語であるらしい。

 しかし、彼らが話している事は実際には彼女の身に纏わる事なのである。


 「彼ら」は”法王庁”という組織の闇にうごめく暗部であり、自分は”陰獣計画”という人体実験の犠牲者なのだと、後に相棒となったブルース・ロックが教えてくれた。しかしその実験の結果、人間だったころの記憶の大半を失くした彼女にとって、ブルースの話はどこか遠いおとぎ話のような、浮世離れしたものに感じられた。

 そんな自分を悲しそうに見やり、ブルースは言ったのである。


「解った、お前はもう何も悲しまなくてもいい、俺がそうある事が出来る世界を創る」


 彼女の視界に、ブルースという「特別な人間」が像を結んだ瞬間であった。


 それから、ブルースは彼女に多くの物を与えた。グレー・ギースという新しい名、”灰爪”という二つ名、そして帰る場所、最後に同じ陰獣、聖騎士の友人達。

 それでも、グレーの中ではいつでも決まってブルースだけが大切だった。名前はブルースから貰ったから、二つ名はブルースと共にある為に、友人達はブルースに笑顔を送るために必要な、単なる記号に過ぎなかった。

 まさに刷り込みのように、彼女の世界は彼が全てなのだった。




「グレー、前衛は任せた、後方は気にせず攻めろ!」


「あいあい」


 まるで二人のじゃれ合いのついでのような、魔女との戦い。ブルースに背を預け、彼の言うように全く何も考えずに対象に突進する。申し合わせたように絶妙のタイミングでブルースが質量弾を発射し、それらの間を縫うように右腕の鋭い爪で魔女を刻む。二人の為の遊戯のようではないか。魔女は、おもちゃだ。自分がブルースと仲良く遊ぶために、神様がよこした不細工な人形だ。だから、もっともっと遊ぼう、もっともっともっともっと。


「そこまでだ、グレー」


 絶頂の気分は、ブルースの戦いの終わりを告げる言葉ではじけ飛ぶ。毎回その時に成ってから、魔女の体がぶつ切りにされた醜い肉塊に変わり果てている事に気づく。だけれど、彼女はもっと遊びたかった。もっとブルースと一緒に戦いたかった。その為に魔女を愛していた。


「もういいんだ、帰ろう」


 血の気の引いた顔で、いつもいつもブルースは”格納”した左腕を握り締める。その時に成ってようやく思い出したように肉片たちが液状化し、赤い血のような水たまりをあちこちに残す。

 グレーは、全くつまらないな、壊れないおもちゃは無いのかなと思いながら、ブルースの差しだす手を握り返す。


 それが彼女にとっての新しい「日常」なのであった。




「暇やわー、ブルース」


「まあこの所魔女がナリをひそめてるからな」


 二人の待機時の特等席となった、法王庁本部の尖塔の屋上に座り、二人は風に涼んでいる。この所雨が続いていたが、今日は久し振りに良く晴れた快晴であった。ブルースがイヤホンで聞いている「ロック」という音楽を、彼女ももう片方のイヤホンで体に流し込む。

 晴れた日の温かな日差しと打って変わって、社会への不満や鬱憤を歌い上げた激しい曲調のそれらを聞くというのは、なんともちぐはぐな気分になる。それでもグレーは、ブルースが見ている世界を共に感じたかった。このロックと言う奴を理解出来たら、ブルースの事をより良く知る事が出来るかもしれない。


「ブルースさん、おはようございます」


 急に背後から声がして、とっさに振り向いてみれば、高層ビル五階以上の高さに当るこの場所に一跳びで這い上がって来たシルヴァがその端正な顔を汗で濡らしている所であった。


「おう、シルヴァ、相変わらず朝はええな。軍事教練か?」


「ええ、今期は見込みのある新人が何人か入って来ましたからね、気合いが入るってものですよ」


「仕事人間だねえ」


 ブルースとシルヴァがよく分からない話をするのを、彼女は聴くとは無しに聴く。


「そういや、ブラックちゃんの容態はどうなんだ? 特に脚のほうは…」


「そうですね…」


 シルヴァの顔が微かに陰る。


「新しく癒着させた”羅患”は体に良く馴染んでいるんですが、馴染み過ぎていまして…出力の具合がちょっと」


「なるほど、前より暴走し易い状態ってこったな」


「ええ、まあそんな事は私がさせませんがね」


 シルヴァは余り表情を動かさないままそれだけを言うと、「じゃあ、偶にはブルースさん達も教練に顔出してくださいよ」とだけ言い残し、尖塔から飛び降りて去って行った。グレーはブルースがまた自分に注意を向け始めたのを察し、心地よい気分になる。彼女にとって、ブルースの視界に己が入ってさえいればあとはどうでも良かった。この気持ちをなんと呼んでいいのか、そもそも感情なのかすら彼女の知識では理解出来なかったのだが。


「今日も魔女日和だなあ…」


 苦々しげに呟いたブルースに、それは良い事じゃん、と心から思った。だって、魔女が出ればまたあなたと遊べる。



 屋上を心地よい風が吹き抜けて行く。髪をそれに流しながら、二人はしばしの休息を貪るのだった。

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