第11話 獏腕

 瞼がひくひくと痙攣を始めていた。徹夜続きでいい加減眼も脳も限界なのだろう。

 バク・レンジは生身の左手でこめかみを抑えながら、”羅患”を発症している異形の右腕で書類を片付けて行く。


 いつの間にか自分にとって、羅患や”魔女”に類するものは全て「仕事」のタイトルにカテゴライズされ、醜く歪んだ右腕でそれらへの対応を行うようになっていた。汚れ仕事は醜い側面でこなす、という趣である。

 我ながら感傷的なルーティンだと感じてはいたが、それは同時に自分の「人間」としての側面を尊重する意味合いも含む。現在では自ら望んで”深度零”界隈に頭をツッコんではいたが、彼女にしてみればそれは不本意で不義理な事に代わりは無く、気が狂いそうになる現実にそうやってなんとか立ち向かっているのだった。


「姉さん」


 不愉快な声音に振り向いてみると、自分の義理の妹がマグカップを両手に立っている。


「ちょっと休憩しない? この所”黒馬”の件で後処理が大変だもの」


「…そうね。まあ、でも、あと少しやってから休むわ。珈琲ありがとう」


 妹、リオン・スカーレットは曖昧な笑みを見せると、まだ何か言いたそうにしていたが諦めたようにくるりと背を向け立ち去って行く。バクの右腕がしくしくと奇妙な痛みを訴えた。これは妹の羅患に自分の羅患が反応しているというだけの生理現象なのか、それとも。


「ままならないわね…」


 誰もいなくなった事務室でぼやき、まだ暖かい珈琲を啜ると、バクはぱちぱちと瞬きをしてまた仕事に戻って行く。



 ”ハイアンカー”の門を叩いたのは、リオンよりバクのほうが先である。その頃街中に無数に開きはじめた異界へのワームホールの一つに触れ、バクは右腕に羅患を発症した。当時の医学ではこの原因不明の病に対する知見も通説すらなく、右腕に流れ込む異界のエネルギーと語り合っているだけでバクは日々憔悴し、肉体も心も徐々に擦り切れて行った。

 そんな時に一大センセーションを巻き起こしたのが、国連を抜けたアメリカと中国が裏で出資して結成した組織、ハイアンカーであった。対・異界を明確に掲げた組織は、瞬く間に羅患の法周り、医療周り、技術周りを整備して行った。これを見た一般市民の間にどれほどの安堵が広がったか、筆舌に尽くしがたい。


 バクもそのような一人であり、藁にもすがる思いでハイアンカーに志願した。その数週間後、潜伏期間を終えたらしい羅患がリオンの右足にも発症し、二人は姉妹で組織に属する事になったのである。



 ハイアンカー登録後待ち受けていたのは、二人にとってただただ刺激に満ちた日々であった。良くも悪くも、だが。

 初めの三週間はひたすら、羅患の精神への作用に耐える為の基礎トレーニングをこなした。同時に弱性鎮静剤を投与した状態で、羅患を活性化させ戦闘を行う訓練も並べて行われた。三週間では身に付きすらしなかったが、基本的な体の動かし方を学んだおかげで羅患の精神に対する負担は大きく軽減された。

 現在の研究成果を引用すると、羅患はその高エネルギーを維持するために、肉体を組成するタンパク質や鉄分、リンやカリウムといった栄養素を瞬く間に消費して行く。そして、消費すればするだけ燃え、大量のエネルギーを生み出す。ハイアンカーの発明した弱性鎮静剤とは、そうした羅患に消費される栄養素以外のもので体の維持を行い、その分羅患を鎮めておくといった趣旨の物である。


 その為に並行して行われたのが、羅患者に対する食事の指導だった。

 ひたすら糖分と炭水化物を摂り、「人間」としての体と何より「脳」を活性化させておく。そうして羅患に飲まれないように自分を保つのだ。


 この理論を聞いた時はへえー!と思ったものだ。そして、一ヶ月の研修の締めに、一週間、先輩の後について回って基本的な仕事を覚えたのである。



 だが、バクにとってはすぐに次の悩みが噴出する事になった。事務処理、戦闘、後輩指導の全てにおいて、妹リオンが先を行き始めたのだ。

 羅患発症時女学生であったバクは、否応なく放り込まれた社会で、どうしても越えられない妹と言う壁にぶち当たった。その鬱憤をどこに向ければ良いかもわからないまま苦しみ続ける。”灼獅”という華々しい二つ名を頂く妹に対し、自分の二つ名は”獏椀”といういかにもぱっとしないもの。

 それだけでも周囲の自分に対する期待度と評価が十分に知れた。


 そして、いつの間にかリオンは部長という肩書を付けて呼ばれるようになり、せいぜい係長どまりの自分と更に差がついたのだ。



 自分と妹、何が違うと言うのだろうか。これはもって生まれた天性の差であり、自分はこの世界に於いては弱者として生きるよう最初から決められていたのではないか。

 そんな夢想的な思いを、日々真剣に煮詰めていた。


「バク君」


 また後ろから声がして、ぐっと腕が目の前に伸びてきた。その野太い腕はバクが見つめていたパソコンのモニターに張り付けられた付箋を一枚はがす。


「ふむ…厄介な事案じゃったが、なんとか終わりそうじゃな」


 ハイアンカー局長、アン・ルイスであった。この人物も様々な事案を一手に回している組織の長であるだけに、非常に有能であると誰もが認めている。それでいて偉ぶらない所が人に好かれていた。


「ルイスさん、お疲れ様です。一応法王庁にもうちょっとツッコんで、ブラックさんの医療データを回して貰おうと思ってるんですが…」


「うーん、そうだわね、そりゃデータは欲しいっちゃ欲しい」


 付箋を元通りパソコンに張り付けると、ルイスはあごひげをじょりじょりと撫でた。


「じゃがまあ、多分近いうちに同様のデータは取れるじゃろう」


「…? それはどういう?」


「いや、この仕事も長くなってきたんで勘じゃよ。またしょうもない事が起きる気がするんさ」


「はあ…」


 曖昧な感嘆詞で返したバクに、ルイスはちょっと笑ってみせると、


「邪魔したのう、もう夜も遅いからほどほどにして帰りんしゃいよ」


 などと南部訛りの強い英語で言って去って行こうとする。


 何かがこみあげて、バクは知らず声を上げていた。


「わ、私はっ…。皆さんのお役に、立てているんでしょうか」


 ルイスは怪訝そうに振り向いたが、バクの思い詰めた顔を見てまた笑った。


「なーんの、抱え過ぎんでええんよ。バク君はバク君の良さがある。リオン君と比べて悩んどったんじゃろうけど、リオン君にも出来ない事は当然ある」


 ちらっとバクの羅患に眼をやったルイスは、その野太い腕を組んであごひげを撫でた。


「ワシにも出来んことはある。もちろんバク君にも出来ない事が幾らでもある。そういう時は周りを頼りんしゃい。人に頼られて悪く思う人間なんて、実はそうそう居らんもんじゃ」


「…はい」


「まあ、これはうちの口うるさいじいさんの受け売りなんじゃけどな」


 にやり、と最後に口角を上げて見せ、ルイスは暗い廊下に消えて行った。


「頼る、か…」


 ひとり呟いてみて、先ほどよりも肩が軽くなっている事に気づいたバクは、一度伸びをしてからまた事務処理へと没頭して行った。

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