第8話 ビューティフルワールド3
轟々と唸りを上げる風が、”元”ブラック・ホースの周囲に渦巻いていた。かつて嗅いだことも無いほどの強烈な異界の匂いと、魔女一体分とは思えないほど広範囲にわたる非情にも赤い空。
「シルヴァ、しっかりして」
投げ出され、地面に転がったまま唖然としていたシルヴァを、リオンが無理やり引っ張って立たせる。魂の戻らない表情を見て、彼女は溜息を吐くと、右腕を振りかぶった。
シルヴァの顔面に吸い込まれた右手が、強く頬を打つ。遅れたようにヒトの皮膚同士がぶつかる音が周囲に薄く響いた。シルヴァはまずリオンの右手を見つめ、ゆっくりと周囲に視線を移して行き、最後にめきめきと音を立てながら巨大さを増していく”それ”を見とめた。
「あ…ブラックが…私のせい、で…」
「シルヴァ…起きてしまった事は仕方ないのよ。あなたはこの場の責任者。指示を出しなさい」
「しかし…しかし私、は…ブラックが…」
『無理もない。二人は三年前からのバディだ、それがこんな…。一旦この場の指揮はお前が取れ、リオン』
「全く…」
また大きなため息を吐いたリオンは、携帯端末を操作してリーダー権限を自らの端末に移譲させると、カッと右足の羅患を踏み出し前に出た。
眼前には、今まで彼女らが討伐してきた個体とはリスクに於いて天と地ほども違う巨大な魔女。正確なリスクにしてA+++、いや、S+、S++でもおかしくない。まだ堕天の最中らしく、魔女はめきめきと音を立てながら急速に増長して行く。
「この人数で狩るにしてもギリギリね」
「ま、やるしかないわけよねえ」
リオン、コナーを先頭に、リオン分隊の戦闘員とシルヴァ分隊の騎士たちがそれぞれ羅患や武器をがちゃがちゃと構える。
「短期決戦で行くわ。私の合図で一斉に攻撃を仕掛けて終わらせる。いいわね?」
1、2、3、GO!
合図とともに地面を蹴り魔女に向かって飛びかかった接続者たちは、魔女の脚の一振りによって反対方向に薙ぎ払われた。
あっけない。
地面に叩きつけられたリオン達が、余りの激痛に呻き立ち上がる事も出来ないでいる様子を、ただただ見やる。いつもそうだ。この世界はいつもいつも、自分の守ってきたものを気まぐれに奪い去る。
シルヴァはその場に膝を付き、顔を伏す。
なぜ、なぜだ。なぜいつもこうなる? 世界はどうしてこうも無慈悲なのか。
「シルヴァ」
ブラックの声がする。ああ、幻聴か。だって彼女はもう。
「シルヴァ…」
そんな悲しそうな声で呼ばないでくれ。色んな事を思い出してしまう。ブラックとのお互い印象の最悪な出会い。毎週のように二人で出張し、鬼神の如く魔女を討伐する君をなんとか人間側に縛りつけるのが私の役目だった。それでも次第に打ち解けあい、君はよく笑うようになっていった。だから。
「シル、ヴァ…」
だから、もう一度笑ってくれ。
顔を上げると、すぐ前方まで魔女の巨躯が迫っていた。その顔と思しき部位から、微かに、まだ自分を呼ぶ声がする。
「いるんですね、そこに」
ふらふらと力の入らない体に喝を入れて立ち上がる。
力を開放し、右腕を巨大な銀の刃に変化させ、すっと肘を引いて構えた。
「今、迎えに行きます」
地を蹴り、勢いのまま右腕を袈裟懸にに振るう。両腕らしき部位で防がれ、衝撃で真後ろに吹っ飛ぶ。地面にこすりつけられながら転がると、生身のままの皮膚が破れて血がにじんだ。
それでも構わずに、もう一度地面を蹴って一撃を入れる。はじかれる。更に一撃、はじかれる。
まるで二人の為に用意された一曲のダンスのような一時であった。
先程吹き飛ばされたリオン達は、二人の目で追う事も出来ない速さの攻防をただ何も出来ずに見つめる。
シルヴァが一撃を入れる度に、少しずつ、少しずつ魔女の表皮がはがされていき、確実にシルヴァの傷も増え、二人の体から溢れた体液がびちゃびちゃと周囲に赤い水たまりを作る。
半刻ばかりが経った。
そこには、もう傷が無い部位が存在しないほどに血まみれになったシルヴァが、両足を切断して引き抜いたブラックの体を抱いてうずくまっていた。
周囲には、削いで、削いで削がれた羅患の残骸が、もろもろと崩れ出しながら無数に散らばっている。空の赤はいつの間にか消え去り、夜のシンと張りつめた空気だけがあった。
「終わりましたよ、ブラック」
「うん」
「気分はどうですか?」
「今日はよく眠れそうだよ」
「そうですか」
ブラックはかすんだ目で空を見上げ、呟く。
「ああ、あんなに星が。綺麗だ…世界は、美しいね」
「ッ…ええ」
シルヴァの目から涙がこぼれ、ブラックの肩にぽつぽつと滴った。
「そうですね…」
リオンが街路に転がったまま溜息を吐き、同じくぐったりと倒れたままのコナーがけたけたと軽い笑い声を上げる。
空に掛かった満天の星々が、チカチカと瞬いて、彼らを見下ろしていた。
「結局、ブラックさんの脚は羅患で再生する事にしたのね?」
後日、法王庁。今回の作戦の報告に訪れたリオンに、法王ライザは心持暗い表情で尋ねる。彼女の手元には報告書の束が置かれ、先ほどからそれに目を通していたから大枠は伝わっているはずである。それでもリオンはわざわざ答えを述べる。
「ええ。彼女の体は今回の件で、更に深度零のエネルギーとの親和性の高い媒介になったわ。こんな絶好の検体、法王庁の暗部が放っておくわけないわよね」
「そうねー! 陰獣計画は私の権限で頓挫させたけれど、結局止められないのよね、私みたいなお飾りのトップには」
「あと、彼女の記憶が所々抜け落ちてるらしいわ。特に陰獣計画の検体になる前の記憶がごっそりなくなっているみたい」
「そう…」
ライザは珍しくふーっと重い息を吐くと、執務机から腰を上げて窓際に向かう。
「まあでも、ブラックさんの中で大切な思い出だけは守られたって事よね」
「それってシルヴァの事?」
「ええ」
だってそれすら忘れちゃったら…。その先を言いかけてやめたライザに、リオンは目を伏せると、小声で囁いた。
「神様は、本当に大切な物だけは奪って行かなかったのね、今回も」
「…お茶にしましょうか!」
にっこりと笑って振り向いた法王に、リオンはちょっと顔をしかめながら頷いて見せた。
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