第5話 黒馬

 ”黒馬”ブラック・ホースは、はっとして目を開いた。カーテンの隙間からまばゆい昼の日差しが差し、自身の体の上にまだらなハイライトを落としている。随分長く眠ってしまったらしい。夜通し悪夢にさいなまれる浅い眠りではあったが。


 ネバダの農家の出であったブラックが”法王庁”の募集に乗っかって、後に最悪の人体実験と称される”陰獣計画”の検体になったのは、ほんの三年程前の事である。そうして成功例として強靭な”羅患”を有した彼女は、羅患のもたらす高揚感に溺れるように、魔女を殺して、殺して殺しまくった。

 仕事として魔女を討伐するたびに生じる報奨金と、魔女のリスクは、どんどん莫大な物となって行き、気が付くとブラックに討伐できない魔女はいないと言われるようになっていった。


 その頃からいつ眠っても必ず悪夢を見て苦しむようになった。途中で目が冷めればマシなほうで、仕事の後など一晩中悪夢に晒され続ける。

 夢の中で、彼女は大抵、生まれ育ったネバダの農村に居た。幼い彼女が道端で珍しい花を見つけ、それを摘んで両親のもとへ走ると、顔も思い出せない母と父が真っ暗に靄のかかった顔で出迎える。ブラックが両親の手を引いて花畑のもとへいざなおうとすると、父が言う。


「駄目だ、父さんも母さんも忙しいんだよ」


「そうよ、だって…」


 母が続くと同時、二人の体ががくがくと震え、波立ち、めきめきと音を立てながら異形に変質していく。


「だって、もっともっと殺さなきゃ、殺さなきゃ殺さなきゃ…」


 そうして目が覚めるのが日常となっていた。


 額に噴出していた汗をぬぐうと、ブラックは「さいっあく…」とぼやき、ほっと息を吐く。

 ふと顔の横に視線を移すと、枕元に置かれた携帯端末の着信を告げるアイコンがぴこぴこと点滅していた。


差出人: シルヴァ


 もう寝たみたいですね、今日もお疲れ様。

 明日…君が目が覚めた時にこれを見たなら今日ですね、君の店の近くまでいくのでちょっと顔を見に寄ります。美味しいお茶菓子を頂いたから一緒に持って行きますよ。

 この前仕入れたって言うハーブティはまだ残ってる?


 のんきな相棒のメールに、知らず笑顔が漏れる。気分がマシに成って来た為、ブラックは朝食兼昼食にでもしようかと身を起こした。




 陰獣計画とは、平たく言うならば羅患を人為的に活性化させ、人間兵器としての稼働率を上げる、という人間らしい性根の腐ったモノであった。羅患を活性化させる過程で魔女に堕天する個体も出てくるし、辛くも人間の姿を保った個体もほとんどが理性や道徳の吹き飛んだ”失敗作”とされた。

 ブラックは現存する十体の陰獣の中でも随一の優秀な成功例であり、理性も道徳も、感情も残されてはいたが、実験を受ける前の自分とは変わってしまったのを彼女自身はっきりと感じていた。


 元人間であるはずの魔女を殺しても、涙の一つもこぼれなければ感慨の一つも湧かない。

 自分は対魔女の兵器として、心まで失くしてしまったのかと思った。


 悪夢を見始めた時はむしろ救われるような気持ちがしたものだ。自分にも人間らしい罪悪感が残っていたのか、と。



 彼女の経営するカフェ、「ブラック・アルペジオ」に続く平屋として建てられている自宅のキッチンに向かう。カフェのほうは、彼女が起きていて手が空いている時に気まぐれに開店する事にしていた。それでも最近は悪夢を見るのを厭う余り、徹夜してそのまま翌日も起きている事が増えたから、経営は捗っている。今日のように九、十時間も纏めて眠れることのほうが稀なのであった。

 しかし、おかげで今日は多少体調が良い。


 キッチンの戸棚から菓子パンと例のハーブティの茶葉を取り出す。茶葉の数を確認してみたが、間もなく品切れと言ったところであった。


 カフェと情報屋という副業が忙しくなったため、相棒、シルヴァと一緒に任務に繰り出す事も減った。それでも過去の討伐実績と当時の報奨金が潤沢にあったから、カフェにも贅沢なコーヒーやハーブティ、ミルクティなどを揃えることが出来た。カフェの専らの客である”接続者”達にとって、こうした娯楽は日々の大切な糧であったから、自然ブラックの店は賑わう。顔なじみの客も両手で足りないくらい出来た。

 おかげでブラックも随分元気になった、とは、”ハイアンカー”の局長、アン・ルイスの言である。



 日が高く上っているのを横目に見ながら菓子パンをかじっていると、自宅のほうの玄関のベルがじりじりと古びた音を立てた。


「おっ」


 ワクワクする気持ちを抑えられないまま腰を浮かせ、玄関に走る。扉を開けると、分厚いコートに身を包んだ相棒の姿があった。


「や、シルヴァ。おはよー!」


「おはようじゃありませんよ、こんにちわです。ついでに言うならもう午後です」


 開口一番説教を垂れた相棒を、いいからいいからとキッチンに引っ張って行く。


「例のハーブティだけど、ちょうど残りがあったよ。飲むでしょ?」


「ええ、頂きます。しかし、店はともかく母屋が汚すぎでしょ…」


 シルヴァはそこらに散乱するごみ袋や衣服、下着を見て渋い顔をする。ブラックはにやにやと笑った。


「自分の女がこんな生活してると心配?」


「タチの悪い冗談はやめなさい。その様子だと朝食もまだですね、私が部屋をかたずけるからその内に食べなさい」


「はいはーい」


 脱ぎ捨てられた下着をつまみあげながらやれやれとばかり首を振る相棒を見ながら、ブラックは久し振りに美味い食事をほおばった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る