第1話 法王

 寝不足の目をこする。彼女、ライザ・ブラッドレイが”法王”という職についてから、もう何百度目かになる徹夜の夜であった。あくびを漏らしながら次の書類に目を通す。

 ”法王庁”のトップという役職は、肩書きだけは立派だったが、実務は直属である元老院の僧正たちが行っていた。それでも形式上法王として認可を下さなければいけない書類は大量にあり、サインに追われて大抵の日が暮れてしまう。これだけ科学技術が発達した世界で、わざわざ紙媒体にインクでサインして判を押すという作業が廃れないのは、人が信頼しているのが結局同じ人間の手に依る物と言う事だろうか。


 ラストの書類に額面上丁寧にサインを施すと、ライザはやれやれと執務机の椅子から腰を上げた。

 彼女もまだ二十代の身の上であったが、執務室に缶詰めの生活を送っているといい加減体がこわばって仕方ない。カリフォルニアの小さな村に住まっていた頃の、然程珍しい物も無い農村を駆け回っていた日常が懐かしく思い起こされた。

 法王庁の本部があるロサンゼルスにやってきてから、巨大なオフィスビルやけばけばしいファッションの市民たち、夜も眠らないネオンなど、珍しい物を沢山目にして来た。それでも、一ヶ月もすればそれらは日常に取って代わり、今は田舎が恋しくてたまらない。


 そんな話をロスに来てから最初に出来た「友人」リオンに話したところ、


「気持ちは解るけれどあなたの”血”の価値には抗えないわね」


 と言われた。この台詞は実際言葉通りの意味である。



 執務室は煌々と明かりがたかれていたが、広い部屋にはそこらに光の届かない空間が産まれ、見回すと重苦しく息が詰まった。入口の方までちょんちょんっと歩いて行き、扉を開ける。

 外で寝ずの番をしている衛兵が、びくりと肩を震わせた。


「あ…法王様、お仕事は終わられたのですか」


「あー、うん、遅くなってごめんね! ちょうど終わったとこよ」


「ごめんなどとんでもない、お疲れ様でした。では、お休みになりますか? それともお夜食でもお持ちしましょうか」


 うやうやしい衛兵の態度に、改めて居心地が悪くなる。法王庁の人間の折り目正しさには未だ慣れなかった。村に居た頃はどの年下のチビからも名前を呼び捨てにされていたし、夜更かしをすれば怒られた。時間外に食事など出てきた試しも無ければ、貧しかったわが家にそんな余裕あろうはずもない。

 だからこそライザは、法王庁の人間に出来る限りの事をしてやらなければという思いに駆られていた。ライザが法王に召し上げられる際、法王庁からは彼女の村に莫大な献金があり、また実家にもかなりの額が贈られたらしい。金で彼女が売られたとも言えるが、当の本人もなに不自由ない生活を得る事が出来た。文句などある訳もなかった。


「ちょっと目が冴えちゃったから庭を一回りしてきたいんだけど…」


「今からですか? 承知いたしました、では見張りの騎士を付けますので十分程お待ちを」


「ああ、良い良い、魔女が出たら”力”を使うから! みんなおこしちゃ悪いし…」


「そんな! そうされてしまうと却ってお叱りを受けます、少しですからお待ちください」


 散歩したいなどと言いだした自分を後悔しながら、ライザは執務室の中に取って返した。

 部屋に据え置かれている珈琲サーバーのスイッチを入れ、珈琲豆がドリップされる音を聞くとは無しに聞く。外は雨が降っているらしく、防弾の分厚いガラスを嵌められた窓に、水滴が滴っているのがぼんやりと臨まれた。


 直後、そのガラスが粉砕され、巨大な腕のような物が室内に差し込まれた。


『アラートA。法王庁内に”深淵者”出現。リスク不明、騎士は早急に現場に向かって下さい。アラートA…』


 電子音が繰り返し「それ」の危険を告げる。割れた窓から、風に吹かれた雨が横殴りに室内に流れ込んで来ていた。


「”魔女”…」




 異界”深度零”の発見を告げるお祭り騒ぎのネットの報は、今も記憶に新しい。深度零には潤沢な、それこそ無尽蔵と言えるエネルギー資源が充満しており、またその資源を有効に使うための異物も多数発見されて行った。

 結果、人類が長年抱えてきた資源問題は一気に解決し、またそのおかげで戦争や貧困、各国のにらみ合いと言った状況も大幅に緩和された。

 何もかもが上手く言っていると誰もが思っていた。しかしその矢先、事件は起きたのである。


 現在も世界を振るわせている第一級の厄災、”深淵者”――俗に”魔女”と呼ばれる存在の出現であった。



「法王様! お下がりください! 今宿直の騎士が参ります」


 衛兵が慌てて部屋に転がり込んでくると、ライザと魔女の間に割って入る。しかし、衛兵は一般的な訓練を受けただけの只の軍人である。手に銃を携えてはいたが、そんなもの魔女の強化された体に通りはしない。

 衛兵自身深く承知しているらしく、膝が震え、銃の安全装置を外す作業すらおぼつかない。


 その間に魔女は、突っ込んだ腕を緩慢な動作でひっこめると、眼があると思しき部位で部屋を除き込んだ。

 おぞましく変質した姿に衛兵が息を飲む。


「…任せて」


 ライザは覚悟を決めた。体中を巡る血が加速し、沸々と体が熱くなってくる。

 気が付くと彼女がぼんやりと光を放っている事が衛兵にも魔女にも確認できた。理性も感情も無い筈の魔女ががくがくと身を震わせ始める。


「降れ」


 ライザが魔女に近づきすっと下を指さすと、魔女は巨大な体を何度か痙攣させたのち、膝と思しき部位を追ってライザの前にひざまずいた。


 まるで永遠のような時間だった。シンと張りつめた空気の中、雨だけがしとしとと微かな音を立て、その場の誰も、魔女も衛兵も、――ライザも、身じろぎひとつしない。


 沈黙を破ったのは、何秒後だったか、駆け付けた騎士の怒声であった。


「法王様! なにをやっているんです!」


 騎士は叫びながら、走り寄りざまに右腕を一振りする。魔女の巨体が真っ二つになり、一瞬張りつめた後、ドロッとした液体に代わり割れた窓付近に赤い水たまりを作った。


 衛兵が思い出したように腰を抜かしてその場に倒れ込む。と同時に、ライザの体も力を失って崩れ落ちた。

 件の騎士がその身を支える


「あ…シルヴァさん…。ごめんね、こんな時間に…」


「何を…。ああもうッ、すぐに救護室に行きましょう」


 ぐしゃぐしゃと自身の銀髪をかき乱しながら、騎士、シルヴァ・エッヂはライザを担ぐ。衛兵を一瞥すると、またぐしゃぐしゃと髪を掻き、短く指示を出してからライザと共に救護室に走り去った。




 その後数日、法王ライザには臨時の休養がもたらされた。とはいえ本人は”力”の使用により三日間は体を動かす事も出来ない。

 なすすべもなく自室で横に成っていると、代わる代わる法王庁の人間が見舞いに来ては大仰な世辞を投げて行った。ライザ当人からしてみれば、大人しく寝かせておいてくれと言ったところである。


 そんな日が続いていた日曜日、また衛兵が来客を告げ、見知った顔が三人ほど現れた。


「あっ、ルイスさん、リオン、ブラックさん…」


「ああ、そのままそのまま。寝ててくれなさいな」


 ハイアンカー局長、アン・ルイスは、大柄な仕草でライザを押しとどめる。後ろから顔をのぞかせたリオンが、大げさに溜息を吐いた。


「あなたねえ…いつになったら村のおてんば娘を卒業するのかしら」


「ほんとだよー、自分の体の限界見極めないとね」


 カフェ”ブラック・アルペジオ”の店主、ブラック・ホースもにやにやと同意する。


「…見舞いの言葉でも言いに来たんじゃけど、ワシは退散したほうがよさそうじゃな」


 ルイスがおどけたように笑い、その場の空気がまた少し柔らかくなる。

 ライザは数日振りにほっと息をついた。


 この事件を機に、法王庁の警備はまた少し厳重になったそうである。

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