深度零
山田 唄
第1章 ビューティフル・ワールド
プロローグ 灼獅
街は未だ静寂の中にあった。当然だ、ここロサンゼルスの現時刻は午前五時三十一分。…今三十二分になった。この大都市のような都会の人間は朝が早いし、そもそも夜間も活発に人通りがある。
しかし、「それ」が夜を跋扈するようになった現在、まだ暗いこんな時刻に外を出歩く人間はほとんどいない。
彼女、リオン・スカーレットは、禁煙がうるさくなってもついに辞められなかった煙草を苦々しそうにかみつぶすと、携帯灰皿を取りだし火種をすり消した。今月も煙草代だけで結構な出費になる事を不意に思い出したのである。
今日は古い友人と会う約束になっていた。この時間を指定してきたのは相手のほうだ。お互い何かと忙しい身の上であったから、ある意味仕方ない事と言える。仕事柄夜勤も徹夜も慣れっこであったし、こんな中途半端な早朝に危険を伴う待ち合わせをする事も、まあ無理もなかった。
リオンが先程から苛々しているのはやや別の理由からである。ロサンゼルス郊外にある自宅を出た辺りから、やけに右足がずくずくとうずくのだ。良くない予兆である。経験上、右足に痛みが走る時は「それ」が近くにいる。
石畳の街路を抜けていくと、こんな時間だと言うのに「OPEN(開店)」の札を下げている酔狂なカフェが目に入った。「ブラック・アルペジオ」とレタリングされた看板が、イラスト付きのメニューと共に表に掛かっている。
酔狂と言うならこのカフェの店主こそがまさに頭のネジの飛んだ人物である。黒を好み、いつ見てもシャツまで黒いスーツで決めたその店主は、物騒な世界にあって情報屋という裏の商売も営んでいた。
有る伝手の非常に高給な仕事で得た資金を基に、二十四時間営業のカフェを開き、そこを同業たちの憩いの場として提供しているのだ。そこで顔を合わせた人間同士が自由に情報を交換し合うのをカウンターで聞いていて、得たネタを重要度に応じて売りつける。そういうアコギな商売をしていた。
カフェの重厚な扉を開くと、からからとやる気のない音でベルが鳴る。カウンターでうたた寝をしていたらしい店主がその音ではっと顔をあげ、こちらを見ると営業用の笑顔を作った。
「や、リオンちゃん。そろそろ来るころだと思ってたよー」
「その割には寝こけていたようだけれど?」
「いやー、久し振りに君に会えると思うとワクワクして昨晩眠れなくてね」
いつものように出会いがしらのジョークの応酬を済ませると、リオンは店主に良く見えるように、分厚いコートの中に隠した右足を指さして見せた。
「…ほう。来るのかい」
「どうもそうみたい。嫌になるわ、非番の日にゆっくり友達に会う事もできないんだから」
「まあこればかりは神様の掌の上だからね、僕たちにはどうしようもないさ」
「…って事は、今回はそっちには何の情報も入ってないのね?」
「まあ、申し訳ないんだけどね」
「そう…」
ならこっちでなんとかするしかないわね…。そう心底嫌そうに呻いたリオンを見て、色黒の店主は非常におかしそうに声を上げて笑うと、グッドラック、とばかりに親指を立てて見せた。溜息を吐き、たった今潜ったばかりのカフェの扉から外に出る。
先程まで仄明るい朝の気配が充満していた空気が、恐ろしげに振動していた。
「”魔女”ね。この感じはリスクC+ってとこか」
仲間内では名前を出すのもはばかられ、専ら「それ」と呼ばれる存在は、近年発見されたおとぎ話の中の存在、異界”深度零”からもたらされた脅威である。発生原因もその存在の目的も全てが不明とされる「それ」―”魔女”は、理性も感情も無いままに周囲を蹂躙する、生きた厄災であった。
継続的に痛みを訴えていた右足が、熱く脈を刻むのを感じる。その叫びに似た激痛に応えるように、右足を踏み込む。足が石畳の表面を波打たせながら沈み込み、直後にそれを砕いて、彼女の体は天高く跳躍した。
瓦を割りながら民家の屋根に着地すると、百メートル程先の空の一部が真っ赤に変色し、直下に「それ」の姿が臨まれた。
「雑魚が…」
口汚く対象を罵り、リオンはコートの下に隠していた銃を握りしめた。
「いやー、世話になったわね」
友人がかんらかんらと乾いた笑いを上げるのを、ぐったりと見やる。
毎度の事であったが、このトラブルメーカーは見事に”魔女”に籠絡されており、リオンが駆けつけるのが遅ければ大事に成っていた所だったのだ。幸い時間のせいもあって目撃者もおらず、リスクの低い個体だったおかげで迅速に討伐する事ができた。それでも戦闘のあとは体力を消耗してもはや喋るのもおっくうになる。
それらを無言でひらひらと手を振って示したリオンを見て、友人はまたかんらかんらと笑うと、
「さすが”ハイアンカー”のエース、”灼獅”ね。犠牲者も出さない見事な手腕」
とあからさまなお世辞を並べ立てる。
一部始終を見守っていたカフェの店主が、先ほどから淹れていた珈琲を二人の前にとん、と置く。
「二人ともお疲れ様。これは僕からのサービス。砂糖でもたっぷり入れてカロリー摂りなよ」
「あら、ありがとう!」
「…頂くわ」
遠慮もなく角砂糖をざらざらと音を言わせて入れ、二人はぐいっと珈琲を飲みほした。
「効くわねー!」
「いやしかし、君がそんな感じでいいのかい?」
店主が友人に悪戯っぽく笑いかける。
「天下の法王様が為す術無しなんて」
「…まあ実際の所さほどピンチではなかったわけだけれどね」
”法王庁主席、法王”、ライザ・ブラッドレイは相変らずかんらかんらと乾いた笑い声を上げる。
「下々に施しをするのも富める者の役目ですから」
二人のやりとりを恨めしそうに眺めていたリオンは、また大きなため息を吐くと立ち上がった。
「タチの悪い冗談はそこまでにして、もう少しマシな店に移動するわよ」
「あんまりな言いぐさじゃないー、リオンちゃん」
「…ここじゃおちおちレディストークも出来ないのよ」
「僕も一応女だけど?」
「自分で”一応”って言っちゃうのはなんだか傑作ね!」
カフェを辞すと、平穏に戻った街の空気が冷たく頬を刺した。東のほうからじりじりと、日が昇って行くのが伺える。
まだ疲れを引きずってはいたが、せっかくの”法王”とのお茶の時間である、どうせなら楽しんでやろうと伸びをした。
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