第5話 とっても顔が近いんです

 スイッチを入れると、備長炭と刻印された陶器の似非炭に組み込まれた電熱線が赤く発光して、遠赤外線の熱を周囲にまき散らしてくれる。

 安全を考慮した結果ではあるが、なんだか騙されているような気分になるのは僕だけだろうか。

 出航の汽笛が鳴る頃には、あちこちのテラスから肉を焼く煙が立ち昇ってきた。

 景色が動くのを見れば、すでに第一番目の目的地に向かって発進したのが分かるが、室内にいたのでは船が動き出した事に気づかないだろう。

 穏やかな天候に恵まれた事もあって、揺れない大型船は陸地にいるのと変わらない。

 昨今は地震が多発しているから、かえってここの方が安定していると感じられるくらいだ。


 港を出てからが僕の出番で、昼夜構わず部屋で居眠りをする。

 二千人から乗船している乗客とクルーの中に、怪しい言動の人がいないか、幽体となり過去に遡って調べるのだ。

 当然、僕の能力を知っているのは所長だけ。

 となれば、四六時中は警戒していない不審者の企みが、どんなものか知る事ができる。

 今回の任務はほぼ完了したようなものだ。

 とはいえ、一人ゝに当たっていかなければならない僕の仕事量は膨大だ。

 それを所長は「居眠りしてれば調べがつくんだから、お前の能力ってのは楽ちんな代物だな」勘違いはなはだしく解釈してくれている。

 どう考えても今回の調査依頼は僕だけに負荷がかかっていて、所長はお役所の職員と同じに、まったくのお遊び感覚であるように思えてならない。

 したがって、所長も僕と同様の見かけに努めているらしく、ひがな一日のんべんだらだらする気満々で乗船している。

 

 昼食をバーベキューで済ませ、夜のウエルカムパーティーまでの間、初仕事の為にベットで横になる。

 すると、所長まで一緒になって同じベットに乗ってきた。

 おまけに顔がとっても近い。

「気になって集中できませんから、所長はソファーで横になっていてね」

 無意識に御姉さん達の教えを守っているのか、それともこの雰囲気がそうさせているのか。

 ついつい、まったり子供を説得するような女口調で邪魔者を排除した。


 浮遊して最初に発見した不審者は、妙にあちこちの匂いを嗅ぎまわる事に熱心な犬と一緒の二人。

 部屋では拳銃を分解して掃除している。

 どう見ても暗殺者かと思いきや、広げた荷物の中にちらり見えたのが厚生労働省の金文字入り身分証明書。

 所長に今回の件を依頼した人かと思い、いったん起きて聞いてみる。

「あの二人な、違うよ。依頼してきた奴の部下だな。俺は顔写真を見せてもらって知ってるけど、向こうは俺達の事を知らないからそのつもりで。あと、あの犬な、麻薬犬だよ。落ち着かないように見えるけど、しっかり仕事してんだ」

 しっかり怠けている所長は、どうやら犬以下という事になりそうだ。


 そんなこんなとやっているうちに、今回潜入している役人は簡単に洗い出せた。

 無害な人間がほとんどの船内で、麻薬の密輸に絡んでいる人物を探しだすには消去法しかない。

 船のほぼ中心部に位置した僕達の部屋からならば、どの部屋でも観察する事ができる。

 人のいるいないは別として、まずは各部屋の中に入って怪しいものがないかを調べて回る事にした。

 この方法で全ての不審者が引っ掛かってくるとは思っていないが、突破口にはなる。

 と確信していたのに、いざ一部屋ゝ調べてみると、怪しい奴の何と多い事か。

 テーブルの上には無造作に置かれたハッシが見える。

 そんな部屋が一室や二室ではない。

 さすがに拳銃を磨いているのは、政府関係者だけだ。

 それはそうと、潜入捜査ならば一般の人と同じく荷物にチェックが入る筈、それなのにといった疑問が出てきた。


 きつい補正下着であっち凹ましこっち膨らましの、パーティードレス下地を作りながら、何の気はなしに聞いてみる。

「ねえ、役人が拳銃持ち込みって、どうやったの。当たり前みたいにしてるけど、一般人て事になってるでしょ。危なくない、この船」

「拳銃はな、船に装備されてんだよ。船倉に自衛隊員が乗り込んでいてな、海賊対策で保管している銃火器を管理してんだ。俗にいう穴倉勤務ってやつ。あいつらには、潜入捜査官への銃火器引き渡し権があるんだ」

「そんな仕事があるの。知らなかったわ」

「そりゃそうだ、極秘事項だからな」

 所長が僕の後ろにまわって、閉めづらくしていた背中のファスナーを上に上げてくれる。

「なんだかこの船って、極秘事項の塊みたい」

「極秘の仕事だしな。ぐはっははー」

 麻薬がらみの調査となると命がけなのに、随分とお気楽に構えているものだ。

 僕の能力に頼り切った仕事となれば、部屋から一歩も出ないで船内の事情は全て知る事ができる。

 それを所長が報告書にまとめるだけで事が済めば、たいして危険とも言えない。

 これでいいのかもしれない。


 着替えを終えて一歩室外へ出たら、なんだか急に緊張してきた。

 ひととおり教えてもらった作法には自信があるし、見かけでは見破られる筈ないと言い切れる仕上がりだ。

 それでも不安になってくるのは、昼寝で軽く下見しただけでも逮捕者が続出する船内事情を知ってしまったからだろう。


 港から半日も航海すると、辺り一帯は海。

 遥か沖合に浮かぶのは、大島なのかどうなのか。

 周りが海ばかりだといかに大きな船でも、ここは逃げ場のない空間だとつくづく思う。


 最初の目的地はオーストラリアの方だと聞いている。

 後に南極を経由してから南米に向かい、アメリカ大陸の西を海岸沿いにと進む。

 カナダ・ロシアと経由してから、一旦日本に戻ってくるらしい。

 南極への寄り道はあるが、概ね環太平洋を陸に沿って一周する形をとっている。

 この世界半周が終わると三日間ほど日本に停泊して、次は大陸沿いに東南アジアからアフリカ、そしてヨーロッパの国々を観光して、北極からカナダ・アメリカ東海岸・南米へと抜ける。

 さらには大陸最南端からハワイに向かい、一日停泊するだけで日本へ。

 太平洋を一気にかけ抜ける強行軍が待っている。

 陸地が近くて、毎日のように港に入って観光ができる前半に比べ、後半は廻りが海ばかりの毎日で、乗客としては飽きゝするのが今から予想できる。


 毎夜のパーティーやショーで気分を紛らわすにも限界がある。

 日本の船舶は外洋でも賭け事が禁止されているものの、そこはザル法で抜け道がある。

 表向き現金は動いていないが、高額景品が受け取れるカジノ。

 パチンコ屋の景品交換所みたいなのが船内にあって、そこに景品を持っていけば現金化できる。

 ただし、ここで散々負けたら部屋に籠るしかない。

 そんな時、麻薬が近くにあったら、ついうっかり手を出してしまう人がいないとは言えない船旅だが、既にこの船の乗客には、たちの悪いのが随分と多く紛れ込んでいる。

 ところが、これは初手から承知した上での捜査らしく、危なっかしい輩をどうこうしようといった気配はない。

 聞いている範囲で解釈すれば、小物は泳がせておいて、大量密輸の組織を潰すのが目的だ。

 しかしながら、今夜のパーティーではどのカップルも僕に気軽な挨拶をしてくる。

 この接近遭遇に至って、あの人は大麻この人はコカインと知っているせいで、尋常ならない危機感を抱いてしまう。

 できる事なら部屋に引きこもったまま船旅を終えたいが、仕事の殆どを遊びとして楽しむ気満々の所長に引き回されるのは確実だ。


 初めから最後まで居る事もないだろうに、二時間ばかりの騒ぎが収まって、部屋に戻った時には十時を回っていた。

 暗闇に飲まれたのか、それともとっくに行き過ぎたのか、陸地や島影はどこにもなく、この巨大豪華客船が太平洋にぽっかり浮かぶ小舟のように感じられる。

 途中、ニュージーランドやミクロネシアの島々に寄るとしても、これから数日は見渡す限り海ばかりの日が続く。


 冬も始めの出航だったのが、航路を進むにつれて真夏の様相になってきている。

 月日の経過がそうさせているのではない。

 南下するにしたがって、赤道に近づいているからだ。

 船上のプールに設えられた椅子やビーチベットは、空席がないまでに客が出ている。

 その隙間を縫うよう、クルーが忙しなくドリンク運びに精を出す。

 こんな暑い時はクーラーのきいた部屋でゆったりしていたいのに、所長に無理やり引きずり出され、露出度の高い水着まで着せられている。

 潜入捜査なのだから目立ってはいけないのに、しっかり世間様の視線を集めてしまっていると感じるのは、思い上がりだろうか。

 ペア限定ツアーの筈だが、一声二声かけてくる男のなんと多い事か。

 世の中、浮気者ばかりだ。

 うっとうしいし、水着の陽焼け跡を残したくない。

 そろそろ部屋へ帰ろうとしたら、か細い声で後ろから女が声をかけてきた。

「アズキちゃんでしょ?」

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