思わぬ再会
二千十七年 二月十四日。
唯月は、昨年十二月の日記を読み返していた。昔からの習慣で、唯月は毎日の詳細な日記を付けている。会話の内容も覚えている限り、日記に記していた。とは言っても、普段は家にこもって仕事ばかり。会話をするのは馴染みのコンビニの店員くらいのものだ。
ただ、その日は違った。目に留まるのは、昨年十二月十二日、およそ二月前の日記だ。これまでの人生ので絡んできた酔っぱらいのなかで、群を抜いてヤバイ女だったと唯月は思い返してため息をつく。それでも、あのメモ書きは捨てられずに残しているし、会話もまだ鮮明に思い出せた。
思い返すと、少しばかりの後悔もある。自身の話をしてくれた彼女に対し、唯月は何一つとして自己開示をしていなかった。
(あのとき話したほうがよかったかな)
そんなことを考えてばかりで、ここ二ヶ月ほどは仕事にイマイチ身が入っていない。
唯月はため息をついて、日記を閉じ、立ち上がった。窓の外を見ると、トラックが大きな音を立てて通り過ぎているのが見える。アパートの一室が少し揺れた。
「どっか行くかあ」
大した荷物も持たず、ふらりと家を出る。昼の三時、まだまだ冬真っ盛りの外の空気が肺を痛めつけるようだった。
(で、どうしてこうなるのか)
何も考えずにたどり着いた先は、京都の河原町。阪急河原町駅を出て、すぐ右にある風俗店だけが入っている雑居ビルに吸い込まれる男を横目に見ながら、ため息をつく。すぐ目の前の橋にはなにかの芸をしている人がいて、人々は一瞥するだけで通り過ぎていった。
まだ日が傾かない冬の夕方。ホテルも予約せず、適当に食事を摂って適当に歩く。寺町通を意味もなく流して楽器店に入って弾きもしないギターを物色してみたり、新京極商店街に面した名も知らぬ寺に入ってみたり、自分でも何をしているのかわからなくなるような時間を過ごした。
日が完全に落ちてくると、唯月の足は無意識に木屋町通に向かっていた。特別用事があるわけでも、行きたい店があるわけでもない。なんとなく、今日はいつものオタクバーに行くような気にもならなかった。
ただただ道幅の狭い通りを狭っ苦しく、キャッチを鬱陶しがりながら歩く。それが妙に心地がよくて、唯月は思わず笑いそうになった。
ふと、見たことのある女性の人影が見える。
(誰だったっけ。元カノじゃないしな)
考えながら歩いていると、声がかかった。
「え!? お! ちょ、ちょっとちょっと!」
振り返ると、彼女が目の前にいた。
「はい?」
唯月が不思議に思い首を傾げていると、女性が首を傾げ返す。
「あれ……わからない? あーまあ、わからんか」
「えっと、どこかでお会いしましたっけ」
唯月が言うと、目の前の黒髪のショートカットに赤いインナーカラーを入れた女性が伏し目がちに笑う。その表情に、少しだけ見覚えがあった。もしかしたらという気持ちと、そんなことはないだろうという気持ちがせめぎ合い、唯月は少しの間、彼女の顔を見て固まってしまった。
「ん? おーい」
「あ、すみません。あの……泣きながらめちゃくちゃ飲んでたお姉さん?」
(いや、どんな確認の仕方だよ)
そう思いながらも、唯月の目に映る彼女の笑顔が先程よりも眩しく見えた。
「そう! そんな人が二人おらんかったら、それ!」
二人もいるはずがない、と唯月は笑った。改めて見てみると、彼女は当時よりも髪を短く切り揃え、整った服装をしているようだった。整ったとは言っても、明らかにどこかの店の衣装らしいどこか安っぽいバニー姿だが。大きな胸がさらけ出されている。
寒そうだな、と唯月は思った。
「似合うなあ、その服」
「でしょ? 寒いんだけどねー」
「ですよねえ」
「にしても、気づかんの酷いよー」
「いやあ、髪が似合いすぎてて気づきませんでしたわ」
唯月の適当な言葉に、彼女は「へへ」と口角を緩める。その顔は、どの店のどの女の子よりもとびきり可憐に見えて、唯月は心臓が跳ねるような錯覚を覚えた。
「あ、そうだ。あそこのガールズバーで働きだしたんよ」
「へー! へー! いいやん」
唯月がうんうんと頷きながら言うと、彼女は誇らしげに「せやろ?」と言った。
「酒強いしな。喋るんも好きやし」
「よかったなあ」
「君は何してんの? 今日もイライラしてたん?」
「ん、んー……」
唯月は、自分が何をしていたのか、どうしてここにいるのか、説明ができなかった。ここ二ヶ月ほど目の前でわざとらしく身を屈めながら上目遣いをしている彼女のことを考え、仕事が手につかず、気がついたら京都に来ていた。それは唯月にもわかっていたが、それをそのまま伝えることは憚られる。
しかし、彼の口は勝手に全てを正直に話してしまっていた。「へー」と短く答えてニヤニヤとしている彼女を見て、唯月は耳が熱くなる。
「運命かもしれんねこれは」
「どんな運命やねん」
「というわけで、店来るか」
「どういうわけやねん。行くけど」
唯月が答えると、彼女が唯月の腕を強引にひったくるようにして掴んだ。そのまま腕を組み、笑っている。
「ま、私あと二時間で帰るけどね」
「じゃあ二時間だけおろうかな」
「おっけー、一時間四千円飲み放題、延長代は五千円ね。私にも飲ませてなー」
「営業うまいなあ。ええけど」
「ま、今日は私が奢るけどねー」
「いやいや払う」
「いやいや、無理やりにでも奢るよ私は」
彼女はニヘラと口角を緩めながら、唯月の腕を引っ張って歩いていく。そうして雑居ビルに吸い込まれていった。薄暗く照明が焚いてある店内に入り、促されるままカウンターに座らされて、目の前に彼女が立つ。
「そういえば君、名前は?」
「光唯月」
「へえ、変わった名前だねー。私は橘 愛華。本名ね」
愛華は口元で人差し指を立てる。
「お店ではなんて名前なん?」
「ん? アンジュ。天使が由来!」
「エンジェル? あなたが!?」
唯月は思わず吹き出してしまった。愛華が頬を膨らませながら焼酎を水で割り、かき混ぜている。
「ちょ、濃い!」
「笑った罰! 飲めるの知ってるんだからね」
「ごめんて」
愛華の背中から純白の翼が生え、頭の上に金色の光る輪が浮かんでいるのを想像し、唯月はまた笑う。ひとしきり笑ってから焼酎の水割りを飲むと、ほとんど加水されていないようなツンとくる味わいと強烈な芋の香りが口と鼻を刺した。
「一気に飲めよー」
「せっかく作ってくれた酒を一気に飲んだらもったいないやろ?」
「くっ……うまいこと言いやがってー」
愛華がおもむろに唯月の頭に手を伸ばす。そのままモシャモシャと、髪をかき乱されてしまった。唯月は頭を触られるのを極端に嫌うが、不思議と悪い気はしなかった。それが自分でも不思議で、頭を触られながら首を傾げてしまう。
「どしたん」
「ん? なんでもない」
「そ? まーいいけど」
二人で談笑しながら酒を飲み、結局二時間ずっとくだらない話をし続けた。周りの男性客が愛華と仲が良い様子なのをからかってきたり、女性客がボトルを入れてシャンパンを振る舞われたり楽しく過ごし、終わりの時間が訪れる。愛華にお金を払おうとすると、全力で止められ、愛華が店長に自分の財布から出したお金を渡してしまった。
「まじで無理やりにでも奢りやがった……」
「私、有言実行するタイプなんだよね」
「奇遇やな。俺は有言不実行、無言実行タイプや」
「何も奇遇じゃない!」
ふう、と息を吐いて立ち上がると、愛華がカウンターの向こう側から出てくる。息が当たるのではないかというほど近くまで来て、それから愛華の頬が唯月の頬に当たった。
「えっと、店の外で待ってて」
甘くとろけるような囁き声に、唯月はただ頷く。それ以外に、何もできそうになかった。
店を出て、言われた通り、寒空の下で待つ。通り過ぎる人々が唯月をチラリと見るなり足早に去っていくのを見て、知らない場所に迷い込んでしまったかのような居心地の悪さを覚えた。
(まあ、見てくれはキャッチみたいだしな)
実際、以前はセクキャバで働き、キャッチも経験したことがあるため間違いではない。唯月が自嘲していると、急に背中に衝撃が走る。
「おまたせー!」
振り返ると、腕を突き出した愛華がいた。出会った日の格好とも、店の衣装ともまた違うモコモコとした白くかわいらしいコートに身を包んだ彼女が、笑顔で唯月を見ている。心臓を熱いお湯で洗い流されたかのような心地だった。
「突然だけど、ホテル取ってる?」
「あ」
言って、口が開けっ放しになった。ホテルを取っていないのを完全に忘れていた。電車はまだ走ってはいるものの、途中で終電が無くなってしまうような時間だ。
「そうやろうと思ったわ。よし、うちに行こう」
「いや悪いって」
「ええねんええねん、あの日泊めてくれたやろ? 恩返しよ」
「まじか……神やん」
「天使ですが」
「まだ根に持ってたか」
そうして、愛華の家に向かった。
驚いたことに、唯月が以前住んでいたのと同じ左京区だった。修学院駅から徒歩数分、京都造形芸術大学の近くにある細長いアパートだ。部屋に入ると、簡素な内装が目に映る。テレビとゲームとぬいぐるみ。あとは服と下着があちこちに散乱している妙に居心地が良さそうな部屋だった。
「あ! 散らかりまくってる!」
「気にせんよ」
「そ? ならいっか!」
「切り替え早いなあ」
「あ、連絡先交換せん?」
「おー、しようしよう」
二人してスマホを取り出し、連絡先を交換する。年に数回、友達と飲み会の計画を立てるとき以外は動かないチャットアプリに、新たな連絡先が追加され、唯月は満足げに画面を眺めた。
「あ、そういえば……年齢は? ご職業は? ご趣味は?」
「タイムアタックのお見合いか」
「冗談冗談」
「二十一歳、フリーライター、アニメ! ゲーム! 漫画! 酒! ダーツ! その他諸々!」
「ツッコミながらノッてくれるところ好きだよ」
愛華がベッドに座り、隣をポンポンと叩く。ホテルの部屋とは違うピンク色の掛け布団がかかったベッドに、唯月はおずおずと腰をかけた。
「友達とかはなんて呼んでるん?」
「唯月、唯月くん、光くん、ライト博士とか」
「光だからか!」
「そうそう」
「んー……じゃあ私は、いっくんって呼ぶ!」
「好きにしてもろて」
愛華が何度も「いっくん、いっくん」と復唱している。なんともむず痒く、唯月は部屋を見渡した。改めて見ると、ぬいぐるみがかなり綺麗だ。手入れなどをしているんだろう。そんな中に一つだけ、少し黄ばんだぬいぐるみがある。
「私はね、二十歳、ガールズバーのキャスト、ゲーム! 酒! 酒! 酒!」
「酒ばっかやないかい」
「年齢にはなんか言うことないの?」
「割と想像通り」
「え、お姉さんとか言ってたのに!」
「社交辞令というやっちゃな」
愛華にバシバシと肩を叩かれるも、全く痛くなかった。むしろ、どこか気持ちがいい。
「肩こりに効くでぇ」
「私はいっくんのこと年下だと思ってたよ!」
「まじかよ、僕のどこに年下要素あんねん」
「割とある!」
話しながら、ずっと肩を叩かれ続けた。
二人はそれからも他愛のない話をして、適当に過ごし、あの日と同じように一つのベッドで眠りにつく。
けれど、あの日とは確かに違っていた。二人は名前を知っているし、素性も知らないわけではなくなった。
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