メンヘラ彼女は彼を異星人と呼んだ

鴻上ヒロ

回想:出会いと再会

ヤベえ女と変な男

 二千十六年十二月十二日。この日、光唯月ひかりいつきは、妙にムシャクシャしていた。彼は自身のことをあまりイライラしない人間だと認識しているが、たまに発散しようもないイライラを抱えることがある。その多くは、自分に対するどうしようもない苛立ちだった。


 (家にいたくないな)


 唯月は立ち上がり、部屋着のパーカーとスウェットを適当に脱ぎ散らかし、クローゼットから乱雑にシャツとジャケットとチノパンを手に取り、着替えた。上からトレンチコートを羽織り、リュックを背負う。


 家を出て、眩しい日差しに目を細めながら、徒歩三十分の最寄り駅まで向かい、電車に乗る。目的地は、彼が二年前まで住んでいた街、京都だった。


 特に意味もなく京都に向かい、ホテルを取る。目眩がしそうなほど人が多い河原町の道を歩き、京都に住んでいた当時の思い出の地を特に何の感慨もなく巡った。当時住んでいたアパートの近辺に行ってため息をついてみたり、よく行っていた定食屋のチキンカツ定食を食べてみたり。無くなった老舗ゲーセンの跡地で写真を撮ってみたりしても、気分は晴れない。


 夜になると、唯月は木屋町を散策しはじめた。


 京都にある小さな小さな歓楽街には、一本道の通りにキャバクラや風俗、バーに居酒屋などが所狭しと並んでいる。雑居ビルを横目に見ながら、キャッチを全力で無視し、たどり着いた先はよく行く居酒屋。半ば惰性の決断である。


 食事と酒を惰性で貪り、これまた半ば惰性で、よく行くバーに入る。三時間ほど酒を飲みながら、馴染みのバーテンと他愛のない話をしたり好きなアニメの話をしたりしながら過ごし、店を出た。


「つまらん」


 ホテルに戻るにも胸の中にポッカリと穴が空いたような寂しさがある。色褪せて見える町並みを眺めながら、ブラブラと歩く。人でごった返していた木屋町も、月曜日ということもあるのか、深夜二時を過ぎた今となっては人がまばらだった。


 乾いた風が妙に冷たく感じ、唯月は身を震わせる。この低気温も、枯れたような風の音も、雑踏も全てが彼の神経を逆なでしていくようだった。


 少し歩いていると、深夜二時過ぎの人が少ない京都の路地裏に、座り込む女性が一人。この季節に妙な薄着だ。肌着と見間違えるほどの薄いブラウスに、これまた薄い上着を着ている。もっとも、上着は着ていると表現するにはあまりにも崩れていて、完全に肩が露出してしまっているが。


 (なんだか知らんが、これはヤバイ)


 唯月は心臓の高鳴りを抑えながら、通り過ぎようとした。


 ふと、彼女と目が合った。関わらないほうがいいだろうことは、唯月にもわかっていた。


 しかし、もう遅かった。


「ちょっと」


 自らの周囲に度数の高い酒のロング缶を五本も散らかしている女にしては、風鈴のように爽やかな声だった。よく見ると、赤く染まるその顔はどこか幼いように思える。綺麗に整えたボブカットの内側には、赤いインナーカラーが見え隠れしていた。


 唯月の目にも美人に見えるその女は、虚ろな目で涙を流している。ワケアリ女性欲張りパックのような美人に、唯月の胸はなぜか踊っていた。


「はい?」


 絡まれたからには応えなければ無作法だろうと、唯月は彼女の呼びかけに応じて立ち止まる。彼女はただ、手招きしていた。


「あー、はい」


 隣に座ると、彼女は酒を差し出す。彼女の傍らに置かれていたバッグには、缶の酒がびっしりと詰まっていた。唯月も大概酔っ払っているため、これ以上は危ないと肝臓という名の第六感が告げているような気がしたが、差し出されれば飲まなければならない気もして、酒を受け取る。


「ああー、いただきます」


 宝酒造のCanチューハイ。奇妙なことに、彼の好きな酒だった。グビグビと勢いのいい音を鳴らして飲んでいると、彼女は涙の跡を頬に光らせながら笑っている。妙に寂しそうな笑顔だ、と唯月は思った。


「いいね。酒好き?」

「好きですよ」

「飲んでたん?」

「もう何時間も飲み続けてます」

「強いねえ」


 (あなたが言うか)


 唯月は、彼女の周囲に散らかった缶を見てから、彼女の顔を見つめた。


「まだ飲むんです?」

「飲むよー。たくさんあるからね。朝まで」


 (朝までこの調子で飲むのか)


 少し面倒に思いながらも、彼の心臓は先程から脈拍を早めている。その音をかき消す勢いで、唯月はレモンチューハイを思い切り飲み干した。


「路上で?」

「別に路上で飲みたいわけやないよ。ただ、ね、行くとこないんよぉ……」


 女性の声が、急に尻すぼみになった。


「家帰りたくないよー。面倒くさいよーだるいよー死んじゃうよー」


 彼女が酒を持った手をバタバタとばたつかせるもんだから、酒がトポトポとこぼれている。


「急にごねるやん。帰らんのかあ」

「帰らんのよー」

「そうなんですねー」

「君は?」

「兵庫から泊まりです。ホテルに戻りますよ」


 唯月の言葉に、彼女の目に光が灯ったように見えた。


「おおー、ええやん! ビジホ?」


 声色まで、先程よりも明るくなっている。地面に手をついて隣に座る唯月の方へと身を乗り出し、彼女は鼻息を荒くしていた。


「ビジホですね」

「一人増えても大丈夫だったりは?」

「ダブルやし……料金追加したらいけるやろ」

「よし行こう! ね? お願い!」


 唯月は一度ため息をついてから、立ち上がる。


 なぜだか、彼女を放っておくことが彼にはできそうになかった。別に下心があるわけではないし、女性をこのまま置いておくのは寝覚めが悪いというのでもない。


 ただ、唯月の目に映る彼女が、自分自身の記憶にある何かとダブって見えた。


 (なんか、このまま死んでしまいそうなんだよな、この人)


「ほな、行きますか」


 唯月たちは大量の酒を抱えて、ホテルに向かった。女性はまず涙を拭き、化粧を落とす。それから二人で近くのコンビニに向かい、食料などを買い揃えた。また部屋に戻って別々に風呂に入り、飲み直す。


 二人ともガウン姿で、ロング缶が一本ずつ空いた頃、彼女がベッドに身を投げ出した。


「君さあ。全然聞かないよね」

「聞いていいかわからんからね」

「いや普通聞くでしょ。自分で言うのもなんやけど、ツッコミどころしかないやん?」

「まあ、上着直せよとか思ったけど」

「せやろ?」


 彼女が唯月を見て、口をキュッと結ぶ。唯月もまたベッドに見を投げ出し、「うーん」と唸った。


「別に、事情を聞こうとはあんま思わんかったなあ」

「そーなん?」

「そーなん。酒差し出されたから、付き合うかなくらい」


 唯月が淡々と言うと、彼女は「ふーん」と素っ気なく感じる声音で言ってから、「ふふふ」と笑った。部屋に備え付けられている時計の針が、トン、トンと時を刻む音がする。しばらく二人で横になり、天井を見つめながら黙っていた。


 何十回その音を聞いただろうか。彼女が突然、唯月の方へと寝返りを打った。


「今日はさあ、自暴自棄? なんか汚されたい気分でさ。ああしてれば、誰かがどっか連れ込んだりして私を汚してくれる気がしてさ? やけど、積極的に自分から誘うのはなんかちゃうやん?」


 彼女が天井を見つめながら、抑揚の少ない口調で語る。


「ああ、なるほど」


 唯月には、なんとなく気持ちがわかるような気がした。汚れたい、汚されたい。特に理由はないが死にたくなり、だけど死ぬのは面倒だから汚れたくなる。そんなところだろう、と。そんな彼の思考をよそに、彼女は喋り続ける。


「君に声かけたのもそう。ああいうシチュエーションならそうなるかなって」

「いやあ、せんわ」

「君はね。ただ何も聞かず酒だけ付き合ってくれて、しかも君は君で、なんか落ち込んでる感じ? してたし。知らんけど。なんかもう汚れたいとか思ってた自分が、バカみたいやなって」


 彼女の語る言葉に、唯月は胸を射すくめられたような気がした。


「そ、そうなん?」

「そう。別に君と今ここでしたとしても、汚れたことにはならんしね。君ええ奴やし? 奥手そうやし? ヘタレそうやし性欲なさそうやしね。むしろ私が襲う側、みたいな?」

「ん? 初対面やぞ? ギリ失礼か?」

「ハハハ、ギリやなく失礼やろ」

「ま、褒め言葉として受け取っとくわ。褒めてる要素ほぼないけど」


 その後も、彼女は自分の話をし続け、唯月は相槌を挟みながら聞き続けた。先程の唯月の推察は当たっていたようだ。死にたいけど死ぬのは嫌だから、汚されたいという話だった。そうして大勢の人に、自分を襲わせるように仕向けてきたのだとか。ついでにお金を受け取っており、今はそれで生計を立てているという。


 頭がいいのかどうなのか、少なくとも駆け引きはうまい人のようだった。


 唯月には正直なところ共感できる話だったが、なまじ共感できるだけに、適当なことは言えず、相槌だけになってしまう。


 彼女はそんな唯月に、「君はわかってくれると思ってた」と笑った。


 (ここは僕も……いや、やめるか)


 結局、唯月たちは夜通し飲み続けた。


 翌朝、目が覚めるとホテルの部屋に備えられた申し訳程度のテーブルの上に、これまたホテル備え付けのメモが置かれてあった。そこに、丁寧な字で文章が綴られている。


 ――――。


 ありがとう。結局名前も聞いてなかったし、言ってなかったけど、なんか救われたかな。君はやめろとか言わなかったけど、これからはこういうことはしないと思う。だから、君は生きとってね。君に救われるという人は、結構いると思うよ。私もその一人だし。


 それだけで、生きる価値があるよ、君は。私も頑張る。楽しかったよ。


 ありがとう。


 ――――。


 読んでいて、彼女が案外真面目な人なんだなと唯月は思った。彼女は真面目だからこそ、色々と内側に溜め込んでしまい、発散する方法がわからず、歪な方法で紛らわせていたのだろうと。


 そして、喉の奥からヒュッと空気が漏れるような音が鳴る。顔が赤くなり、そわそわと歩き回ってしまう。それからピタリと止まり、もう一度メモ書きに視線を落とした。


 (人が人を救えると思うのは、傲慢だよ。だけど、まあ、嬉しいかな)


 チェックアウトして外に出ると、昨日よりも少し、空気があたたかく感じた。

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