2017年8月:白い夏

旅行に行くよ!

 二千十七年 八月十七日 木曜日。


 八畳のアパートの一室で、唯月はいつも通りカタカタとキーボードを叩いていた。外からは、ひっきりなしにセミの声が聞こえてくる。聴いているだけで汗をかきそうな声をかき消したくて、彼は音楽をかけた。夏だから、趣味ではないが湘南乃風を。


 趣味ではないとはいえ、世代ではある。「俺! 俺! オレオレオレオレ!」と聞こえてくると、歌い出したくなった。その気持を必死に抑えながら、仕事の執筆をし続ける。湘南乃風がジャンボリーを終えてパスタ作ったお前に一目惚れしはじめた頃、スマホの着信音が鳴った。


 表示されている名前を見る。昨年十二月に出会った酒浸りのヤバイ女、愛華だった。ため息をつき、通話ボタンを押す。


「もしもし」

「やあ! 今日暇?」

「暇ではないな」


 唯月の仕事は、空けようと思えばいつでも予定を空けられる。納期さえ守ればいい。暇ではないというのは、彼らの間では「空けられる」という合図だった。


 ただ、電話越しに聞こえる愛華の声色がいつもより上機嫌に感じることに、悪寒が走る。


「明日は暇?」

「暇ではないな」

「明後日は暇?」

「暇ではないな」

「しあさっては?」

「納期やなあ」


 (なんで連日の予定を聞いてくるんだろう)


 唯月は仕事の手を止め、固唾をのんだ。


 電話口から、息を吸い込む音が聞こえる。彼はスマホを耳から少しだけ離し、言葉を待った。


「旅行に行くよ!」


 愛華が大声で言う。スマホを耳から遠ざけておいて、正解だった。


「旅行? どこに」

「どこでもいい! とにかく旅行!」

「こちとら原稿料入金日直前よ」

「金ならある!」


 唯月が頭を抱えていると、そんなことは知らない愛華は上機嫌そうに言葉を続けた。外でけたたましく鳴いているセミの声が、一段と大きく感じる。


「競馬で大勝ちしたから! お姉さん奢るでー」

「君年下やろ」

「一つなんて誤差や」

「そうやけど」

「とにかく行くよ! ちょい待ってて!」

「は? おいちょっと待っ――」


 ツー、ツー、と音が鳴る。唯月はスマホをデスクの上に乱雑に置き、缶に突き刺さったショートピースを咥え、火を付ける。バニラの甘い香りを口中に感じながら一瞬だけ天を仰ぎ、執筆中の記事を保存し、テキストエディタのウインドウを閉じた。


「ええ……あいつ京都やろ? 今からて」


 癖になった独り言をつぶやき、パソコンの右下に表示されている時刻を見る。午前十一時二十二分。京都にある愛華の家から兵庫県三田市の唯月の家まで、電車で二時間はかかる。駅から歩く時間を加味すると、二時間半から三時間はかかるだろう。


 一体どうしたものかと悩みながら、立ち上がり、ぐるぐると歩き回る。そのとき、唐突にチャイムが鳴った。


 (あれ、配達の予定とかあったっけ。最近来てないけど宗教勧誘か?)


 ドアホンの通話ボタンを押すと、モニターに映ったのは綺麗に整ったボブカットの黒髪に、赤いインナーカラーの女の子の姿だった。夏だからか、少し薄手のワンピースにかわいらしい羽織ものをしている。愛華だ。彼女はあれからまた髪を少し伸ばし、元のボブにまで戻していた。


「は? あー……とりあえず開ける」


 唯月はそれだけ告げてドアホンを切り、玄関扉を開けた。唯月の顔を見るなり、愛華はへへへと頬を緩ませる。


「君、早すぎん?」

「実は電話したとき、既に近くにいたのだ」

「な、なんだってー! まじでなんだってー!?」

「とりあえず、お邪魔しマンボウ」


 唯月の横をススッと、愛華が通り抜けて靴を脱ぎ捨て、部屋に上がっていった。彼は脱ぎ捨てられたスニーカーをしっかりと揃えてから、部屋に戻る。デスクチェアに無遠慮に座る愛華の近くに、腰を下ろした。


 デスクチェアの近くには、大きいリュックが置かれている。明らかに旅行カバンだった。


「びっくりした?」

「したけどさ……断ったらどうするつもりやってん」

「そんときは普通にお泊りよ。観察日記つけちゃろな」

「なんの研究やねん」

「それに、いっくんは断らんやん?」


 愛華が笑顔で言う。唯月はため息をつく気にもなれず、倒れるように寝転んだ。白い天井が窓から差し込む陽の光に照らされて、眩しい。


「で、旅行やっけ」

「そそ」

「計画はもちろん?」

「どこ行くかも未定やで」

「ひえぇ……今日出発するん?」

「思い立ったが吉日言うやん?」


 唯月は、少しだけ泣きたくなった。彼は普段は無計画な人間だが、旅行だけは計画をしっかりと立てたい人間でもあった。それに、愛華に奢られるのは何か癪な気がした。再会したときにも奢ってもらい、その後何度か奢ってチャラになったとはいえ、また奢られるのは気が引ける。


 しかし、旅行と聞いて胸が踊らない彼でもない。唐突だったことに対する動揺も、少し収まってきた。俄然やる気が沸いてくるというものだ。


「よし、行くか!」

「おー!」

「行きたいところはあるかー!」

「福岡ー!」

「よーし! ホテル予約しーちゃお」


 スマホでホテル予約サイトを開く。いつも使うホテルの予約ページに飛んだ。


「一部屋でね。一泊の予算は一万円で」

「おっけー! 何泊する?」

「今日と明日ー!」

「二泊三日なー!」


 金額を確認すると、一泊あたり七千円。朝食ビュッフェ付き。博多駅から徒歩五分と、非常に好条件だった。二泊三日で予約が完了し、メールアドレスに確認メールが届く。


「おっけーい! よく行くホテル取ったったわ」

「いえーい! じゃあ行こうー!」

「シャワー浴びさせろー! 着替えさせろー!」


 そうして、突発的な福岡旅行が始まった。

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