#5
1
右手をグッ、と上げてみて、それから少し傾けて日の光を当てて見るとーー赤い痕の色が、さらに赤く見える。
けっこうグロい、っちゃグロいけどーー見ようによっては綺麗にも、なんならちょっとかわいくさえも見える。
……私は最近、この右手首にできた赤い痕のことばかりを、考えてる。
そして、何よりもその、原因について。
……原因について、なんて、なーんかいつもの私のノリじゃないみたいだね。ちょっと言い方変えよっかな。
でもまあ、ようするにそういうことなんだよね。なんでこんなものが、突然私の体にできたのか、ってこと。
もちろん、この痕ができたその日にーー私はお母さんに相談して(お父さんは現在名古屋に出張中)、すぐに小杉のヒフ科の病院に行って診てもらった。おじいちゃんのそのヒフ科の先生は、そのフワフワしたあったかい手で私の手首の痕を触ったあと、なんだろーねーこれは、とかって他人ごとライクに言っていた。虫刺されだとか、最近流行りの帯状疱疹だとか水ぼうそうだとか、なんなら性病だとかーーいろんなこと言われたけど、そのどれもが違った。血液検査も異常ナシ。発熱もないし、出来はじめは少しかゆかったけど、それもいまではないし、痛みもない。全身健康そのもの。
結局ーーかゆみを感じたとき患部に塗る軟膏だけもらって、帰ってきた。
お母さんも、それだったらしばらく様子をみるしかないわねえ、って言ってる。
もう一度、右手首のその痕を、日の光に当ててみる。ジーッと眺め続けてると、それは模様のようでもあり、何かの文字のようにも、図形のようにさえも見えてくる。
最近、お風呂に入ってるときとかさ、とりとめなくただ部屋でボーッとしてるときとかに、こうやってこの痕を眺めてることが、ほんと多くなった。
そうしてると、だんだんとなんだか不思議な、説明のつかないような、そんな妙な気分になってくるのだ。
で、自然と私は、次のようなことを、考えるようになっていた。
……これは、果たして肉体的な原因で、できたものなんだろうか。
もしかしたら、違うんじゃないだろうか?
……っていうのはさ。一応、小杉のヒフ科の先生には診てもらって、これは何らかの病気によるものじゃない、っていうお墨つきを得ているわけじゃん。
だったら、それ以外の原因を、そのかわりに考えちゃいけない、ということにはきっとならないはずなのだ。
違うかな。
……そこまで考えてみると、自然とまた、もう一つのギモンが降って湧いたように出てくる。
……もしもそうなら、それ以外の原因、っていうのは、いったいなんなんだろうか?
もちろん、こんなことはただのカンにすぎないよ。すぎないけど、ついどうしても、そう考えてしまうのだ。
私はベッドの上から体を起こして、レースのカーテンを開け、窓の外を見た。とてもよく晴れていてーー散歩でもしたら、超気持ち良さそうな、そんなお天気だ。
お医者さんにはもう頼れない以上、私は自分の立てたこの仮説に基づいて、手首にできた痕の原因を、自分なりに探してみたらどうだろうか、って思ってた。
……そうでなきゃ、これから一生、手首にこんなヘンな痕をつけたまま、生きてかなきゃならないハメになるワケで。
でも、とはいうもののーーいったいどこからどう手をつけていけばいいのかーーもうまるでわからない、そんな感じでいたのだ。
休み明けの月曜日って、みんなゆううつだ、って言う。
なんなら日曜日の夕方あたりからそのゆううつは始まって、もう学校なんて行きたくないなー、なんて気分になるのらしい。
確か、こないだ読んだ村上春樹の小説にも、そんなことが書いてあったな。「僕は日曜日の夕方的状況というものを好まないのだ」って。
まあ、私もご多分にもれず、そうっちゃそうなんだけど、ただ自分のバアイ、少し毛色が違う。
というのも私のバアイーー彼のことを考えれば考えるほど、ゆううつになってしかたないのだった。
……そう、つまり、それは有野重和くんのことだ。
先日、学校の校舎の屋上に彼に呼び出され、ああいうふうなことを言われていらいーー私は毎朝乗る東横線の乗車位置を変えるようになっていた。
……え、なんでかって?
だって彼は、等々力駅から私のいる車両に乗ってくるとーー自分のすることを逐一監視するようになっていたからだ。
でまあ、仕方ないから、違う車両に移ったわけだけど、しばらくそうしてると、今度はその車両にド真面目な、陰気な顔して乗ってくる。
これじゃあ結局、イタチごっこになってしまうから、あとはもう乗る電車自体を変えるしかないんだけど、正直なところ、なんかもう超メンドくさくって。
でもまあ、あのとき、「だったらやめさせてみろ」なんて逆ギレして言い返してしまった、この自分も悪いんだけどね。マジで超反省してます。
このことってでもさ、ぶっちゃけ舞にも相談できないから、余計に困るんだよね。だって、そもそも電車の中でそんなことしてるアンタが悪いんじゃん? なんて、ゼッタイ返されるに決まってるしさ。
……ホント、マジで誰にも相談できない。
今日の朝は、一見有野くんの姿は見えないので、私はちょっとホッとしつつ、いつものように満員電車に乗り込むと、つり革握って窓の外を見てた。
十二月に入って、もう今年も終わりかあ、なんて思うことは思うけど、いっぽうで何も終わってなどいず、むしろ何かが始まってしまった、っていう、そんな気持ちの方が正直強い。
……でも、いったい何が始まってしまった、というのだろうか。
有野くんの姿が見えないので、また私は例によって、いつもの物色を始めていた。都合のいいことに、今日の私の周囲は男の人ばっかりだ。
みんなスマホを見たり、目をつむってただつり革を握ってたり、折りたたんだ新聞を読んだりしてる。
その中からなんとなく、一人の四十代くらいの、ちょっとおしゃれな全身黒づくめの、デザイナー風の男の人に私は目をつけた。
それで少しずつ、手を伸ばしかけた、まさにそのときだった。
最初は気のせいかな、って思ってノンビリしてたんだけどーーそのうちだんだん、気のせいどころの騒ぎじゃないぞ、って気づき始めていた。
……どうやらさっきから、誰かが私のカラダを触っているのだ。
今日はハンパなく電車が混んでて、ちょっと周囲を見渡して確認する、ってことができない。はじめのうちは、その相手の手の甲が、私のお尻のへんにあたってるって感じだったのが、いつしかその手が逆を向いてーー確かに撫でさすってる、っていう、そんな確信に変わっていた。
っていうか、正直にいうと、私はこれまで、自分が知らない相手から痴漢される、って経験がなかった。これが、生まれて初めて、ってわけだ。
ちなみにこないだの鉄の一件は例外中の例外だし、知らない相手、なんてこともない。
朝日がのぼって目が覚めて、夜日が沈んで眠るように、ごくごく自然に、まずは私の内に、強烈な嫌悪感と拒否感が起きていた。
それですぐにも声を上げて、やめてください、って訴えようと思ったところで、私はふと、待てよ、って思った。そして強くつり革を握りしめた。
普段、自分がしていることを思うとーーはたしていたずらにそうしてもいいのだろうか。
何かそれは、ものすごく身勝手な、そんなことのような気がしてくる。
ようするに、自分もまた、これを甘んじて受けるべきなんじゃないだろうか。
こういう風に考えるのって、もともとの自分のセーカクからきてるのだろうか。
そうかもしれない。
というのも、私はそんなに、フダンから女の子女の子されるのがあんまり好きではないしーーそのかわり、正確にそのぶんだけ、女の子、って範疇から自由になりたい、そう思うタチだ。
もちろん、私はれっきとした女の子だし、女の子をやめたいなんて思わないし、女の子であることを愛しているしーー代わりに男の子になりたい、なんてことも思わない。
ちなみに、私の一番ニガテなタイプは、女の子であることの特権をゼッタイに手放すことのない、男まさりな女の子、なのである。
まあそれはともかく、私は満員電車の中でつり革を握りながら、そんなことを繰り返し考えつつーー知らない誰かからの痴漢にジッと耐えていた。
たぶん、ハタから見るとそのときの私の顔は、苦虫をかみつぶすどころの騒ぎじゃなくーーかみつぶされた苦虫そのものみたいな、そんなブサイクな顔だったと思う。
そうやって耐えていることは、でもその相手に対して、私がその行為を受け入れている、っていう、そんなメッセージにきっとなるんだろう。
その手つきは、だんだんとエスカレートしてきた。
もう、限界、そう思ったときだ。電車が降車する駅に止まり、扉が開いた。
乗客がいっせいに吐き出されてゆくその流れに乗って、まずはその場から急いで離れることを優先してしまった私は、自分を痴漢していたその相手を確認することを忘れていた。振り返ってみると、さっきのあのデザイナー風の人と、メガネをかけたサラリーマン風の人と、同じくサラリーマン風の少し小太りの中年の人がいる。
……この三人の中の、誰かなのだろうか。
それとももしかしたら、相手も同じこの駅で降りる人でーーもうすでにどこかに姿を消してしまったのかもしれない。
私は降りた電車の扉が閉まるまで、その場でジッ、とその車内の三人を眺めてた。あんまりその目ヂカラが強かったからか、中年小太りの男の人が、チラッと困惑したような顔でこっちを見てくる。
自分のカラダをまさぐっていたその手は、とても大きかったのを、覚えてる。ちょうどあの鉄と同じくらいーーあいつハンドボールやってるしねーー
そんなことを考えていると、背中のへんに人の気配を感じた。振り返ってハッとする。
すぐ目の前に、有野くんがいたのだ。
私はギョッとして、少し身をのけぞった。たぶん、こないだ兄貴の譲が唐突にラインで送ってきた、YouTubeの動画で見た漫才やってるころのむかーしのビートたけしみたいなーー超ヘンな髪型のーーそんなリアクションだったと思う。
私は有野くんが自分に対して何を言ってくるか、大方の予想はついていた。そしてそれは、案の定だったのだ。
「……また、やってたのか」
そう彼は言ってきた。
……ちょっと待って。そう言い返したい気持ちを、私はすんでのところでこらえた。続けて、違う、されていたんだ、そう言ってやりたい気持ちも、噛んでるガムを無理やり飲み込むみたいにして飲み込んだ。
だって、もしそう答えたなら、それはそれでメンドくさくなりそうだったし。
ちょうど私と同じくらいの背丈の有野くんは、さっきから怒ってるのか悲しんでるのか、泣いてるのか笑ってるのか、それらが全部入り混じったような、そんな顔で私を黙って見続けていた。
私はただ、
「違う」
とだけ答えてーー学校へと向かう生徒の流れの中に、すばやく混ざり込んでいった。
その、翌日の朝。私はまた、同じ電車に乗っていた。
今日も、有野くんの姿は見えない。でも、昨日のことがあったのでーーいもしないその存在に対して、やっぱり警戒せざるを得なかった。
私は平静を装ってーー周囲を見渡してみた。ザッと男性三人に女性一人、くらいの割合だ。混み具合はいつものとおり。
フダンなら、すぐにいつもの物色を始めるとこなんだけど、いまや私のカラダはスタバのフリーWi-Fiでネット接続された、四本線ピンピンのクロミちゃん型ケースに入った舞の愛用スマホみたいな、そんな感度抜群の状態になっている。
そして澄ました顔で、窓の外を見ているとーー昨日とまったく同じ感触を、私のお尻に感じた。
……息を飲んだ。
あんまりあからさまに、すぐに振り向いたりしちゃ、たぶんダメなんだと思った。この手の動きから想像して、相手はたぶん、私の背後らへんにいる。
さっきこの電車に乗り込んだとき、それとこれまでの停車駅でも、乗車してきた人たちをできる限りチェックはしていたけど、その中に先日の朝の三人はいなかった。それは間違いない。
でも、この手の感触は、間違いなく昨日と同じなのだ。
てことはやっぱり、私はこの人のことを見逃していたのか。
さっきから男の人の手は、私のお尻をゆっくりと撫ぜまわしたり、そのワレメ(あ、なんかエッチな言い方ですいません)を指でそわせたりしてる。
この種の嫌悪感って、たぶん私たち女にしか、ゼッタイに感じられないものだろう。私たち女は、そのカラダで、っていうか、そのカラダを構成する、その細胞一つぶ一つぶでーー全力である種の価値判断をする。
その価値判断は、ものすごく絶対的で、明晰で、揺るがなく、かつ方向、みたいなものも持ってる。
その方向はーーただまっすぐに、相手の男の人をまなざしているのだ。
そして私たちは、その細胞一つぶ一つぶの発する声を民主的に寄せ集めて、あるジャッジを下す。
そのうち男の人の手が、私のお尻からだんだんと上の方へと上がってきた。
ちょうど背中にあるブラの留め具あたりに移動し始めている。
私は、これからさらに自分の胸にまで手を伸ばしてきたら、大声をあげよう、と決めていた。
こういうせっぱつまったタイヘンなときに、たぶん超ヘンなんだと思うんだけどさーー私には、この当該のせっぱつまった状況、っていうのはつまるところ、いったいどういうことなんだろう、とかって妙に客観的に、他人事みたいに見て考えてしまう、そんなヘンなクセがむかしからある。
たとえば、いまのこの状況だったら、なぜ私は、胸まできたら声をあげよう、とかって判断したのか、と考えてしまうのだ。
さっきも言った、私の兄貴の譲はいま、茨城にある大学で、民俗学の勉強をしてる。でーーなんだっけ、哲学、っていうの? それとかなにーー思想? とかなんか、まあよくわからないけどそんな小難しい本を、もうたっくさん死ぬほど読んでいる。
で、ある日そんな譲に、私はこう質問してみたことがある。
私たち女ってーーなんでこう、おっぱい、とかお尻、とかっていうふうに、分かれてるんだろう、って。
とたんに譲は苦笑いしたまま、頭を抱えて考え込んでしまった。でーー苦しまぎれに、フランスのなんとか、って人がこんなことを言っていた、って私に教えてくれた。
そういう、分かれてることを「領土」っていうんだ、って。
「領土」とかっていきなり言われても、なんのことだか私にはさっぱりだ。でも、その言葉ですぐに思いつくイメージ、というものが、私にはあった。
それは、私たちのカラダはーー地球儀のようなものだ、っていうものだ。
それは、常々思っていた。
で、いまのこの状況で例えるとするならーー私はお尻ならなんとか耐えられるけど、胸までこられるともうムリだ、って判断したワケだ。
つまり、その行為は、私の「領土」を侵食するからだ。
地球儀で例えるなら、私という国の、この地域に戦争を仕掛けられてもまだなんとか耐えられるけど、次のこの地域に攻め込まれれば、もう我慢はできない、ってことだ。
だったら、どうするか?
……であるなら私は、全力で反撃を開始しなければならない。
私は男の人の手がもう一度下の方に下がっていったのを見計らって、その手をそっと握った。一瞬、その手が二秒くらい止まったあとで、ぐっと握り返してくる。
私はーーその手の握りしめそのものでもって、考えられる限りの「愛」を表現してみた。
あなたは、もう何も心配しなくてもいい。私は、あなたのすべてを許しーーあなたを包み込んで、癒してあげる。
そう、完全に思い込むようなーーそんな「愛」だ。
やがて電車が、降車駅に止まった。降りようとする人の波に合わせて、私はその人と手をつないだまま、先導するようにしてホームの端の方に連れていった。
そして手を離して振り返ると、
「どうして痴漢をするんですか」
って聞いてみた。
そのメガネをかけた背の高い、シュッとしたエリートサラリーマンのようなルックスの男の人はーーこのときまでぜんぜん、見かけた記憶もなかったーーとたんにギョッとした顔をして、私の手を離すと急ぎ足で逃げていった。私はそれ以上追いかけもしなければ、声も出さなかった。ただ、首のネクタイを直しながら軽く下を向いて逃げていく、その男性の背中を見つめていただけだった。
2
私は、あのとき自分の発した、「どうして痴漢をするんですか」という言葉、とくに、どうしてという部分について、それからしきりに考えていた。
自分のムイシキに発した、そのどうして、という言葉には、たぶん二つの意味が、重ね合わされている。
まず一つは、純粋に、なぜあなたは痴漢という行為をするのですか、という「問い」の意味。そしてもう一つはーーなぜあなたは、痴漢のような行為をするのですか、という「責め」の意味だ。
確かに私は、あのとき不快な思いをしていたし、怒ってもいた。だからムイシキにも「どうして痴漢をするんですか」と言ってしまったのだろう。
ただでも、私はあくまで、一つ目の意味を込めて、そう言ったつもりだったのだ。
それからしばらくは、あの男の人と出会うことはなかった。
でもある日、いつものような満員電車の中で、ふたたびあの人が姿を現した。もちろん私は、緊張しつつ警戒した。
でも、その人は、私に痴漢をしてこなかった。
やがて降車駅に着いて電車を降りると、その人が近づいてきて、声をかけてきた。
なんですか、って聞くと、
「お願いがあるんだ」
って言う。
駅のホームの中は、通勤通学の人たちでごった返してた。その声も聞き取りにくい。杖をついたおばあちゃんみたいに、なんだって? ってつい耳に手を添えたくなる。
どんなお願いですか、って聞くと、自分とたまに会ってお茶したり、食事をしたりしてくれないか、って言う。
……パパ活、ってやつか、と思った。
同年代の子たちも、やってる子たちはたくさんいる。
私はもちろん、なんの興味もなかった。オジさんATMから引き出せるだけお金引き出して、そのお金貯め込んでネット投資で運用して、三十になるまでにリタイアするためみんな血眼になって頑張ってるけど、やってることはオレ○レ詐欺と変わんない。
そんなことよりも、私にはこの男の人の言うことが、あまりにフツーでなんか面白くない、ってことの方が大きかった。自分より頭一つ大きいその人は、少しナデ肩で紺色のスーツをピシッと着こなしてて、髪は刈り上げの入った短髪、香水の匂いもほんのりして、いかにも仕事のデキるビジネスマン、って感じ。女性にもモテそうだし、その点少しハテナマークではあるけどーーでも見るからに痴漢しそうな人ばかりじゃない、っていうのがこの世界(ってなんかヘンだけど)のホントのとこなのかもしれない。
「そういうのはちょっと」
とだけ私は答えると、その場から立ち去ろうとした。すると男の人は、私を呼び止めると、
「なぜあのとき、『どうして』と聞いたんですか」
と言ってきた。
自分でも、ずっとそのことを考えていただけに、私はまた足を止めた。そして気づいた。
……この人はどうやら、あの「どうして」の持つ二つの意味の、前者の方でとらえたのらしい。
自分の申し出を受ける受けないはべつとして、連絡先を交換してくれないか、と言ってきた。私がスマホは持ってない、と答えると、ひどく驚いた顔をしてーー手帳になにか走り書きすると、その紙を折りたたんで私に渡してきた。
仕方なくそれを受け取ると、
「……君には、資格があるんだ」
ってふいにその人が言った。
「……資格?」
そう聞いても、男の人は何も答えず、興味があったら連絡をくれ、とだけ言って、私の前から去っていった。
❇︎
……また例によって、母さんの作った弁当が、まったく喉を通らなかった。
さいきん、こんな感じで昼の弁当を残してくることが多いので、母さんは腹を立てているとともに、ひどく心配してもいる。
僕は、どうにもならない泥沼のような心労にハマりこんでいるときはーーまったく食欲がなくなってしまうのだ。
では、いまのこの僕の心労は、いったい何に由来しているのか?
……鷺沢かなえだ。当然のように。
僕は三分の一も食べていない弁当包みをカバンの中に押し込むと、教室の最後尾にある自分の席を立って、図書室に向かった。
もちろん、鷺沢かなえと、直接話をするためだ。
今日も普段通りなら、北島舞と二人で、いつものあの席にいるはずだ。
僕は、四階に向かって階段を駆け上がりながらーーここ最近の鷺沢の行動について、あれこれくりかえし反芻していた。
まずは、あの日のことだ。あの日ーー鷺沢がまた例によって、サラリーマン風の男を痴漢していた、その当の朝のことだ。
電車を降りたあとで、なぜか扉が閉まるまで、ジッ、と車内を見つめていた鷺沢の背後から、僕は声をかけた。そのときの、あいつの驚き方といったらなかった。
僕は、
「……また、やってたのか」
そう聞かざるを得なかった。
そのときの、あからさまな面倒くさげな表情がーーそれまであいつが車内でやっていたこと、そのすべてを物語っているように、僕には思える。
もちろん、だからといって僕は、その表情にもうろたえなかった。なぜなら、自分にはその使命があるからだ。
そう。鷺沢の痴漢行為をやめさせる、という、当の本人から直接訴えられた、その使命が。
第一、あのとき鷺沢が、妙に名残惜しそうにーー車内を見つめていたその横顔を、僕はいまでも思い返せば思い返すほど、まるで誰かに首を絞められたかのような呼吸困難に陥り、胸が苦しくなる。
そして、強い怒りが湧いてくるのだ。
というのも、その日は僕に「違う」とだけ答えて去っていった鷺沢だったが、後日僕は、鷺沢がその男としっかり手をつないでーー電車から降りてきたのをこの目でハッキリと見届けたからだ。
僕は呆れて、ものも言えなかった。
その二人のあいだに強引に割り込んでいきたい気持ちを、僕は抑えることで精一杯だった。それはきっと得策ではないだろうしーーあいつが何をしようとしているのか、まずは観察しておく方が優先だと考えた。
その日は二人は何か言葉を交わしたあとで、男の方がそそくさと立ち去っていった。それも気になりはしたが、そのさらに後日には、男は鷺沢にーーたぶんあいつはスマホを持ってないからだろうーー何かを書いた紙切れのようなものを渡していたのだ。
それをあいつは、当然のように、大事そうに受け取っていた。
あの紙にはきっと、男の連絡先が記されていたのにちがいない。
これらすべてのことを、直接本人に問いたださずにはいられなかった。でも、またしても例によってーー図書室に近づいていけばいくほど、僕の緊張はいや増しに増していくのだ。
扉を開けて中に入り、正面の日本古典文学の棚の前を右に曲がるとーーいつものあの四人がけの席に、窓から入る光を浴びながら、鷺沢と北島が向かい合って座っていた。そしてこれも例によって、鷺沢の手元には一冊の本がある。
見ると、「地下鉄のザジ」とタイトルにある、イラストの描かれた表紙の古い文庫本だった。もちろんそんな本も、それを書いたなんとかっていう外国の作家の名前も、僕はまったく知らない。当然瞬時に脳内記憶に冷凍保存して、あとでアマゾンでポチらねばならない。
で、これもまた例によってーーというより、自分の予測よりも0.2秒くらい早く、北島が冷ややかな流し目で僕を見つつ、
「……何?」
と言ってきた。
鷺沢は、手元のその文庫を手で丸めるように持つと、ジッ、と北島の顔を見つめている。
僕はどこからどう始めたものか、少しの間迷ったが、結局単刀直入に、
「あの男と、何を話してたんだ」
と聞いた。鷺沢は、とたんに肩を落として、呆れたような顔をしている。
すると北島が、急に顔色を変えた。
「……え、何その話」
どうやら北島は、そのことを知らなかったようだ。
鷺沢は、しばらく窓の外を見たあとで、やがて開き直ったように、
「今朝、パパ活しないか、って言われたんだ」
と答えた。
「ちょっ。パパ活ぅ?」
北島がそう声を張り上げたあとで、マズい、といった顔で周囲を見回した。見ると図書室職員の女性が、返却された本を奥の方の棚で戻す作業をしている。
「や、そんなダイレクトに言われたわけじゃないけど」
「……っていうかでも、まさかいきなり、知らない人にそんなこと言われたわけじゃないでしょ?」
そう聞いたあとで北島は、鷺沢を追求するように見据えた。鷺沢はことさらに平然と澄ました顔で、「地下鉄のザジ」のページをパラパラとめくっている。
「ねえ。やっぱりあんたまたーー」
「違うよ」
「……だったら何?」
鷺沢は黙っていた。僕にはーーその黙るという行為が、暗にあの男をかばっているような、そんな風に思われて、余計にイライラが増していったのだ。
「でなに、また会うつもりなの? その人と」
北島が聞くと、鷺沢は首を傾げて、
「わかんない」
と答えた。そして、この翻訳者の生田耕作、って人、セリーヌを訳した人なんだよね、などと、まったく関係のないことを言っている。
生田耕作、って誰なんだ。セリーヌ、ってのはいったいどこの、なにをやってる馬の骨なんだ。カバンとかのメーカーじゃないのか。またあとで、これも検索せねばならない。
「でも、何かがありそうなんだよね」
ふいに鷺沢はそう言うと、北島の顔を見つめ返した。
「ちょっ。何か、ってなに」
……わかんない。直感。そう言って鷺沢は、右の手首にある、あの妙な赤い痕のようなものを、左手の人差し指の爪先で、ぽりぽりと掻いて窓の外を見ていた。
さっきから、まるで当然のごとくに、僕は鷺沢と北島の二人の空間のかやの外に置かれていた。鷺沢はこの僕と、目も合わせようとしない。
あの日ーー校舎の屋上で、この僕になんの興味も無くしたような、そんな表情を見せたあのときのことを、僕はまたまざまざと思い返していた。
六限目の授業が終わり、教室の掃除も済ませると、僕は帰り仕度を始めた。
放課後の部活動は「生物研究会」に属しているけど、最近ほとんど出ていない。初日にいきなりカエルの解剖をやらされて、その日の家の夕飯に鶏のささみのフライが出て、それがどうしても、あのカエルの大腿の肉に見えて仕方なくなっていらい、足が遠のくいっぽうなのだ。
あんまり昼の弁当を残し続けるのもなんだか母さんに悪いし、妙な心配をさせるのもあれなので、これから公園のベンチにでも座って、カップみそ汁か何かを買って食べてから帰ろうと思っていると、ふいにどこかからの視線を感じた。
見ると北島舞が、開いた教室の扉に寄りかかり、腕組みして僕の方を見ている。
それから、指先を軽く曲げてこっちに来い、というような合図を送ってきた。
あまり同じ高校の生徒が行くことのない、学校の近くにある神社の脇の公園に北島と向かうと、そこのベンチに腰を下ろした。コンビニで買ったスタバのカフェラテを、北島は飲んでいる。
僕が膝の上に昼の弁当を広げると、でもなんで、いまからそんなものを食べるんだ、と聞いてきた。
「ヘンなの。それじゃあこれから、おうちで夕ご飯食べれないじゃん」
北島は自分のカフェラテを買うときに、何かおごってやると言って聞かなかった。それで結局、僕がしじみ入りカップみそ汁を選んだわけを、ようやく知ったようだった。
湯気のでるそれをすすりながら僕は、正直に鷺沢のことを考えると食欲がわかないのだ、などと答えるのもしゃくなので、黙って箸で卵焼きを突き刺すと口の中に入れた。
「……ねえ。ちょっとさあ、有野くんに、お願いがあるんだよね」
足を組んで、カフェラテをストローで飲みながら北島が言った。
「なんだよ、お願いって」
「……あんたってさ。好きなんでしょサギのことが」
口の中の卵焼きが、木屑のようなものに変わった。僕はそれを無理やり飲み込むと、
「なんだよそれ」
と答えるので精一杯だった。
「いまさら誤魔化そうなんて、もうムリだからね。で、それを見込んでちょっと、お願いがあるんだ」
「だからなんだよ」
「今日のハナシ、あんたも聞いてたでしょ? あの子たぶんーーっていうかゼッタイ、そのパパ活相手の男の人と会うよ」
「……」
僕は鼻をすすって、正面にあるブランコを見た。ベビーカーを押す母親が、一人の女の子を遊ばせている。
「私、入学いらいあの子とトモダチやってるから、よーくわかるんだ。で、あの子は間違いなく、その男の人と会ってーーで、そのあとなんかヘンなことに巻き込まれていくような、そんな気がしてるの」
僕はすっかり冷たく固くなった、おかかのふりかかったご飯の一ブロックを口に入れた。でも、なんの味もしない。
味もしないどころか、それまで飲み込んだものが、いまにも胃からぜんぶ逆流してきそうだ。
「正直ーー私一人じゃもうコントロールできなくなってるの。最近もだから、あえて朝あんまり近づかないようにしてるんだ。もうどうしたらいいかわからなくて」
「……」
「で、ちょっと有野くんにも手伝って欲しいんだよね。あの子の監視を」
北島は、心から鷺沢のことを心配しているようすだった。
そしてむろん、あいつから最近の僕のやっていることの事情も、逐一報告を受けているのだろう。
「それは、もうやってるよ」
「もちろん知ってる。でもーーそれはすごく助かるんだけど、どうやら話を聞いてると、なんかあの子に対しては、逆の効果になってるみたいなんだよね」
僕は軽くカチンときて、だったらどうすればいいんだよ、と北島に向かって言った。すぐにそれを察したのか、ちょっと怒らないでよ、などと言い返してくる。
「有野くんには、感謝してるよ。でもーーもうちょっとうまくやらないと、サギには通用しないみたいなんだ。なんせああいう子だから。こういうのってなんだっけ。あまのじゃく、っていうの?」
僕は、あの鉄ちゃんの「放っとけよ」という、無責任極まりない言葉をーーそのときふいに思い出していた。
もちろん僕には、そうするつもりなど毛頭ない。
毛頭ないけどーーそのかわりにどうしたらいいかなど、皆目見当がつかないのだった。
でもとにかく、北島のいうとおりなのだ。僕にも鷺沢がいずれあの男と会うとしか思えないし、何かわけのわからないことにーー考えたくもないけどーー巻き込まれる可能性があるように、思えてならない。
とにかく、すべてが危険なのだ。
このとき、もう一度頭の中に、「鉄ちゃん」という言葉が点灯した。
彼ならーーあの鷺沢と、奇妙な
でも、全力で僕は、その選択肢だけは避けたいと思った。どうあっても、鉄ちゃんに頼ることだけはしたくない。
この自分が、なんとかしなければならないのだ。
僕はこのときふと思って、北島にこう聞いてみた。
「あの鷺沢の、右手首のヘンな赤い痕ってーーなんだか知ってるかな」
北島は首をかしげると、
「私もちょっと気になってたんだけど、聞いたら最近急にできたんだって。なんかの病気とかじゃないみたいでーーたぶん虫刺されかなにかじゃないか、って」
僕は、このときあの今野聖先輩の名前を、口に出そうか迷っていた。
はたして同じ箇所に、同じような時期にーー同じような虫刺されができるものだろうか?
「とにかく、北島の言うことはわかったよ。自分にできることはなんでもやる」
「うん。でもさ、どうやって?」
女っていうのはーーすぐにこうして、一足飛びに結果だけを求めたがる。で、それができない男をここぞとばかりに見下すのだ。
北島もそのとおり、何も答えずにただうつむく僕を、軽くため息をついて眺めていた。
夕暮れどきに吹く風は冷たくって、さっきまでブランコで遊んでいた子供とその母親は、とっくの昔にその姿を消していた。
3
❇︎
学大の駅から歩いて十分かかんないくらいのところに、その中古CD屋はある。
おれはアップルミュージックとかSpotifyとかのサブスクで音楽聴くのがどうも肌に合わなくてーーそんでこうやってシコシコCDをディグらなきゃいけない、そんなハメになる。まあでもそれも、もちろん好きでやってるんだけど。
最近のテーマは、坂本龍一。YMOはひととおり聴いたんでーー今度は彼のプロデュースワークをチェックしてみようと思って、手始めに大貫妙子のCDを探しにきた。タワレコでバンバン新品のCD買えればそりゃいいんだけど、そんなこづかいはないし、バイトもまだなにしようか決めかねてるし。
そういや、業スーの山上さんには、プルーン買いに行くたびに、鉄くんウチでバイトしろよ、なんてしょっちゅう誘われる。今日も学大来るまえに顔だしたらそう言われた。家からも近いし、そのうち始めるかもしんない。そうすりゃ山上さんとも気兼ねなく話せるし。最近坂本龍一にハマってます、って言ったら、だったらぜひ、フランスの印象派を聴かなきゃ、って言われた。なんでクラシックの棚もチェックしなきゃなんない。マジでこづかいいくらあっても足りない。
結局、大貫妙子の「オ」の字もドビュッシーの「ド」の字も見つからずーーおれは「サテライト」のマスターに軽く会釈して店を出ると、店の前で大きく伸びをして、これからどうしようか考えた。
腹も減ったし、マックでハンバーガーでも食ってから、久しぶりに下北のディスクユニオンにでも行こうかな、なんて考えつつ、駅に向かってぷらぷらと歩いてた。
そのとき、おれはふいに足を止めた。
視線の先に、どっかで見たことのあるアタマがある。
そのアタマはーーこれもどっかでよく見たことのある、白くて長い首の上に乗っかってた。で、その髪型は、ツヤッツヤの黒髪のおかっぱ。
床屋、いや、美容院にでもいったばっかなのか、綺麗に切りそろえられてて、ヘンなトラの絵柄が背中に描かれてる、古着っぽいちょっとイケてる水色のスウェットを着て、その下はダメージドの太めのデニムを履いて、それと厚底のスニーカー。
……ありゃ、どこからどう見ても、鷺沢だ。
その鷺沢は、通り沿いにあるオープンカフェの手前の席に座ってた。でーーその向かい側には、ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウドみたいな髪型した、ジャケパン姿でメガネかけた男が座ってる。
……つーかあいつ、何やってんだ。
その男は、ホットコーヒーをときおり口につけながら、しきりに鷺沢に語りかけてた。当の鷺沢は、その話を聞いてるのかいないのか、表情が見えないからわかんないけど、微動だにせずにその人の方を向いてる。
……おれは、そのとき軽く興味が湧いた。
そのカフェから出てくる様子が確認できつつ、視界にも入らない少し離れた電柱のウラのあたりを選ぶと、そこでしばらく待ってみることにした。ちょうど背中のリュックの中には、さっき来るときに古本屋でゲットした、文庫本が入ってる。
電柱に寄りかかってそれ読みながら、三十分くらいそこで待った。
と、ちょうど一章を読み終えたくらいで、鷺沢とその男が店から出てきた。おれは文庫を閉じてリュックにしまうと、その電柱のある角からちょうど曲がってきたような、そんなフリをして、二人が向かって歩いてくる方へと歩き出した。
ポッケに両手を突っ込みながら歩いて、偶然鷺沢と出くわしたような、そんな視線を送ると、向こうは少しハッとしたあとで、軽くうなずくとそのまま男をともなって歩いてった。歩きながら振り返るとーー同時にそのクリスティアーノ・ロナウドもこっちを振り向いてて、妙に強いような、そんな真剣なまなざしでーーこのおれを見つめ続けてた。
おれはしばらく、そのロナウドと目を合わせると、向き直った。
もう一度、「サテライト」の方まで歩きながら、なんだかいけすかねえな、って思ってた。
角の自販機のあたりでもう一度振り返ると、二人の姿は見えなかった。休日のピーカン天気の学大のこの時間は人が多くて、それも仕方ない。
おれは自販機でエビアンのボトルを買いながら、さっきのロナウドのあの表情を思い返してた。
あの目ーーいままでどこでも、夜の渋谷でも見たことのないような、そんなあの目。
それにおれは、ちょっとヤバいような、そんなものを感じてた。
その翌日の、昼休み。
おれは昨日学大で買った文庫持って、屋上に向かった。
もしいるなら、それはそれでいいし、いないならいないでそれでもいい。そのくらいの気持ちで行くと、ビンゴ、って感じでーー制服の上に黒のパーカーをフードから被った鷺沢が、いつものように手すりに寄りかかって、一人で本を読んでた。
おれはとくに声をかけるでもなく、少し離れた場所に立って、黙って持ってた本を開いて読み始めた。しばらくすると鷺沢が、
「……なに読んでるの」
って聞いてきた。
これもビンゴ、だ。
丸谷才一、って答えると、少し首をかしげたあとで、その人のなに、って聞く。
「樹影譚」
そう答えると、また軽く首をかしげたあとで、
「面白い?」
って聞いてきた。
まあまあ、そう答えると、鷺沢はなにも言わずに自分の本に視線を戻した。
それでなんとなく、場があったまった、そんな気がしたんでーー昨日、なにしてたの、って聞いてみた。
と、鷺沢は、
「……話をしてたの」
って答えた。
「なんの話」
鷺沢は、しばらく黙ったあとで、
「ずーっと、『痴漢させて欲しい』って言われ続けてたの」
って言った。
おれは黙って口を開けてーーまるでその奥の喉から首へと大きな穴が空いちまってーーヒューヒュー風が通り抜けてるような、そんな気がしながら鷺沢を見つめてた。あいつは平然と、両手で手にした文庫に目をさらし続けてる。
このとき、おれはなぜかふと、あの東横線の滝野さんのことを、思い出してた。実は先日、久しぶりに会ったばかりなんだ。
……なあ、鷺沢。
あの男は、たぶんヤバいぞ。
おれはそう言おうか迷ってた。でも、急に滝野さんの顔がまた浮かんできてーーじゃあきっと、その
しばらくお互いに無言になったあとで、唐突に鷺沢が、
「……なにかが、ヘンなの」
そう言った。
「……なにが?」
そう聞いても、鷺沢はなにも答えなかった。
❇︎
先日私は、一方的に話を聞かされただけで、なんの返答もしていなかった。なのでまた、強引に痴漢されるのかと思って身構えているとーーその憶測は外れた。
その人は、私になにもしてこなかったのだ。
私はただ、背後にその人の「存在」だけを感じながらーー黙って電車に揺られつつ、先日「自分たちの集まりに来ないか」と言われていたことを、思い返してた。
❇︎
渋谷の街、っていうのは、来るたびにいつもなにかに似てるな、って思う。
でも、それがなんなのか、ってことは、いまだになかなか思いつかない。
鷺沢さんはーーさっきから薄青いような夕闇がプラネタリウムのように包む中、たくさんの人でごった返すスクランブル交差点で、信号待ちしてる。
服装チェック。黒のライダースジャケットに、クリーム色のタートルネックのセーター。プリーツの入った茶色のスカートを履いて、同色のブーツを合わせてる。
メイクもバッチリで、とても自分のイッコ下の学年の子とは思えない。せいぜい女子大生か、なんなら幼顔でそれ以上、と言われても、べつに違和感はないくらいだ。
やがて、信号が青に変わると、それまで信号待ちしてた人々が、いっせいに動き出した。私は、いつもこの瞬間を見るのが好きだ。
この光景は、フシギと何回見ても見飽きないし、じっさいスタバの前あたりで、座ってMacBook開いたまま、ジッ、と眺め続けてることもある。
この感覚をーーなんとかコトバで表現できないかなと思って、いつも頭を巡らせてるんだけど、なかなか出てこないのだ。
それで先日ーーフダン自分の作品を公開してる小説投稿サイトで、ある人の作品を読んでたらーーふいにこんなコトバとぶつかった。
「
……あ。これじゃん。って思った。
と同時に、このコトバをチョイスした作者さんのそのセンスのよさに、つい感心しつつ嫉妬もしてしまった。
でさっそく、自分の作品でも使おうと思って試してみたんだけど、やっぱりうまくいかない。
安易に他人のコトバを表層だけ真似ても、決してうまくはいかない、ってことだ。
いまのところ、私のお気に入りナンバーワン、のそのコトバ、「擦過」を試しに広辞苑で引いてみると、
かすること。すりむくこと。
とある。
……そう。この感じだ。
私の感じる渋谷の街を、もっとも正確に、このコトバは言い現してる。
目前のスクランブル交差点を行き交う人々は、まさに「擦過」し合っている。でも、そのつどみんなが負っている「傷」のことはーーその誰一人として気づいてはいないのだ。
でも、それは知らない間に心の深い深い場所にーーまるで
そしてたぶん、いままさに、人の波の中を「擦過」し続けていく鷺沢さんも、きっとそうなのだ。
夕闇は、次第にその色を深く濃く変えていくし、週末の渋谷のこの人の多さにも助けられて、自分が彼女のあとをつけていることを気付かれるおそれはない。
そして私は、彼女がいまどこに向かっているのかも知っているのだ。
鷺沢さんは、文化村通りをもと東急百貨店のあった方に向かって歩いて行った。その歩き方は、とてもキレイだ。きちんと前を向いて、背筋がシャンと伸びている。
そんな彼女の後を追って、私も人々のあいだを次々と「擦過」しつつーー私のそのとき受ける「心の傷」は、そのつど確実にカウントされていくーー急にかゆくなってきた右手首の痕を、爪先で掻き続けていた。
#6に続く
You will be quiet 水原 治 @osamumizuhara
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