#3


     1


 隣で母さんは、終始うなだれたままでいた。

 駆けつけた警察官のうち、年配の方の一人は、女性のいる別室の方へと入っている。

 僕から事情を聞いているのは、もう少し若くて、屈強な体つきをしている方だ。

 電話の一報で、事件のあらましを聞かされた母さんは、すぐにも駅事務所まで飛んできた。最初信じがたい、といった風に、誰彼かまわずそこらにいる人に平謝りに謝ったあと、被害を受けた女性と会わせて欲しい、と頼み込んだが、すぐに止められた。

 いまは事件直後でショックを受けているだろうからーーというのが、その理由だ。

 母さんの顔は、以来ずっと青ざめていた。なんてバカなことをしたんだと、繰り返し呪文のように、僕の耳元で呪文スペルのように唱え続けている。

「……ただ、お母さん」

 そう、目の前の警察官が静かに言った。

「息子さんはさきほどから、自分のしたことを全面的に認めてらっしゃいます。反省もしているようです。あとは被害者の女性の心証次第だと思いますよ」

 ……どうやって触ったんだ、と母さんは、繰り返し小声で僕に聞いていた。何も答えずに黙っていると、服の上から、女性の臀部でんぶを複数回撫でたようです、と警察官が答えた。


 ……女性の臀部でんぶを複数回、撫でたようです。


 僕は前々から、臀部のでん、という言葉を、不思議に思っている。

 同じ尻、という言葉や、ヒップ、という言葉と同じ部位を指しているとは、とても思えない。

 そうか。僕は、あの女の、を撫でたのか。

「……これは、痴漢罪、ということになるんでしょうか」

 母さんがおずおずとそう聞いた。

「痴漢罪、という罪名はないんですよ。彼の場合は服の上からですので、都の迷惑防止条例違反、ということになりますね」

「もしそれが違ったら……つまりその……」

「その場合は不同意わいせつ罪、かつての強制わいせつ罪になります。もちろん、より罪は重くなりますよ」

 母さんは眉根を川の字ができるほどに寄せられるだけ寄せて、その顔はさらに幽霊のようになった。僕の膝や腿を、何度も叩いてたしなめる。

 何も、答えられない。

「……お母さん。でもあんまり、彼を責めてあげないでください。確かに、彼がしたことは悪いことだ。でも、、というのは、誰しもにあることなんですよ。特に彼のような年頃の年齢には」

 警官は腕組みをして言った。妙に、余裕がある。

 そのとき、女性のいる部屋から、もう一人の恰幅かっぷくのいい方の警官が出てきた。

「……息子さんの、お母さんですか」

「どうもこのたびは、重和しげかずが大変なことをしてしまいましてーー」

 母さんは慌てて飛び上がるようにパイプ椅子から立つと、深々と頭を下げた。

「……いま被害者の女性から話を聞いたんですがね。服の上から数度撫ぜられただけであるし、息子さんもどうやら、心から反省しているということでーー今回は被害届を出さない、とおっしゃってるんです」

 とたんに母さんは、両膝が顔面に来るぐらいまで頭を下げた。それから、自分にも同じようにさせる。

「……まあ、これを機に君も反省して、親孝行のつもりで勉強を頑張るんだな。君の高校も、なかなかの進学校のようじゃないか」

「……」

「……あの、これから学校に連絡がいくなんてことは……」

「息子さんを逮捕せずに済んだ以上、その必要もないでしょう。女性に、感謝してください」

 言って警官は真顔で警帽をとり、また被り直した。

 母さんはそれからも、なんとか直接女性に謝罪させてくれないかとねばったが、女性本人がかたくなにそれを拒んでいるということで、その警官を通じて伝えてもらうということで、納得したようだった。



 その日は、母さんが適当な理由をつけて、僕は学校を休んだ。

 夜のうちにはこの話は、仕事から帰った父さんの耳にさっそく入れられ、それから長い時間をかけて、こってりと絞られた。

 父さんは、確かに怒り心頭、といった様子でいた。

 が、それよりも何よりも、自分の息子がそのようなことをした、という、事実そのものにーー心から驚いている様子でいた。

 繰り返し父さんは、? と僕に聞いた。


 ……僕はむろん、正直に答えるわけもなかった。

 なぜなら、、なんて、どう考えても答えられるわけがないからだ。

 もし、そう答えたなら、じゃあお前は、どうして飯田鉄の真似なんかするんだ、とそう、聞き返してくるのに決まっている。

 

 ……あのお前の友達の飯田鉄、というのはーーそんなにおかしな奴だったか?


 鉄ちゃんの家と、僕の家とは、歩いて十分も離れていない。

 それこそ、物心ついた幼稚園の頃からーー僕は鉄ちゃんと、常に一緒にいた。

 常に一緒にいた、というのは、全然大げさな表現じゃない。僕はほんとうに、片時も離れずに、彼と一緒にいたのだ。

 お互いの家に遊びにいくのはもちろんのこと、僕は彼のしていることは、すべて同じように自分もしたい、と思ってきたし、実際にそうしてもきた。

 たとえば、彼が夏の日の駒沢公園で、汗を拭きながら美味しそうにラムネを飲んでいれば、自分も飲みたくなって飲んだ。彼が、クリスマスプレゼントにスイッチを買ってもらったなら、自分も両親にせがんで同じ色のものを真似して買った。

 彼がある日、新品の自転車で、隣町まで弁当を持って遠出をしてみる、と言い出したなら、自分もすぐに自転車を買ってもらい、その後についていったのだ。

 だから、いまリビングのソファに座り、僕の目の前で暗い顔をしている両親には、口が裂けたって言えないがーー今回のことだって、べつに何か、という感覚は、自分にはないのだった。

 なぜなら、それは、、だからだ。

 鉄ちゃんがしていることなら、自分もしたい。いや、せねばならない。

 それは、この自分にとっては、ごくごく自然な思考方法なのだ。

 小、中と同じ学区内であることから同じ公立校に行き、いざ高校進学、となったときもーー僕は考えるまでもなかった。鉄ちゃんが行く高校に、自分も行く。ただ、それだけのことだったのだ。

 そのための努力なら、惜しむことなく出来た。

 ……さっきから母さんがーー今日の駅事務所で一緒にいたときとは違う、そんな何かにような表情でーーこの僕を見つめていることに、僕は気づいていた。

 あんまりはっきりとは覚えていないけど、確か進学先を決めるとき、僕は母さんにボソッと一言、鉄ちゃんがいくからだ、と答えたような、そんな気がする。

 母さんはそのとき、半分納得するような、そして半分は心配するようなーーそんな表情を浮かべていた。


 ……なあ、重和。もう一度聞く。どうしてお前は、突然そんなことをしたんだ?


 父さんはおそらく、このことに気づいてはいない。

 でも、ひょっとしたら母さんはーー。

 ジッ、とこちらを見つめ続けている母さんに、そんな疑惑を持つと、とたんに僕は視線を合わせることが出来なくなった。脇や手のひらに、嫌な汗をかいてくる。

 

 ……ねえ、重和。あなたまさかーー今回も鉄くんの真似をしたんじゃないでしょうね?


 おそらく女親の方が、そのあたりの勘は鋭いのかもしれない。僕はいまにも母さんにそう追求されるんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしていた。

 もし、そう問われたなら、僕はいったいどう答えるだろう。

 そう。確かに僕は、鉄ちゃんの真似をした。

 彼に通学電車の中で毎朝痴漢をしていると口を割らせるのに、ずいぶん苦労したものだ。彼はそれを、なかなか白状しなかった(そりゃ、当たり前かもしれないけど)。

 いかに自分が彼とつき合いが長く、無二の親友だからといえーーそのことを理解するのには、ずいぶん時間がかかったものだ。

 いや、いまでも十分に理解しているとは、とうてい言えない。

 理解しがたい、と言えばーー僕はいまだに、あの鷺沢かなえのことを理解しているとも、とても言い難いのだ。

 鷺沢が毎朝、通学電車の中で痴漢ことを最初に発見したのはーーおそらく学校中で、この僕が最初だ。

 僕は、あいつが何者かに痴漢困っている、とそうすっかり思い込まされていた。

 よく鉄ちゃんには、そこで綺麗にあいつを助けて、いいとこを見せたかったんだろ、なんてからかわれるけど、別にそれは否定しない。確かに自分には、そういう下心があった、と思う。

 そうしていざ近寄っていったとき、僕は自分の見たものに、思わず目を疑ったのだった。

 いまでもまだまだ、そのとき受けた衝撃がおさまったとはとうてい言えない。むしろそのショックは、日々尾を引き続けている。

 そう。僕には、鷺沢かなえのことが、

 そんなある日、反対にその鷺沢を、鉄ちゃんが痴漢しなければならなくなった事件のことは、きっとみんなもう知っているだろうから、ここでは繰り返さないでおく。

 僕がその話を突然聞かされて、いったいどう思ったのかも。

 僕はそれ以来ーー鉄ちゃんとは絶交している。

 絶交しているとはいえ、僕のこれまで育て上げてきた、鉄ちゃんへの尊敬、いや、崇拝の念はーーそう簡単に消え去るわけはないのだった。むしろその感情は、いとも容易に、強い嫉妬、そしてへと反転した。

 そもそも、なぜ、あの鉄ちゃんだけに、鷺沢を痴漢できる資格が与えられたのだろうか?

 ……僕にはとうてい、納得がいかない。

 確かに、鉄ちゃんは僕らの学年中で一番のイケメンと言われてる。僕はそれを肯定こそすれ、否定なんかしない。

 僕はイケメンなんかからは程遠いルックスの持ち主だし、イケメンが日々考えていることや、彼らがイケメンであるがゆえに享受できることなど、まったく想像すらつかない。

 想像すらつかないが、果たして世のイケメン全員が、ただイケメンであるというそのことだけでーーあの鷺沢から痴漢できる資格、などというものを与えられるものなのだろうか?

 鉄ちゃんは、鷺沢から頼まれた、というその話をひととおり僕に伝えると、これを機会に(つまりは、ひとえにこの僕のために?)、あいつがいったい全体どんな女なのか、確かめてやるんだと、そう告げた。

 僕には、その話は最初の最初から眉唾ものだったのだ。

 その鉄ちゃんによる痴漢決行前後の日々を、僕は最低最悪の精神状態のうちに、悶々と過ごした。

 そのことは、きっとわかってもらえるだろうと思う。

 その間にも、僕はこの問題を徹底的に考え抜いたのだ。鉄ちゃんは、おそらくただ、イケメンであるがゆえに、鷺沢を痴漢できるわけでは決してない、と。

 きっと必ず、他になにか理由があるはずだ、と。

 そうしてある日、僕は彼を呼び出して問いつめ、ついに白状させた、というわけだ。

 白状させたはいいが、そのおかげで、もう一つ別の大きな問題がーー僕の前に浮かびあがることになったのだ。

 それならあの二人は、いったいだというのか?

 お互いを痴漢しあう、なんていう関係は……。

 それに気がついたとき、僕の焦りは、その頂点に達した。

 すると不思議なことに、これまでの鉄ちゃんのすべてを模倣したい、という自分の欲望の火に、さらに油を注ぐ結果になったのだ。

 僕もぜひーー鉄ちゃんが電車内でやっていることを、追体験してみる必要がある。

 それも、、だ。

 なぜならそうすれば、自分もまた、イケメンではないにせよ、鷺沢から選ばれる資格を有することになるのかもしれないからだった。

 その決行の日、つまり、それは今日の朝だが、僕は普段乗っている電車を一本ズラして乗り込んだ。そしてその混み具合は想像以上だった。

 ぎゅうぎゅう詰めの中、僕はすぐ隣にいる女性に、狙いを定めた。

 年齢は、たぶん二十代前半ぐらいだったと思う。ごくごく普通の、なんの変哲もない女性だった。

 ……なんの、変哲もない女性。

 その女性からは、電車を降りた時点で腕をつかまれ、近くにいた駅員の前に連れていかれた。とたんに周囲から、好奇の視線を痛いほどに浴びる。

 顔から火が出る、というのは、まさにこういうことか、と思った。それと同時に僕は、何か非常になものを感じていたのだ。


 ……あまりに、みじめだった。

 これでは、鉄ちゃんとの差が、あまりにもありすぎるじゃないか。

 このときだったのだ。僕の中にはっきりとーー鉄ちゃんに対抗する、そんな気持ちが芽生えたのは。

 それは自分自身でも、ちょっと意外なことだった。

 これまで僕の中で鉄ちゃんは、憧憬の対象でこそあれ、決して歯向かったり、反発してみせるような、そんな相手ではなかったのだから。

 とはいえ、この感情はもう、とうてい押さえつけて見過ごしておけるような、そんなしろものではなくなっていた。

 ……なんとしてでも、どんな方法を使ってもーー僕は鉄ちゃんを越えてみせねばならない。

 そうでもしなければ、この僕が鷺沢のことを手にいれるなんて、夢のまた夢にちがいないだろうから。

 でも、そのためにはいったい、何をどうしたらいいというのだろうか。

 そんな風に、ひたすら思いを巡らす日々がーーこの日を境にして始まった、というわけだ。


     2


 十一月も終わりに近づき、肌寒さが増してきていた。

 晴天の青空のもと、僕は自宅を出ると、等々力駅から大井町線に乗った。

 それから自由が丘で、いつも通り東横線に乗り換える。

 鉄ちゃんも当然、どこかの車両に乗っているか、あるいは違う電車に乗ってくるのかしているんだろうけど、よくはわからない。

 最近は、通学のときに見かけることが、まったくなくなったのだ。

 それには、いろいろな理由が、考えられる。

 もっとも、いまは絶交中なのだから、会ったところで自分から声をかけることはないんだけど。 

 渋谷方面の電車が、ホームにすべり込んでくる。

 僕は今日もーーある決まった車両の扉から、その中に乗り込んだ。

 もちろん、その理由はーー鷺沢かなえがいつも、その車両にいるからだ。

 しごく当然のように、今日も鷺沢は、つり革を握りしめて横顔をこちらに向けていた。

 窓から入る、朝の透明で新鮮な、そんな光を浴びている。

 僕も、いつもの長椅子脇の、隅の場所に陣取る。

 すると決まって、僕の胸はいつも、自然とある期待、そして不安とで高鳴ってくるのだった。

 僕はこのところ、毎日のように、なるべく向こうにさとられないよう、彼女の観察をこうして続けている。

 それも、例の鉄ちゃんの一件いらいーーその熱意はいや増しに増してしまうことになっていた。

 さとられないように、とは言ったが、実際のところどうなのか、というのは、ちょっと心許ない。

 なにしろ僕は、鷺沢と言葉を交わしたこともないからだ。

 なので、その確認のしようがない。

 毎朝必ず顔を見る、同じ学校の男子生徒が今日もいるな、くらいの認識は、もしかしたらしているのかもしれない。

 その男子が、毎朝私の行動を監視しているな、くらいの認識までは至っていない、ということを祈るしかない。

 鉄ちゃんと鷺沢の関係については、ご承知の通りだ。でも、鷺沢はおそらく、僕と鉄ちゃんが友人同士である、ということは、いまだ知らないはずなのだ。

 僕は高校では、それほど鉄ちゃんと共に過ごしているわけじゃない。というか、まったくと言っていいほど、ない。

 そもそもクラスも違うし、お互いに別の友人もいる。

 いま現在みたいに、絶交する以前でも、むしろあえて言葉は交わさない、そんなことの方が多かった。

 幼馴染だけに、その関係が学校、という空間に持ち込まれると、妙な気恥ずかしさがあるのだった。

 だから必然的に、鷺沢と鉄ちゃんとのあいだに僕が入っていくこともなければ、鉄ちゃんがわざわざ僕のことを鷺沢に紹介する必要もきっとないだろうから、彼女は僕たちの関係を知るはずがない、という推測になるわけなのだ。

 ……でも正直、知らないままの方が、比較されないぶんだけいいかもしれない、と思う。

 そんなことを考えつつ、今日も僕は、対面の隅あたりにいる、鷺沢の横顔を見つめ続けていた。

 朝の光が、彼女の横顔の輪郭を、これ以上ないくらいにくっきりと、立体的に黄金色に、まるで美術の教科書にのっているダヴィンチの絵みたいに、浮かび上がらせている。


 ……ああ。可愛い。

 あまりに、可愛すぎる。


 僕はあらためて、この日の鷺沢に見とれてしまっていた。

 こんな女子には、今まで出会ったことがない。

 まるで奇跡のようだ、とすら思うのだ。

 そして、今後もう二度と、出会うこともないんじゃないだろうかーー。

 そう、強く考えるにつけ、当の鉄ちゃんへの嫉妬がーーまた激しく身のうちにぶり返してくるのだった。

 なぜなら彼は、まさにそんな鷺沢の体を、思うがままにできるというのだから。

 ちょっと信じがたいような、そんな気さえするのだ。

 僕はあの事件当日、学校をズル休みした。当然だ。行けるはずなんてない。

 別の車両に乗っていたってーーいや、その日に同じ東横線に乗る、ということすら、全力で拒否したい、そんな気分だった。

 僕はベッドの布団にもぐり込んで、あの二人がおそらく邂逅かいこうしているだろう、当該の時間のあいだ中、それこそ七転八倒の思いで、輾転反側てんてんはんそくしていた。

 首をかきむしり、動物に近いような、そんな低いうなり声をあげた。

 風邪をひいたと嘘をつき、心配になって様子を見にきた母さんに、そのうなり声を少し聞かれてしまった。僕はなんでもない、と答えて、額の上に手をのせようとする母さんを部屋から追い出した。

 ……ああ。いままさに鉄ちゃんが、鷺沢の体を

 、なんていう言葉は、強すぎるのだろうか? いや、決してそんなことはない。

 正直僕は、鉄ちゃんの「性癖」について、詳しく聞いた覚えはない。

 彼がどんなことに興奮して、どんな風に女の子の体を扱うのかーーいや、というか、本心からいうけど、そもそも、ということすら、それまで自分は想像したことがなかったのだ。

 彼はもともと、二人で話をしているときでも、あまりそういう会話を好む方ではなかった。好まない以上、自分からその手の話を持ち出すこともためらわれる。

 普段はじゃあ、なんの話をしているのか、というと、別になんということもない、とりとめもない話だ。鉄ちゃんの好きな音楽の話だったり、学校生活全般の話だったり、あとはお互いの将来についての話だったりする。それとたまに鉄ちゃんの知り合いの(どうして知り合いなのか、皆目見当もつかないが)業務スーパーの誰それって店長から聞いた話だったりする。

 鉄ちゃんは本を読むのも好きなので、最近読んで面白かった本、の話だったりもした。

 勧められて、あるとき村上龍、という人の本を、単純に彼への対抗心から一応最後まで読み通してみたが、僕にはよく理解できなかった。

 それよりも何よりも、特筆しなければならないのは、その内容だ。

 その内容こそが、僕にある種のヒント、いや、もっと大げさに言えば、ある種の覚醒、をもたらしてくれたのだ。

 鉄ちゃんは、こんな内容の本を良い、面白い、と思うのか、と。

 より正確に言えば、思う、と。

 とにかく、僕には、ものすごく意外なことだったのだ。

 確かに、もちろん、学年一のイケメンである鉄ちゃんには、学内でもさまざまな噂が飛び交ってる。

 小学校六年のときに、すでに20歳年上の女性と童貞喪失を済ませている、だとか、あるいは入学からこれまでに、学年の女子とセックスした人数は、両手指でも足りないだとかーー。

 全力でいまだ童貞の僕には、ほとんどそれらのエピソードは、ギリシャ神話に出てくる神々ディヴァインズのたぐいの話のようにしか聞こえなかった。

 その真実がどうなのか、ということを僕は知らないし、別に知りたいとも思わない。

 鉄ちゃんは確かに、普段夜の渋谷でたむろしているような連中とも親しいようだから、十分ありえることではある。

 でも、僕にとっての鉄ちゃんはーーそれらすべてのイメージとは異なるのだ。

 妹が一人いるだけで、男兄弟のいない自分にとり、同年齢の兄のような、そんな存在なのだ。

 自分のどんな相談にも親身にのってくれ、いつなんどきでも、必ず自分の味方になってくれる。そんな存在。

  そんな鉄ちゃんが、村上龍のような小説を好んで読み、通学中の車両で痴漢する癖があった、と聞かされたときのショックを、これでぜひ、わかって欲しい。

 そして、そんな彼が、では、どうやって鷺沢の体を扱うのだろうか、という危惧も。

 僕の布団の中での苦悩は、およそ頂点を迎え、もう耐え難いまでになっていた。

 それと同時に、僕は、自分の体のある一部がーー極端に変化していることにも、十分に気づいていた。

 つまり、そのとき僕の性器ものは、これ以上ないくらいに、激しくしていたのだ。

 僕の脳内では、鉄ちゃんの愛撫にいちいち素直に、かつ鋭くも従順に反応する鷺沢のイメージが、まさに極彩色の絵巻物のようになって、めくるめく展開されていた。

 僕はたまらず、着ていたパジャマのズボンを下ろすと、これ以上ないくらいに痛いほどそそり立った陰茎を右手で握りしめた。

 このまま手淫をし、果てることがーーでも強烈にためらわれた。それこそ、鉄ちゃんに対する敗北宣言以外のなにものでもない。

 でも、僕の右手の上下運動は、悲しいことに、まるで永久運動機関のように、止めることができないのだった。いつしか脳内のイメージからは鉄ちゃんは綺麗に排除され、全裸になった鷺沢のみになっていたが。

 その鷺沢はーーいつしか他の乗客の誰もいない、がらんどうの電車の中で、一人全裸でつり革を握り、学生鞄を持ち、全身に日の光を浴びて立っていた。

 僕は、その鷺沢に、ゆっくりと近づいていく。

 制服を着ているときは、非常に細身に見えるのに、全裸の鷺沢は、魅力的に肉感的だ。

 そしていつものように、すました横顔をこちらに向けている。

 その瞬間、僕は爆ぜ、大量の射精をしていた。



 ……電車の車両の一揺れで、僕は我に返った。

 さっきまでいた、鷺沢の姿が見当たらない。

 ……おかしい。あの扉ぎわの、隅のところにいたのに?

 僕は軽いパニックのようになって、その場で伸びをしたり、目を凝らしたりしてその姿を探した。周囲から、不審なような視線を浴びる。

 でも、いない。

 どうしてだ。

 そのときだった。

 僕はハッとして、目を見開いた。

 ……わかった。

 また、始まったのだ。


 ……何が?

 鷺沢の、痴漢が。


 僕はもう一度、さっき鷺沢がいたあたりを確認してみた。と、そこに、長髪の一人の男がーーこちらに背を向けて立っていることに気づいた。

 僕はその付近に向けて角度を二十度くらいつけるように、体を動かしてみた。と、鷺沢のおかっぱの黒髪が、わずかに見える。

 その長髪の男が、鷺沢を覆い隠している形になっているため、その姿を見失っていたのだ。

 僕の心臓が、急に激しい拍動を始めた。

 まずは、いつも通りの失望だ。

 それも、強い強い、失望。絶望、とさえ言ってもいい。

 はっきり、言ってしまおう。僕は、鷺沢のことが好きだ。

 その鷺沢が、目の前で見知らぬ男に痴漢をしている。

 この事態には、これまで十分に慣れてきたつもりだった。実際、慣れてもいる。

 初めてそれを目撃した時のショックとは、比較にならない。

 ならないが、でもどうしても、強いわだかまり、というかーー受け入れがたさが残るのだった。

 それと同時に、もう一つの現象が、光の速さよりも速く、起こっていた。

 つまり、僕のものはーーまたしてもこれ以上ないくらいに硬く、勃起しているのだ。

 僕は、興奮していた。いま現在、渋谷方面に向かって一定の加速度で進んでいる、いくつも連結された鉄の箱の中に乗っている、何百人何千人の人々のうちで、いったいどれだけの人が、いまの僕と同じくらいに性的に興奮しているだろう。

 すました顔でいるのが、非常に辛かった。

 さっきから、男と鷺沢は微動だにしていない。男は右手で角にある縦型の手すりを持ち、左手で正面の扉に壁ドンするようにして、完全に鷺沢を覆いかくしている。

 その下半身のあたりでは、いったい何が行われているのか。

 いまにも頭が狂いそうだった。お願いだから、もうやめてくれないか。

 それと同時に、こんなことも思っていた。

 僕は、実はまた意識のどこかで、鷺沢がこうして痴漢を始めるのを望んでいるのではないのだろうか。

 そのことに、非常な背徳感を覚える。

 もちろん、今現在目の前で展開されている映像は、僕の脳内のハードディスクに漏れなく記録されている。

 そしてそれを持ち帰り、ゆくりなく自慰マスターベーションすることも、もうお決まりなのだ。

 僕は全身を無力感のようなもので浸されながら、自然といま、鷺沢の指で愛撫を受けているだろう大柄な男の方に、意識を向けた。

 うっすら茶色に染められた長髪が肩まであり、羽織っている黒シャツの背中には、ドクロのような絵柄とHell's Angelsと孤に書かれている文字が見える。


 ……Hell's Angels。


 僕は心のうちで何度も繰り返し、ため息をついた。

 ひどく長い時間が過ぎたように思った。しかし物事というものには、必ず終わりが来るのだ。

 電車が停車して扉が開くと、鷺沢は身を翻すようにして車両から降り、そのまま他の生徒に混じるようにして行ってしまった。

 その男は名残惜しそうに、二、三歩あとを追っている。ようやくその全身を確認することができたが、ダボダボのGパンをはき、尻のポケットにささった分厚い長財布には、ドクロがいくつも連なったチェーンがつけられている。両手首にも似たようなシルバーアクセがつけられている。

 大ぶりの茶のサングラスをつけ、色の悪い荒れた肌の顔には無精髭が生えていた。

 このとき、僕の中に、ある奇妙な衝動が訪れていた。


 ……この男に、声をかけるのだ。

 

 これまでにも、何人もの鷺沢の相手に出会ってきたが、ゆめゆめそんなことを考えたことはなかった。

 普通だったら、おそらくしないだろう。

 でも、いまの自分には、鉄ちゃんへの対抗心があった。自分は、どうしても大きく開いたままの鉄ちゃんとの差を、埋めねばならないのだ。

 もしそうなら、彼もきっとしないだろうことを進んでしなければ、平然とできなければ、お話にならない。

 とにかくあの男を、このまま行かせてはならないのだ。

 僕は半分夢を見ているようなそんな気持ちで、その男に近づき、すいません、と背後から声をかけた。

 男は、一瞬ビクッ、として見せたが、やがてその声の主が僕であることを認めると、

「あ?」

 と低い声で応じた。

 開口一番、

「いま、何をされていたんですか」

 と聞いた。

 見ると、その男の太い右腕の上着の袖からタトゥーがのぞいている。

「……んだお前」

 僕はハッとして息を飲んだ。

「お前、さっきのと知り合いなのか」

 いえ、違います、そう僕は答えていた。それは嘘じゃない。知り合い、と呼べるほどの間柄じゃない。

「だったら何なんだよ」

 男はがぜん苛立たしそうに、舌打ちを絡めてそう凄んできた。 

 自分でも、急によくわからなくなっていた。確かに自分は、いったいこの男に何を聞こうとしていたのだろう。

 まさかーー鷺沢に触られて気持ち良かったですか、などと聞こうとしていたのだろうか。

「……お前、さっきのと同じ学校なんだろ」

 男はそう聞いてきた。

「ラインとか知ってんだったら、いま教えろ」

 ……よりによって何でこんな男を、そう強く思わざるを得ない。

 もとより鷺沢はスマホを持っていない。そのことは、鉄ちゃんから聞いて知っているので、ラインもヘチマもないのだ。

「いや、わかりません」

 そう答えると、男はさらに苛立たしそうに眉根を寄せた。

「……つーかお前、何で声かけてきたんだよ。え? お前あいつと付き合ってんのか。そんで俺に文句つけようってか、ああ?」

 一方的に凄まれている僕を、他の生徒が心配そうに、でも全力で関わり合いにならないようにと、遠巻きに眺めていく。

 僕は何も答えられなくなっていた。

 そのとき、有野、という声が、どこかから聞こえた。

 振り返ると、鉄ちゃんだった。

 鉄ちゃんは歩きながら、

「お前何やってんだよ、遅れるぞ」

 とそう言って、自然に僕の腕を引いた。

 あ、おい、と声を上げる男を置いて、僕たちは足早に高校に向かう生徒たちの波にうまく紛れ込んだ。



「……あいつと何やってたんだよ」

 並んで学校に向かって歩きながら、そう聞く鉄ちゃんに対して僕は素直に答えたくなかった。

「絡まれてたのか。いったい何やったんだ」

 何よりもーー鉄ちゃんに助けられた、という事実を、認めたくない。

 二人で交差点の信号が変わるのを待ちながら、鉄ちゃんはリュックの中からプルーンの袋を取り出すと、中から一つ取って口に放り込み、僕に向かって袋を差し出した。

 僕は受け取らなかった。

「鷺沢が、また痴漢してたんだ」

 言うと鉄ちゃんは、急に呆れ顔になった。

 お前まだ、あの鷺沢のこと気にしてるのか? 続けてそう言われるかと思って身構えていたのだが、鉄ちゃんは意外にも、何も言わなかった。

 その代わり、

「お前またどうせーー興奮してたんだろ」

 そう茶化してきた。

 信号が、赤から青に変わる。僕たちは歩き出す。

「なあ、鉄ちゃん。これは冗談じゃないんだよ」

 僕はいきおいそう答えた。

「何が」

「何が、ってーーさっきの男を見たろう?」

 なんだかやからっぽいのだったな。鉄ちゃんはプルーンを口でもぐもぐさせながら言った。と、少し離れた場所を、よく見かける鉄ちゃんの追っかけのような女子生徒が二人ーー互いに何かひそひそつぶやきながら歩いていく。

 僕は、心のうちで舌打ちした。

「あんな男に痴漢なんかしてーー鉄ちゃんは危険だとは思わないのか?」

「だから俺はすでに、言ったはずだろ。あいつはやめとけ、って」

 ねえねえ、ほんとにプルーン食べてるー、などとはしゃぎながら言い合っている女子二人を、鉄ちゃんは袋に手を突っ込んだまま眺めている。

「いや、自分がやめるやめないじゃないんだよ。これは鷺沢自身の問題なんだ」

「……鷺沢自身の問題なら、文字どおりそれは、鷺沢自身の問題だろ。俺たちが、どうこう言えるようなことなのか」

 そう涼しげに、鉄ちゃんは切り返してきた。とたんに何も言えなくなる。

「……だいたい、鉄ちゃんだってそうだよ。痴漢する相手がいったいどんな素性の女なのか、わかったもんじゃない」

 彼は残りわずかになったプルーンの袋にすました顔で輪ゴムをかけている。

「……僕に一つ、考えがあるんだ。聞いてくれないか」

 そう僕は言った。

「なんだよ、考えって」

「一度鷺沢に、自分から話をしてみたいんだ。今日みたいなことはもうやめろ、って」

 一瞬鉄ちゃんは、ぎょっとした顔をした。そして即座に、

「やめとけよ」

 と答えた。

「たぶんーー相当嫌がると思う」

 構わない。そう僕も、対抗するように即答した。

「それより何より、あんなことをやめさせる方が先決なんだ」

 僕はここまで鉄ちゃんと交わしてきた会話の内容を、頭の中で反芻していた。そして自分でも驚いた。

 こんな丁々発止の言い合いをーー僕はこれまで、彼と交わしたことはなかったのだ。

 いつも一方的に、彼が言うことを聞いているだけだった。

 その内容が、鷺沢に関することだから、ということも、きっとあるだろう。

 それでも僕は、身のうちに自信が湧き上がってくるのを感じていた。

「だったら、勝手にしろよ」

 鉄ちゃんはちらりと僕を見ると言った。

「……いいのか?」

 俺にいちいち確認することでもないだろ。そう言いながら鉄ちゃんは笑う。

「自分でそうしたい、と思うなら、誰かれに遠慮なく、すればいいんだ。その代わり、何がどうなっても俺は知らないけどな。その責任は、全部自分で取るんだぞ」


     3


 鷺沢は毎放課、友人の北島舞と図書室に行って話している、ということは、生徒のあいだでも有名だ。

 僕は三限目が終わると、その図書室へと行ってみることにした。

 そうは決めたもののーーいざそうしようとすると、激しい緊張にかられた。なにせ僕は、これまでまともに、鷺沢と話をしたことなどなかったのだ。

 校舎の三階にある図書室の扉を開けて中に入ると、右側に職員の女性がいる事務室がある。床には毛羽立ったグリーンの絨毯が敷かれ、正面の薄暗い空間に古びた書架が並んでいる。

 そこを右手に曲がったところに、自習机が窓際にいくつか置かれてあった。

 見ると北島と鷺沢が、その隅の四人がけの机に、窓から入る光を浴びながら座って、何やら話し込んでいた。

「……鷺沢」

 僕はその机に早足で近づいていくと、そう声をかけた。

 早足でそうしたのは、ゆっくり行ってしまうと、中途でその気が無くなってしまうのを恐れたからだ。

 二人は、同時に顔をこちらに向けた。僕は一瞬息が詰まりそうになった。

「何?」

 僕は鷺沢、と声をかけたのに、北島の方が妙に部屋に響くような大きな声でそう聞いてきた。当の鷺沢は、手元に置いてある一冊の文庫本に視線を向け直すと、手にとって眺めている。

 その表紙には、「ティファニーで朝食を」とあった。

 僕は前置きも何もなく、

「昼休みに、屋上に来てくれないか」

 とそう言った。

 二人は、きょとんとして顔を見合わせた。 

「……え、なんで」

 またしても、北島が代わりにそう聞いた。鷺沢は、借りたばかりらしいその文庫のページをくって眺めている。

「少し、話があるんだ」

 仕方なく、そう北島に向かって言い、また鷺沢を見た。いまの自分の話を聞いているのかいないのか、

「ねえ、これ面白いかなあ」

 などと、関係ないことを北島に向かって言っている。

 僕はとたんに顔が火照ってきたように思った。

「話って、なんの話?」

 三たび、北島。

「それは、その時話すよ」

 この目の前の女子二人と、何か見えない膜のようなもので遮蔽されているような、そんな気分になっていた。

「……あのさ。なんの話かわからないのに、わざわざ屋上に呼び出される筋合いなんてないんじゃない」 

 北島が、なにか見透かすような、そんな口調でそう言った。

 正直なところ僕は、ここでいまこうしていることを後悔し始めていた。僕が次何をいうか、冷ややかな視線で見ながら待っている。

 一秒が、一分にも十分にも一時間にも思える。

 手のひらに汗をかき、全身の毛穴が開いたように思う。

 鷺沢の痴漢の件を、この場で言い出すことはやめておこう、とだけは決めていた。そうである以上、他に何か言わねばならなかった。何か、彼女らを動かすような、そんな説得力のある言葉を。

 でも、とたんに頭が真っ白になって、何も浮かんでこない。

「……お願いだから、来てくれ」

 北島が、呆れたように鼻で笑った。

「だからあ。そんなんじゃ、女の子を呼び出す理由になんてなんないってば」

 北島はそう言って、ほらサギ、行こっ、とうながして、去ろうとした。

 鷺沢も、本を持って立ち上がろうとする。

「頼む! どうしてもしたい話があるんだ。なんなら学校の帰りにどっかで待ち合わせてもいい」

「……そんなの、余計ムリに決まってんじゃん」

 北島が、即座にそう苦笑いしながら突っ込んでくる。僕は矢も盾もたまらず、その場に土下座していた。

 頼む! ともう一度繰り返すと、事務室から職員が出てきて鷺沢に、なに、どうかした? と聞いた。

 ちょっとやめなー、と北島が叫ぶ。

「……ねえ、どうする」

 そう北島が、鷺沢に呟いているのが聞こえていた。なあにちょっとそんなことして、と職員が声を上げている。

「まあ、別にいいけど」

 そう答えるのが耳に入った。

 頭を上げると、

「じゃあ、私もついてったげる」

 と北島が余計なことを言った。

「いや、一人で来て欲しいんだ」

「……ちょっとあんたさあ、超ずうずうしいよ。頭下げりゃいいってもんじゃーー」

「いいよ、別に」

 そう鷺沢は言うと、お昼食べたら、屋上に行けばいいんでしょ、と僕に言った。同時に授業開始のベルが鳴る。

「ほらあなたたち、早く教室に戻りなさい」

 信子先生、と二人から呼ばれている職員の女性が言った。

「ヤバい、ほらサギ、行くよ」

 言って北島は鷺沢の背中を押した。そうしながらも、北島はこの僕の顔を疑わしげにじっと眺め続けていた。



 緊張のあまり、昼食の弁当もまったく喉を通らなかった。 

 僕はほとんど手をつけないままフタを閉じてカバンにしまい込むと、席を立った。

 屋上に続く階段に向かう途中も、ちょっと信じがたいような、そんな気分だった。

 あの鷺沢とーーついにこれから、二人で話ができるのだ。

 するととたんに、浮き足立つ気持ちに冷や水をかけるように、鉄ちゃんの言っていたことを思い出した。


 ……何がどうなっても俺は知らないけどな。その責任は、全部自分で取るんだぞ。

 そんな責任くらい、いくらでもとってやるさ。

 何よりも、自分のこれからしようとしていることはのだから。

 はやる心をひたすらに抑えて、屋上へと階段を駆け上がった。まるでいまにも言葉が溢れ出てきそうだ。

 4階からさらに上がり、正面の鉄の扉を開けると、青空の見える視界の中には誰もいなかった。

 これは、好都合だ。あとは鷺沢がくるのを待っていればーー。

 そう思って右手を見ると、当の本人がいた。

 屋上の手すりにもたれて、こちらに背を向け文庫本を読んでいる。

 さっき、図書室で借りていた本だろうか。

 スキマ時間に、「ティファニーで朝食を」というタイトルで検索してみた。でもそもそも、そのタイトルも、その本を書いたらしい、メガネをかけた小柄な外人の作家のことも、僕はまったく知らなかった。

 アマゾンで速攻同じ本をポチっておいたけど、読むかどうかはわからない。

 そんなことより何より、十一月の少し冷たい微風に吹かれながら、そうやって一人で本を読んでいる鷺沢の姿に、僕はもう釘付けになっていた。

 制服のスカートが軽くはためいて、太腿の血色の良い肌があらわになっている。

 つい僕は、湧き出てくる唾を飲み込んだ。

 とたんに妙な気分になってくる自分が怖くて、それを打ち消すつもりで、

「鷺沢」

 と声をかけてみた。

 彼女が、振り向いた。

 その時の表情をーー僕は今後の人生において、決して忘れないだろうと思う。

 頭がどうにかなってしまいそうなほどに可愛かった。いや、美しかった。 

 鷺沢は本を閉じると、こちらに体を向けて近づいてくる僕を見、何を言うか待っていた。

 僕はつい、

「自分と付き合ってください」

 と口走りたくなる気持ちを抑えるのに、精一杯だった。

 注意深く適度な距離を取り、僕たちは向かい合った。鷺沢が、軽く目をそらす。

 急に何かが空白ブランクになったような、そんな気がして不安になり、僕は慌てて、

「今朝のことなんだけど」

 と言ってみた。

 鷺沢は、真顔で僕の顔を見つめていた。

 その目の力は、ちょっとこちらがうろたえてくるほどだけど、一方で僕には「正義感」という強い裏打ちがあったのだ。

 そうである以上、僕にはその視線に負けないほどの力が湧いていた。決して自分は、無意味なことをしているわけではない。

「……見ちゃったんだよ。今日、君がしていたことを」

 そう続けた。もちろん、鷺沢の行為を見たのは今日が初めてじゃない。でも、そこはあえて触れずにおく。

「……それで?」

 そう、鷺沢は言った。

 まるでいくつもの透明なガラス玉が、床の上に次々とこぼれ落ちていくような、そんな声で。

 僕は緊張で幾度か咳払いした。

「相手の男はーーいったいどんなやつだか、見てわからなかったのか? きっとチンピラとかーー半グレみたいなやつさ。そんな男にあんなことをしたら、いったいどんなことになるか……」

「だから?」

 鷺沢は言った。

 なんと言えばいいのか、その? はーー奇妙に力強い。

 こう言ってよければ、まるで倫理の教科書に出てくる、石膏像になっている哲学者の言葉のようだ。

「……だっ、だから……ああいうことはもう……やめたほうがいいんじゃないかって……」

 ついそうおずおずと続けてしまった僕を、鷺沢はとたんに退屈そうな、そんな顔で見つめていた。

 まるで、楽しみにして観にきた映画があまりにもつまらないことが序盤のうちに判明し、かつ、どうして自分はいま、ポップコーンなどという、凡庸極まりないものを好きこのんで食べているのか、ということにも気づかされてしまった、そんな感じで。

 そのとき、彼女の着ている制服の袖から、右手首のあたりに何か赤い掻き痕のようなものがあるのが見えた。

 僕には、それが少し気になった。

「ねえ。思うんだけど」

 鷺沢はそう言って、僕に背を向けると屋上の手すりにそい、四、五メートルほど歩いていった。

「えっと。名前なんていうんだっけ」

 有野。有野、重和。

「有野くんはさ。私にああいうことするの、やめさせたいんだよね」

「そっ、そうだよ」

「だったら、

「えっ?」

 僕の思考が一瞬、停止フリーズした。

「どっ、どういうことだよ」

「言葉の通りじゃない。あなたは、私がしていることをやめさせたがっている。だったらどうぞ、やめさせてみてください」

「……」

 言っていることが、まったく理解できない。

 この子はいったい、何を言っているんだ。

「だからーーやめろ、ってさっきから言ってるじゃないか」

「いやよ、って答えたら?」

 僕は、そのまま呆然として、鷺沢と目を合わせ続けていた。

「じゃあ……いったいどうすりゃいいんだ?」

「そんなこと、自分で考えたら」

 言って鷺沢は、手すりに寄りかかり、足元のブロックに右足をかけ、もう一度文庫本を開いて読み始めた。

 、そんな様子で、これ以上、何を言っても一言も返してこないだろうことがありありとわかる、そんな感じで。

 僕は、今まで覚えたことのないような、強烈な敗北感に打たれていた。

 そして右手で本のページを繰っている、その鷺沢の手首の赤い痕跡をーーただじっと見つめていた。


     4


 見上げると、夕闇の迫る秋の空に二匹のカラスが飛んで、しきりにその鳴き声が響いていた。

 それがさっきから、どうやっても、としか聞こえない。

 僕は、足元にあった石ころを蹴っ飛ばして、東横線の駅に帰り道を急いだ。

 その間、鷺沢に今日の昼休みに言われたことを、ひたすら繰り返し反芻していた。

 

 ……なんというか、まるでをかけられたような、そんな気分だ。

 こういうのを、なんというんだっけ。

 ……そうだ。、だ。

 

 痴漢なんてやめろ、と言ったら、だったらやめさせてみろ、と言われる。で、やめろ、とまた言ったら、いやよ、と返される。

 帰りの電車に乗ってるあいだ中、その問題を考え続けた僕の足は、等々力駅を出ると、その悔しい思いをひた隠しにしつつ、自然と鉄ちゃんの家へと向かっていた。

 インターフォンで呼び出され、三階建てのマンションの自宅から、タイトなアディダスの三本ラインのズボンを履き、シュープリームの黒パーカーを着た鉄ちゃんが降りてきた。

 彼は両手いっぱいに「ハッピーターン」を持っていて、その半分を僕に押し付けた。

「……だから言ったじゃないか。そんなことやめとけ、って」

 マンションのエントランスを出た、植え込みのあたりに二人で並んで腰掛けた。鉄ちゃんは、手についた「ハッピーターン」の粉を叩いて払っている。

 僕は鷺沢に言われたことを、そのまま話した。

 ……でもまるで、納得がいかない。

 もちろん、この僕にだってーー例えば鷺沢のあの言葉を字義通り受け取って、あいつの痴漢の現場でその手をとってひねり上げ、はい、やめさせました、なんてことをするのはあまりに愚かなことだ、くらいはわかっている。

「要するにさ」

 黒のビーサンを履いた足を組んだ鉄ちゃんが、頭を掻きながら言う。

「……そうだな、例えばじゃあ、いまアメリカで大活躍中の、あの大谷にーーお前、これからスタスタと近寄っていって、『いますぐ野球をやめてください』なんて言えるか?」

「……」

「要するに、そういうことじゃないか」

 まったく、そういうことだなんて思えない。

 だいたい、いくら野球に打ち込んだところで、大谷選手がある日、なんらかの危険にさらされるかもしれない、なんてことはないだろう。

「……なあ。そもそも鷺沢は、なんであんなことをしてるんだ? もしかしてなにか、理由でもあるんじゃないのか。鉄ちゃんはそのことを知らないか」

 ……んなこた知らね、と鉄ちゃんは、あらぬところを見ながらいう。

 そのとき、なぜかふと、僕は鷺沢の右手にあった、あの赤い紋様のような掻き痕のことを思い出していた。

「それに、自分のしたことの始末くらい自分でつけろ、って俺言ったよな」

「わかってるよ、そのくらい」

「それと、もう一つ」

 言って鉄ちゃんは真顔になると、僕の左肩を鷲掴んだ。

「俺はお前の幼馴染で、昔っからの親友だよな。そのお前がーーあいつのストーカーみたいになって、みっともないような真似をするのは見たくないぞ」

 ストーカーなんて言わずに、って言ってくれ。そう僕は、ひそかに思う。

 そういえば、とさらに思った。

 鉄ちゃんは、僕が彼の真似をして、警察に逮捕されそうになったことを知らないのだった。

 鉄ちゃんと別れ、自宅に帰ると、ご飯よ、と僕の背中に向かっていう母さんの声を無視して階段を駆け上がり、部屋に入ると鞄を放り投げてベッドの上に寝転がった。

 僕は即座に、履いていたズボンを引き下ろした。すでにギンギンにいきり立っている自分のものを強く握りしめる。

 と、階段の下から、中学一年の妹のまりが、お兄ちゃんご飯、と叫んでいるのが聞こえた。

 今日の屋上での、鷺沢の履いていたスカートから覗く白い太腿を想像しているうち、あっという間に僕は爆ぜていた。

 大量に放出した精液が、右手首の方にまで流れてきている。それをティッシュで拭っていると、強烈な虚無感に襲われた。

 丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げると、ベッドにうつ伏せになって微動だにしなかった。

 いまや、鷺沢かなえのことしか考えられなかった。

 他のことが、まったく頭の中に入り込んでこない。


 鷺沢は、僕に言った。

 ……どうぞ、やめさせてみてください、と。


 心がーーなんだか焼け焦げるようになってくる。

 なんとか、なんとかしなければ。

 ……まず、あいつのあの行為をやめさせる、一つの方法としてすぐにも思い浮かぶのはーー、ということだった。

 そうなってしまえば、自分の彼女にそんなことをするのはやめてくれ、と訴える権利はおそらくあるし、きっと理にもかなっているだろう。

 しかし、それがいかに長い長い、困難極まる道のりであることか。

 まるで、クロールか平泳ぎで一人地球一周するような、そんなものだ。

 その対象を校内に限って言っても、あの鷺沢を虎視眈々と狙っている男子生徒は、それこそ山のようにいる。

 自分のような、スクールカーストの中位に位置しているような存在には、そもそも高嶺の花なのだ。

 そんなことは、僕には重々わかっていた。

 かてて加えて、何より僕の目の前には、あの飯田鉄、という存在がある。

 あのーーいま現在、唯一鷺沢に白昼堂々と痴漢することができる、あの鉄ちゃんが。

 そう考えるだけで、すぐにも心が折れてしまいそうだった。

 ひとまず、一足飛びに鷺沢の彼氏になることは置いておき、他に何かいい方法はないか考えた。

 すると一つ、すぐにも思いつくことがあった。

 ……それは、言うなればもう一度、鷺沢自身の立場に、自分を置いてみる、ということだ。

 それはつまり、鉄ちゃんの立場に身を置いてみる、ということも、同時に意味する。

 要するに、、ということだった。

 それしか、自分があの二人の関係のあいだに入り込んでいく、その方法はない。

 一階のリビングから、母さんとまりが何か賑やかに話しているのがうっすら聞こえていた。きっと多分、最近ネットで話題のネギ女の話でもしているのだろう。

 僕はベッドから立ち上がると、ベルトの緩んだ学生ズボンがずり落ちるのをおさえながら、部屋の扉の鍵をかけた。それから勉強机の椅子に腰掛ける。

……確認しよう。

 もう一度、痴漢をする。

 が、もし、次また捕まったらーーそれは再犯ということで、おそらくあのときのように見逃してもらえるようなことにはならないだろう。

 そうなったら、いったいどうなるか。

 もちろん、その想像は容易につく。

 両親も、激怒するくらいではきっと済まないだろう。

 なんなら勘当されてしまうかもしれない。

 妹のまりには、兄は痴漢常習者、というレッテルが、永遠に貼られる。


 ……ありえない。


 これまでの一連のことを、あらためて考え直してみる。

 まず、すべての発端となった(と僕が思っている)、鉄ちゃんの鷺沢に対する痴漢事件だ。

 鉄ちゃんは僕に、鷺沢からそうお願いしてきた、と言っていた。

 僕は最近、その話を少し疑っている。

 果たしてそれは、本当なのだろうか?

 もしかしたら、痴漢癖のある鉄ちゃんがーー鷺沢を強引に痴漢しただけということではないのか。

 そう考えると、鉄ちゃんに対する嫉妬心は、あらためて怒りのようなものに変貌してきた。

 だいたい、このところ繰り返し考えていることだが、鉄ちゃんはなんで、そんなことをしているのか。

 学年一のイケメンだったら、なんでも許されるとでもいうのか。

 見てろ。自分はこの難問を、必ず解決クリアしてやる。

 そして、あの鉄ちゃんを見返してやるのだ。

 しかるのちに、僕は晴れて、あの鷺沢とーー。

 そのときふと、頭の中に、ガランとした電車の中に一人、つり革を握り、学生鞄を持った全裸の鷺沢が立っている、というあのイメージが、ありありと蘇ってきた。

 僕は、彼女にゆっくりと近づいていき、背後からその乳房を鷲掴みにする。そして揉みしだく。

 鷺沢は、甘い吐息を吐く。

 僕は引き続いて、彼女の唇を強引に奪う。

 鷺沢の唾液は、まるで砂糖水のように甘くて美味だ。僕はそれをすべて吸い取るように飲み尽くす。

 気づくと僕は、果てたばかりなのにもかかわらず、すぐにまたいきり立ってきた自分のものを握りしめていた。

 僕は同時に、あの日初めて痴漢した、そのときのことを思い出していた。

 最初の動機はむろん、鉄ちゃんがしていることを模倣する、という、ただそれだけのことだった。

 でも、僕はあのとき、

 あの興奮を、僕はもう一度、味わってみたいのか。

 ……いや。これはまずい。

 僕はそのくらい欲望を、必死に押し込めた。

 でも、そもそもあの鷺沢にも、そして鉄ちゃんにも、この欲望がと、どうしていえるのか。

 もしかしたら、鷺沢のあの「やめさせてみろ」という言葉はーー裏を返せば、この興奮を自分は決して忘れ去ることはできない、という、そんな意味ではないのか。

 いや。でもダメだ。

 僕はそれまでの思考のファイルにポインタを合わせ、ドラッグして、脳内デスクトップのゴミ箱に放り込んだ。

 そして全裸で、うっすらと僕に笑いかけている鷺沢のイメージに全集中した。

 そのとたんーー僕はまた、果てていた。


     5


 朝の太陽が眩しかった。

 僕はその日、いつも通りに家を出ると、大井町線の等々力駅へと向かった。

 近いうちに英語の抜き打ちテストがある、という噂なので、ホームで電車を待っているあいだ、苦手な英語の文法の勉強をしていたが、まったくの上の空だった。

 これもいつものように、到着した電車の中に乗り込みながらも僕は、妙にそわそわした、そんな気持ちを持て余していた。

 先日の夜にずっと考えていたことをーー僕は繰り返し反芻していたのだ。

 すました顔で、重くて仕方ない「ロイヤル英文法」に目をさらしているが、自分の性器ものは、すでにもう痛いほどに固くなっていた。

 窓から入る朝の光にも、そのことを見透かされているような、そんな気がして、なんだか恥ずかしいような気分になってくる。

 ……そのときだった。

 僕のすぐ隣にーー同じ学校の制服を着た、これまで見かけたことのない、一人の女子生徒が乗っていることに気がついた。

 顔には、まったく見覚えがない。

 入学して半年以上経っているとはいえ、同じ学年の生徒全員を把握している訳ではないのだから心もとないけど、それでも違和感がある。

 もしかしたら、一年上の先輩かもしれない。

 そんなことを考えつつ、僕は自分の手が、いつしかその女子生徒の尻のあたりに、無意識にも伸び始めていることに気がついていた。

 

 ……マズい。やめろ。


 そう考えて、急いでその手を引っ込めようとするのだが、どうしてもできない。

 いつしか僕の手は、その女子の尻にまで到達し、その柔らかい肉を撫で始めていた。

 生唾を、飲み込んだ。

 と、そのとき女子生徒が、ことに気がついた。

 むしろ、そのおかげでーー僕は安んじて、その手を引っ込めることができたのだ。

 やがて電車が自由が丘に着くと、その生徒は小走りでぱたぱたと、僕より先に東横線へと乗り換えに向かった。

 その日は、午前中ずっと、その生徒のことを考えていた。

 昼休みが来、弁当も喉を通らずに、僕は自分の席を立つと教室を出、一階上の二年生のクラスに行ってみた。

 軽く緊張しつつ、一年生とはまるで違う雰囲気の、二年生のクラスが並ぶ廊下をなるべく不審に思われないよう、用事があるようなていを装って歩いていった。と、そのとき僕のことを背後から呼びかける、そんな声がある。

 ドキッとして振り返ると、あの朝の女子生徒がーー笑いながら廊下の真ん中に立っていた。

「こんにちは」

 そう、その先輩は言った。

 これがーー僕と今野聖との出会いだった。

 そのとき同時に、僕はあることに気がついていた。

 よく見ると、ひじり先輩の右手首にーー先日、鷺沢の右手首にかいま見たような、あの赤い、何かの紋様のような掻き痕があったのだ。



 #4に続く

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