#2


     1


 ……鉄くん鉄くん鉄くん。


 そう、呪文のように唱えれば唱えるほど、会いたくなる。

 彼なしでは、もう生きてはいけない。

 上野毛で大井町線に乗り、等々力駅に来るまでの間ーー私はまるで祈るような、そんな気持ちでいた。

 いつも毎日決まって乗る、7時24分発の電車だ。

 必ず私は、開く扉のすぐそばの、長椅子の脇に立つ。

 電車が徐々にスピードを緩めていき、やがて止まって扉が音を立てて開くとーー二、三人あいだを置いたあとで、片手をポケットに入れた鉄くんが入ってくる……。


 ……つい、先日までは、そうだった。


 今日も私は、神様にお願いするようなそんな気持ちで、彼が姿をあらわすのを待っていた。

 でも、またしても、そうはならなかったのだ。

 いったい……どうしてしまったというのだろう。

 ちょっとした、パニックのようになる。

 全身に、冷や汗をかいてくる。

 薬は飲んできているが、息がつまり、すがるようにつり革を握りしめてしまう。


 ……鉄くんが、いないのだ。


 私はひきつづく吐き気のような、そんなものに耐えながら、あらためて一から、この事態を考えてみた。

 どうして彼は、私の前からいなくなってしまったのだろうか。

 初めて私が彼と出会ったのは、ちょうどいまから一ヶ月ほど前のことになる。

 私は毎朝の出勤のため、自宅のある大井町線の上野毛駅で乗り彼は等々力駅から乗ってくる。

 そのときの印象は、いまでも、はっきりと覚えている。

 ……天使というものは、この世にちゃんと存在しているんだな。

 率直にいって、そんな風に思った。

 彼は毎朝、まるで判を押したように正確に、私の乗っている車両に乗り込んできた。そしてそのうちに、この私のことを、ジッと見つめるようになっていた。

 そのときの彼の表情を、私はいまでもはっきりと覚えている。

 彼がやがて、自然にその体を近づけてき、その手を私の体に伸ばしてきたときもーー私はそれほど唐突だとは、思わなかった。

 彼の、その手や指の繊細な動きを正確に例えるならば、私の体は地球儀だ。

 彼は、地球儀であるこの私を気まぐれに、くるくると回してーーここにこんな国がある、ここにあんな海峡があり、岬がある。そんな風に、いろいろと探索していく。

 いらい、私は彼のことが、忘れられなくなってしまった。

 何をおいても、私は上野毛駅7時24分初の電車に乗ることを、生活の最優先にするようになっていた。そんな私の期待を彼も裏切らずに、必ず毎朝同じ電車に乗ってきて、私の体という地球儀の上での旅を、続けていたのだ。

 このときの至福の感覚をーーうまく言葉で表現するのは難しい。

 ただ、間違いなく言えるのは、普段のお客に体をまさぐられているときとはーー、ということだけだ。

 行為の途中の彼は、ジッと窓の外を見ていることが多い。私はつい、漏れ出てしまいそうな吐息を我慢するのに精一杯なのだが、彼のその、いつもどこか少し悲しげな横顔は、いまも脳裏にしっかりと焼きついているのだ。

 ……そんな鉄くんだったが、ある日が起きた。

 異変、などというと、何か100%、彼にその原因があるような言い方になってしまい、すぐ訂正する必要を感じる。

 というのも、それは、決して認めたくはないが、おそらくこの自分に、非があるからだ。  

 彼と出会って、半月ばかりが経ったある日、私は行為が終わって自由が丘でおりていく彼を追いかけてゆくと、

「ラインを交換してもらえませんか」

 と言った。

 もちろん、少しは期待するところがあったのは確かだ。

 でも彼は、

「それは、ちょっと」

 とだけ言って、そのまま去ってしまおうとしたのだ。

 飯田鉄、という彼の名前だけは、そのときなんとか聞き出せた。でも結局、彼はその後、軽く会釈して行ってしまった。

 いらい彼は、同じ電車に乗り合わせてはきたが、私のそばに来ることは少なくなった。

 私たちの乗る電車は、いつも通勤ラッシュで混雑しているから、自分から近づいていくこともできない。

 そのうち、ある日を境にその姿すら、見えなくなってしまった、というわけだ。

 何か、全身の骨という骨が、全部抜け落ちてしまったようなーーそんな強烈な脱力感を、私は感じていた。

 もう、ひたすら後悔しかなかった。

 やはり自分が、あのような強引な真似を、してしまったからなのだろうか?

 突然彼が、現在通っている高校を中退しただとか、どこかへ引っ越してしまっただとかーーそう考えるほうが、よほど気は楽だ。でも、そんな可能性は、おそらく限りなくゼロに近い。

 

 ……もしかしたら、何かほかに、原因があるのではないだろうか。


 ……ひょっとしたらーー彼にかわいい彼女などができてーーその子とともに、通学をし始めた。そんなことなのだろうか?


 こんな風に、グルグルと考え続けてしまう自分が、ほんとうに心からイヤになってしまう。

 だいたい、冷静に落ち着いて考えてみれば、毎朝決まった電車に必ず乗り続けなければならない、そんな法律や決まりなんてない。

 そう、彼はーーこの電車の前後の時間のどれかに、乗る車両を変更しただけなのだ。

 そう考えて、一瞬心が晴れたような、そんな気分になったのもつかのま、さらなる疑問が湧く。

 だったらなぜ、彼はこれまで、あれほど正確に、この車両に乗り続けていたのだろう。

 私はあの日、自分から話しかけたあのときしか、彼と言葉を交わしたことはない。

 だから、これはすべて私の推測、というか妄想にすぎない。

 それでも私は、なぜか確信している。

 彼はそんな風に、その日その日で気まぐれに、あれこれ自分の行動を変えてゆくような、そんな人ではないのだ。

 これと決めたらこれ、次にこう変化させる、と決めたなら、確実にそうするし、それをまた変更しなおす、などということもない。

 ……となるとやっぱり、彼は、ある日から自分の乗る車両を変えたのに違いないのだ。

 もし、強引に彼と繋がろうとしたこの自分を嫌い、避けているのが理由なんだとしたらーー私は彼に、一言謝りたかった。

 もし、やっぱりそれはただの気まぐれで、なんの理由もなく電車を変えたんだとしたら、それはそれでひっかかりはする。

 しょせん自分は、彼にとってその程度の存在だったのか、と。

 いずれにせよ、本当のところはどうなのか。その真実を確かめたい、そんなどうしようもない衝動に、私は駆られだした。

 でも、そんな私の行動は、もし彼に気づかれでもしたら、余計にこの状況を悪化させる原因に、なってしまわないだろうか。

 もしそうなってしまったら、それこそもう、取り返しがつかない。

 その二つの背反する思いを、私は慎重に、心の天秤はかりにかけた。

 ……それでもやっぱり、その本当の真実を知りたかった。

 この気持ちにあらがうことは、いまの私には、どうしてもできないのだった。



 それから、私は数日をかけ、自分のこれまで使ってきた電車の前後のものを乗り分けてみる、ということをした。

 数日をかけて、というのは、どうしても気が進まない、そんな日もあったからだ。それでも勇気をふりしぼって行なった。

 彼は乗る車両の位置は変えていない、という仮定のもと、三回目の乗り分けの際に、ついにその答えがでた。

 私はその日、鏡の前で自分でもつい笑ってしまうほどの、変装をしていた。変装といっても、深めのつば付きの帽子をかぶり、サングラスをしてマスクをつけていただけなのだが。

 そして、通例の電車の一本後のものの、長椅子の前の中央あたりに、つり革を握って立っていた。

 胸の鼓動が、止まらないでいた。

 等々力駅で、鉄くんが乗り込んできたときの、その解放されたような気持ちといったらなかった。まず、彼が変わらず、この世界にちゃんと存在してくれていた、そのことが何よりも嬉しい。

 彼は、何も変わっていなかった。軽くパーマのかかった、ボブの髪型。いつもの丸メガネをかけ、耳にはBeatsの赤いイヤホンをつけている。

 彼は確かに、何も変わっていない。

 ……でも、さっきから、何か様子がおかしかった。

 何が、おかしいのだろう。

 でも、何かが変だ。

 あんまりジロジロと観察してもいられないので、私は手元の茨木のり子の詩集に視線を戻した。ページを繰り、書いてあるその文字の連なりに意識を集中しようとするが、どうしてもできない。

 いつしか、あのつかのまの開放感も、どこかに消し飛んでしまっていた。

 鉄くんは、いま言ったようにいつも通りだ。おそらく、同じ車内にいるこの私の存在も、知られてはいない。

 私は、もう一度恐る恐る、彼の周囲に視線を凝らしてみた。

 と、そのそばに、一人の女が立っているのが目に入った。

 そういえば、鉄くんが乗り込んできたとき、彼に向かって逆に近づいていくような、そんな人影があったのを覚えている。その女は、いまやぴったりと、彼に体を寄り添わせるようにしている。


 ……


 その女は、ジッと下を向いてうつむいたままでいた。鉄くんはいつものようにーーその天使のハンマーのような高い鼻筋を気持ち傾けて、窓の外を見ている。眼鏡のレンズに光が当たって白く輝き、その奥にある視線が半分だけ消えている。

 ただ、それだけのことじゃないか。そう、思うだろうか。

 でも私には、その彼の手元ではいったい何が行われているのか、はっきりとわかるのだった。

 何か非常に強い、制御できないような感情が、私のうちに湧いてくるのがわかった。

 私はこちらに背を向けているその女の特徴を、こと細かに観察し始めた。髪は肩まである黒髪で、野暮ったい髪留めで後ろにまとめている。背丈は大きくもなく小さくもなく、人が多くてよく見えないが、グレーのコートを着ている。

 年齢は、おそらく私の一つ二つ下くらいでーー二十代半ば。

 女はきっといま、我慢できずに吐息を漏らしているに違いない。

 

 ……いますぐ、八つ裂きにしてやりたかった。


 等々力、尾山台、九品仏、と続く降車駅は、あっという間に通り過ぎていった。

 怒りというものは、どうやら時間を瞬時に忘れさせる、そんな効果があるのらしい。

 自由が丘につき、列車の扉が開くと鉄くんとその女は寄り添ったままで電車を降り、人の波に合わせるようにして、通路の向こうに進んでいった。

 彼と、あの女のあとを追わなければならない。そう、頭ではわかっているのに、体がまったく動かない。まるで金縛りにあったように。

 怒りと悲しみばかりが先走るあまり、当の体が置いてきぼりになった。

 よくできて、なんとか首を曲げ、二人のあとを目で追うくらいだった。女は、鉄くんの腕に手を回していた。ブレザーの制服姿の彼に、二十代半ばの女が手を回しているのだから違和感があるが、毛ほども気にしていない様子で。

 やがて、その姿は見えなくなった。

 それでも、私は二人のあとを目で追っていた。

 正確には、二人の残像を目で追っていた。

 その残像は、繰り返し繰り返し、私の脳内で再生された。

 そうすることしかできなかった。自由が丘を過ぎ、緑が丘についても、私はそうしていた。自由が丘で急行に乗り換えるのを、すっかり忘れていたのだ。

 私は、その間ずっと、あることをぼんやりと考えていた。

 ……あの女に、なんとか復讐できないだろうか。

 そんなことを、考えていた。

 

     2


 二十代の、初めくらいからだろうか。

 私は、その頃から精神科に通っていた。

 当時の診断は、鬱病と境界性パーソナリティ障害の併発、というものだった。

 パーソナリティ障害に関しては、性格に関わるものなので、具体的で即効的な治療は難しい。なのでまずは鬱病に焦点を絞り、まあぼちぼちやっていきましょう。そんなことになった。

 いまでは、月に一度か二度、抗不安薬を出してもらいにいくだけになっている。どうせその先生も、根治は時間がかかるので、まあぼちぼちやっていきましょう、と繰り返すだけなのだから。

 ……あの日。

 鉄くんに再会した、あの日いらいーーそんな私の心身は、の状態になっていた。

 ……まずは、嫉妬だ。

 そして……それにひきつづく、怒り。

 鉄くんに、対してではない。

 あの、かたわらで彼からの愛撫を受けていた、見知らぬ女に対してだ。

 あの女が、鉄くんの恋人、だというのだろうか。

 絶望、絶望、絶望。

 強い、強い絶望。

 自分は、今後二度と、あの鉄くんの愛撫を受けられないのかもしれない。そんな、残酷な現実。

 とても昼間の仕事に出かけられるような、そんな状態ではなくなっていた。

 私は普段、大手町にある出版系の会社で、派遣OLをしている。

 結局、派遣会社の担当さんには、申し訳ないがしばらく休ませてくれないか、とお願いをした。

 その収入がなくなるぶんーーここ円山町には、いつも通り、立つことにしたのだ。

 今夜の渋谷は、週末ということもあって、人が多かった。

 109から道玄坂を上がってくるまでの間も、人いきれがするほどだ。

 私はようやく、道玄坂地蔵の前にたどり着くと、そこに立ってトレンチコートの襟をかき合わせた。

 十一月も半ばを過ぎて、肌寒さが増してきている。

 木枯らしが吹いて、ブーツを履いた足元から冷えてくる。

 私がここで、「立ち」を始めたのはーー鉄くんに出会うよりももっと前、二年ほど前だ。

 それまでは、五反田のデリヘルに在籍していた。

 でも自分はなかなか指名が入らず、へたをすると一日待機室で待っている、そんな場合もあって、合理的ではないな、と思い始めた。

 それからいくつも店を変わったが、状況は好転しなかった。

 私は拒食の気もあり、痩せているので、

「弓ちゃんは、もっと太った方がいい。男は痩せた女よりも、肉づきのいい方のが好きなんだ」

 などと、口をすっぱくして店長に言われたものだ。

 その点、「立ち」はいろいろな面で効率がいい。

 お店側と取り分を分け合うこともないし、何よりあれこれ文句を言われない。

 相手の顔が、最初にわかるのもよかった。そのプロセスのすべてを、自分一人でコントロールできるのだ。

 今夜は、あらかじめの約束はなかった。佐々木さんとも、東堂さんとも、ない。

 なので、頑張らねばならなかった。一日四人、を私は、その最低ノルマにしているのだ。

 自分は、とはいえお金が第一目的で、「立ち」をやっているわけではない。

 上野毛の実家に母親と二人暮しなので、さしあたり生活に困ることもなかった。昼間の派遣の給与も、それなりの額にはなる。

 じゃあなぜ、自分は「立ち」をやっているのか。

 お客さんにも、そうたまに聞かれることがある。

 でも、そのことを考え出した途端ーーいつも、まるで急にパソコンの電源が落ちてしまうように、何も浮かばなくなってしまうのだ。

 今夜もホテル代別で、いつも通り一万五千円でスタートすることにした。様子をみて、一万に下げる。

 しばらくそうして立っていると、正面の路地から、杖をついた初老の男性がゆっくりと歩いてきた。

 私は駆け寄っていって、

「遊びませんか」

 と声をかけた。

 その老人は、口をあんぐりと開けたまま、私を見上げていた。うまく伝わっていないのかと思って、もう一度、

「遊びませんか、どうですか」

 と言った途端、大声で、

「ふざけんな!!」

 と一喝され、私をにらみつけながら立ち去っていった。

 ……こんなことは、日常茶飯事だ。

 周囲の人々も、一瞬ギョッとした顔でこちらを見るが、気にしない。

 むしろ、気をつけなければならないのは、地回りの人たちだが、それ風の人々を見かけたら、隠れるようにはしている。

 もっとも、彼らを取り締まる法律が改正されたからか、めったに出会うことはない。

 もう一度、私は地蔵前に戻った。しばらくそこでスマホを眺めていると、パンパンになったカバンを提げた、一人の小太りの中年男性が近づいてきて、

「……条件は」

 と言った。

「ゴムありで、一万五千円です」

 言った途端、男はチッ、と舌打ちをした。

「……高えなあ」

 ひとりごち、そっぽを向いた。でも、そのまま立ち去っていこうとはしない。

 薄くなった頭を七三分けになでつけて、黒縁のメガネをかけていた。アゴの肉が二重になっている。

 ジャケットの下のニットベストとズボンのベルトの間から、シャツの裾が少しはみ出した腹が盛り上がっていた。

「じゃあ、クスリは」

 男は苛立ったように言った。

「……クスリ?」

「ハーブじゃねえか、バカヤロウ」

「それも、ちょっとーー」

 男はハァーッ、と大きなため息をつくと、両手を腰にやってしばらくうなだれていた。薄くなった頭頂部が、こちらに向いている。

「じゃあ、一万二千。どう」

 男は、最後通牒のようにそう言った。

「オーケーです」

 だったらどこにすんの、と言うので、まずは近くのコンビニに行き、黒ラベルの500ml缶一本と、350ml缶を二本買い、それから休憩四時間四千円の、「ラブライト」に向かった。



 部屋に入り、前払いでお金をもらうと、二人でシャワーを浴びた。

 一人で入ってしまうと、荷物などをどうされるかわからない。

 なんだよ、洗ってくれねえのか、と言うので、そういうことはしてません、と答えると、ホントにクソだなあお前、さっきから、と男は一人ごちた。

「……オレがいつも不思議でしょうがないのはさ。お前らみたいな生きる価値なんてない正真正銘のクソが、どうしていつまでも、そうやってのんのんと暮してられるんだろうな、ってことなんだよな」

 そう言っている男のものを見ると、今にもはち切れそうなほどに隆起していた。

 隆起しているのだが、どう見ても人差し指くらいの長さしかない。それが下腹の肉ごしに、まるでソーセージのようにのぞいている。

 男はそれから、私の体にむしゃぶりつきだした。その手つきと、あの鉄くんのそれとを比較してしまうことはーー彼との出会いいらい、もうすっかり習慣になってしまっている。

 

 ……まったく、違う。


 どう言ったらいいのか。まるで天使の吹くラッパと、調弦されていない、素人の弾くヴァイオリン、くらい違うのだ。

 あらためて、これも具体的にどう違うのか、考えようとしても、まるで夜のとばりがおりたように、思考が一瞬にして停止してしまう。

 ようやくシャワーを出、冷蔵庫に入れておいた自分の缶ビールを次々と開けていくのを、タオルで体を拭きながら男は呆れた顔で眺めていた。

 一本くれよ、と言ったが、私は冷蔵庫のものを飲んでください、とだけ答えておいた。

 行為の間じゅう、私はずっと、鉄くんのことを考えていた。

 いま現在、私の体をむさぼっているこの男が、鉄くんだったらいいのに、などと考えるから

 ……そんなことは、私は考えない。

 少なくとも、こうやってお客を取っていると、私の精神は安定する。

 なんでもないこの自分は、この男にこうして求められている以上は、生きて存在する価値があるんだな、そう思えるからだ。

 男にはさっき、それと正反対のことを言われたばかりだが、そんなことを言っておきながら、私を欲し、そのことで自己矛盾のきしみを起こしているのは、この男自身なのだ。

 そう、私は安定する。不安のうちをたゆたうこの自分を、しっかりとくさびのように打ち付け、つなぎとめてくれるのは、彼らお客の男たちなのだ。

 ……でも、鉄くんは違う。

 彼は、この私を不安と絶望のうちに叩き落とす。

 薄いゴム一枚隔てた性器を男に挿入されているとき、自分はまるで透明な水のようだ、と思う。

 ただの「流れ」のようなものなのだと。

 でも、こうして鉄くんのことを考えていればいるほどーーどうしようもなく「私」というものが立ち上がってくるのだ。

 その強い「私」が、その「流れ」にさおさし、ついで不安を呼び起こす。

 この私の精神を、ふたたび不安定にするーー。

 ……そう、やはり私は、鉄くんのことが気になって仕方がないのだ。



 今夜はその後、二人引いた後で、時間切れになった。

 私は日が変わらないうちに、必ず帰宅することにしている。

 東横線の急行に乗り込み、自由が丘で大井町線に乗り換えるため、電車をおりて、歩きかけたときだった。

 背後から、

「すいません」

 と小声で呼びかける声が聞こえた。

 ふりかえると、そこに小柄な見知らぬ女性が立っていた。

「どうも、こんばんは」

 言ってその女性は、上目遣いで私を見ながら、おずおずと近づいてきた。丸顔で、少しぽっちゃりしている。黒のオーバーサイズのハローキティの柄のついたパーカーを着、根元が黒くプリンのようになった長い金髪を、後ろにまとめている。肩掛けしたカバンにも、ハローキティの人形がついている。

「すいません。急に声かけしちゃって」

 私たちが人の流れをせき止めてしまっているようなので、少しだけわきに寄った。

「……なんでしょうか」

 女性はまだ、少し躊躇していた。後ろ手を組み、私から視線をそらしている。

「たぶんきっとーー飯田鉄、って言った方が、すぐ伝わると思うんですよね」

 女性はそう言って、もう一度ジッと、この私を見つめた。

「……飯田鉄?」

「はい」

「鉄くんが、どうかしたの? どうしてーー」

 女性はほくそ笑んでいるのか見透かしているのかーーその中間のような、そんな顔をさっきからしてみせていた。

「あの、いま少し、お時間ありますか? 立ち話もあれなんで」

 終電にはまだ全然間に合うが、長くなってしまえば、その日のうちには帰れなくなるかもしれない。

 でも、鉄くんのことならしょうがない。何より彼のことなら、いまはなんでも知りたい。

 いや、のだ。

「大丈夫です」

 私たちは自由が丘の駅を出ると、そのすぐ近くのドトールに向かった。

「有沢すず、って言います」

 その女性は、人気の少ない店内の壁側の席に腰を落ち着けるとそう言った。

 湯気をあげるミルクティーに口をつける彼女に、滝野弓子と言います、と答えた。

「ほんとすいません。突然声かけしてしまって」

 さっき言ったのと同じことを、有沢すずはまた繰り返した。そしてしばらく黙って、ミルクティーをすすっている。

 気をもたせているのかなんなのか。この謎の空白の時間がわずらわしい。

「あの。鉄くんが、どうかしたんでしょうか」

 私はたまりかねてそう聞いた。

「いえ、違うんですよ。実はですね、いま一つ、考えている企画がありまして……」

「企画?」

「はい」

 彼女は、その大きな丸っこい目で、またジッと私を見つめている。どうやらそういうクセを持っているらしい。

「滝野さんが、以前鉄くんから痴漢を受けていた、ってことは知ってます」

 彼女は唐突にそう言った。

 つい、無意識にも周囲を見渡してしまう。

 私たちのほかには、お客さんは奥の席にポツポツとしか見当たらない。すぐ近くのカウンターでは、男性従業員が静かに仕事をしている。

「あの、どうしてそれをーー」

「実は、私もそうなんです」

 言ってすずは笑った。

「えっ」

「いまはすっかりご無沙汰なんですけどね……や、ご無沙汰、ってなんかヘンですね」

 店内に響くような、そんな大きな声で彼女はまた笑った。店員さんが、一瞬こちらを見る。

「そう、なんですか」

「ええ。だから、なんていうのかな、ファン、っていうか、彼は私の「推し」なんでーーずっと追いかけているんです。そしたら、ある日滝野さんと鉄くんを見つけてしまいました」

 彼女と、しばらくのあいだ目を合わせていた。

 なんだか、ひどく不思議な気分になる。

 ……まず、例の嫉妬の感情だ。

 この女もまた、私を差し置いて、鉄くんの愛撫を受けていた。

 もっとも、いま聞かされた話の流れでいえば、彼女がまず鉄くんに痴漢され、それから私、という、そんな順番になるらしい。

 そして、彼女からいま、鉄くんは離れている。

 さらに、この私からも、鉄くんは離れていった。

 ……そこまで考えたとき、何か奇妙に穏やかな「同士」感がーーこの私を包みこんだ。それに向こうも気づいているのか、嬉しそうに細かくうなずいている。

 と、彼女の手元のスマホにラインが着信した。その画面の待ち受けが、鉄くんの写真を自作デコレーションしたものであるのがちらりと見えた。

「……どうぞ、気にせずに」

「いえ。いいんです。きっといつものホストからの営業ラインですから」

「ホスーー」

「……で、なんですけどね」

 言うと有沢すずは、座っている椅子をガタガタと言わせてこちらに体を近づけてきた。

「実は、滝野さんとは別に、もう一人の女性と二人で最近、『鉄会』っていうのを作ったんですよ」

「……『鉄会』?」

 私はさっきの有沢すずの笑い声と同じくらいの大声を、上げてしまった。その声が、ガランとした店内に響き渡る。

「はい。鉄推しの会。略して、鉄会。ネーミングは、私です。どうですか」

 彼女はまた笑った。

「でーーよかったら滝野さんも、その『鉄会』に参加しないかな、と思いまして」

 私は、しばらく唖然としたままでいた。

 彼女と目を合わせ続けている。

「……あの、その『鉄会』では、いったいどんなことをするんでしょうか」

「そうですね。まずはメンバーはSNSで常時つながって、彼についていろいろと情報交換をします。それから月イチくらいで飲み会を開いて、彼について語り合います」

「……」

「で、ゆくゆくはーー鉄くん本人を招いて、彼と例えばお食事、そして撮影会、みたいな流れで交流できればいいな、なんてことを考えています」

「……本人?」

 有沢すずは、八重歯を見せながら笑っている。

 私の唖然とした気持ちは、いまだずっと引き続いていた。

 ……まず、そのようなアイデアを抱いて、それを実際に行動にうつす、なんていう実行力を、この自分はまったく持ち合わせていない。

 そしていずれ彼女は鉄くん本人に、直接アプローチすらしていくのだという。

 ……世の中には、いろいろなことを考えつく人がいるものだ。

 しかし、それにしても、いぜんとして、自分の中に強くわだかまってやまないものがあった。

 そんな彼女たちに対する、嫉妬の感情だ。

 有沢すずは、自分以外にももう一人、と言っていた。

 もしかしたら、その女性というのがーー先日私が目撃した、あの女なのだろうか?

 ……八つ裂きにしてやりたい、とあのとき心から願った、あの女。

 もし、仮にそうだとして、そんな気持ちを抱いたまま、その会に参加したらいったいどうなってしまうのだろうか。

 ……もちろん、これは向こうから飛び込んできた、まさに千載一遇のチャンスだ。

 これで私は正々堂々と、あの女を問いただしてやることができる。

 それに、どうせそんな会、こっちから潰してやったって、全然構わないのだから。

 そこまで考えが至った時点で、その会への興味が、私のうちにむくむくと湧いてきた。

 例えるなら、まるで敵陣の中に一人忍び込むスパイのようなーーそんな気分だ。

「……お話はわかりました。ぜひ、私も参加させてください」

 本当ですか? と有沢すずは大げさに喜んだ。そしてさっそくラインを交換しましょうというので応じる。

「実は、滝野さんのオーケーが出しだい、さっそく第一回の鉄会を開こうと、話し合っていたんですよ」

 有沢すずは、大量のプリクラやチェキの貼られた分厚いシステム手帳を取り出してめくった。何か細かい文字で予定欄がびっしりと書き込まれてある。

「もう一人の女性と話し合って調整して、日取りはまたご連絡しますね」

 その日、有沢すずと別れた翌日には、彼女からあらためて連絡がきた。第一回の鉄会の時間と、場所のお店のURLだ。

 記念すべき、第一回です、楽しみましょー! そのラインの最後には、そう添えられてあった。

 ……楽しむか、楽しまないかは行ってみないとわからない。

 そんなことより、あの女を刺し殺してやるにはーーどの程度の刃渡りの包丁を持参するべきか、と私は考えていた。

 もちろん、メッタ刺しにするだけでは終わらない。

 その後、文字どおり八つ裂きにしてやる。

 その日は、翌週の水曜日の夜だった。円山町に行くことができないのは仕方がない。

 私は、その日が来るのを心待ちにした。


     3


 すっかり日の落ちるのも早くなった暮れ方、中目黒駅の高架下にある、こじんまりとした居酒屋に、私たちは集まった。

 四人がけのテーブル席に、私と有沢すず、そしてもう一人の女性とで、肩を突き合わせるようして座った。

 平日にもかかわらず、店内は仕事帰りのサラリーマンや女性客でごった返している。

 有沢すずは、先日会ったときと、大して印象は変わらなかった。ただ、今日は黒のストッキングとフリルのついたミニスカートを履いて、紫色のアディダスのジャージを首までジップアップして着ている。プリンのようだった髪は、綺麗に金髪に染め直して肩下まである。

 もう一人の、黒髪の女性は、一見して地味な印象だった。いかにも仕事帰りのOL風、といった感じで、グレーのタートルネックのニットに、ツイード柄のスカートを履いている。


 ……間違い、なかった。


 まさに、あの日鉄くんから痴漢されていた、グレーのコートを着た女だ。

 記憶に刻み込んだ印象と、寸分も違わない。

 私は心のうちで、何度も繰り返しうなずいていた。

「……それじゃあ、記念すべき『鉄会』の第一回ということでーー乾杯しましょっか?」

 私たちは、このお店の名物だというレモンの串切りがいくつも入ったレモンサワーで、まずは乾杯した。

 正面に座る、その女からは、お店に入った当初から、自分や有沢すずに対する警戒心のようなものを、ずっと感じていた。

 それはもちろん、この自分もおそらく同じなのだから、始めから場は非常にぎこちなかった。

 そんな空気を敏感に感じとったのか、有沢すずが、自分から自己紹介を始めた。出身は埼玉で、今は元住吉で一人暮らしをしている。派遣で深夜の棚卸しの仕事をしている。歳は二十四歳。三人の中で、彼女が一番年下だ。 

 趣味は、ホストクラブで遊ぶこと。週に三回は、歌舞伎町のお店に通っている。

 言って有沢すずは、礼王れおという名前の自分の「担当」との自撮り写真を、私たちに見せてくれた。

 なんていうのか、メイクが濃いうえに、至近距離からのスマホのフラッシュのおかげで、ほとんど操り人形のように見える。

「……ホストクラブって、お金かかるんじゃないんですか」

 黒髪の女が、有沢すずに遠慮がちに聞いた。彼女はさっきから、塩昆布とお豆腐のつきだしにも、焼いたギンナンにも、穴子の天ぷらにも、メジナの煮付けにも、一切手をつけていない。

「や、自分はそんな、シャンパンおろしたりとかしないし……掛けで遊んだりもしないしセットだけだから」

 そう言われても、何のことだかさっぱりわからないのは、女も同じらしい。その後いろいろ質問している。

 掛け、というのは簡単に言えば、ツケのことらしい。

「最近はだから、担当には悪いけど、鉄くんにぞっこんだよ。ほんと毎日、彼のことばっか考えてる」

 と、途端に女が息苦しそうな、そんな顔をした。

 有沢すずは、なんら気にせずに、食べないの、と言って料理の皿を進めている。

 うながされ、次は女が自己紹介を始めた。名前は、日高里美。二十六歳。不動前にある、自動車部品製造の会社で、事務職をしている。

 私に、あの日痴漢現場を目撃されていたことは、どうやら知らないでいるらしい。

 日高里美は、いまだ何か重苦しいような、そんな雰囲気をずっと醸し出していた。そのことに、有沢すずもどうやら感づいていたらしい。

「……ねえ、どうかしたの?」

 レモンサワーのおかわりを、勝手に三つ注文したあとで、すずが言った。

 それでも黙っている日高里美がもどかしくて、

「何か気になることがあるなら、それを吐き出す場として、この鉄会があるんじゃないんですか」

 と言ってみた。

「……そうですね。どうもすみません。でもそれより、自己紹介を最後まで聞きたいです」

 と里美は答えて私を見た。

 ……自分は、滝野弓子。二十七歳。上野毛の実家で、母と二人暮らし。

 大井町の出版系の会社で、派遣で働いている。

 父親は母と離婚したあと行方知れずなことや、妹が一人いるが、彼女とも連絡がとれないこと。二十代の初めごろから精神科にかかっていることや、円山町で「立ち」をやっていること、などは言わなかった。

 ひとしきり、私の話を聞いたあとで、里見は、

「……お綺麗ですよね」

 とポツリと言った。

 私は彼女と目を合わせると、肩をすくめた。

「そんなことない」

 里美は真剣そのもの、といった眼差しで、この私をジッと見つめている。それは少し、、と言えるくらいのものだ。

「質問、してもいいですか」

 そう里美は静かに言った。

「ええ」

「鉄と会ったのはーーいつ頃なんですか?」

 鉄、と里美は呼び捨てにしていた。

 見ると唇が、わずかに震えている。

 私の鞄の中には、刃渡り二十センチの、セラミック製の包丁が入っている。

 この女の背中まで、確実に刺し貫いてやるためには……十五センチでは足りない、そんな気がしたからだ。

「出会ってから、そろそろ一ヶ月くらいになるかな」

「……えっと、きっとね、私、弓子さん、それから里美さん、って順番だと思うよ」

 すずがそう、横から補足してきた。

 里美は、これ以上ないというくらい、悲しげな顔でうつむいていた。いまにも泣き出してしまいそうだ。

 私とすずは、黙って顔を見合わせていた。

「……ねえ。もう言っちゃいなよ。さっき弓子さんが言ってたとおりだと思うよ。それに、私もそんな、毎日はっついてるほど野暮じゃないからさあ」

「……実は最近、鉄が私に、近寄ってこなくなったんです」

 口にした途端、テーブルの上に、ぽたりと涙が一滴、こぼれ落ちた。

 私は、軽く鼻をすすって黙って下を向いた。

「……嫌われて、しまったのかもしれません」

 ねえ、里美さん。飲も、飲も。そんで、苦しいこと、悲しいこと、不安なことーーいまここでぜんぶ吐き出しちゃお? そのための、鉄会だよ? そう言ってすずは手を伸ばし、里美の肩にそっと手をやった。里美は小さく、けいれんするように何度もうなずいている。

「何か、心当たりはあるの?」

 そう、聞いてみた。

「……会ってしばらくしてから、ラインを交換してください、って言ったんです。それを断られたので、いまつきあっている彼女さんはいるんですか、って聞きました。そうしたらーー」

「……」

「で、なんて言ってたの?」

 すずが身を乗り出すようにして、追って聞く。

「何も、答えてはくれませんでした。それいらいーー」

「ねえ。同じ電車には、いるんだよね」

「はい。でも違う場所にいるようになってます」

「……そこなんだけどさ」

 神妙な顔で、すずが口を挟んできた。

「私は東横線だけど、最近鉄くん、乗る電車、変えてない? あれ、なんでだと思う」

 途端に場が、まるで水を打ったように静かになった。

 三人が三人とも、それぞれ思いを凝らしている。

「なんかきっと、理由があるんだよ」

「どんな、理由ですか?」

 里美が必死な形相で言った。

「わかんないけど……でもやっぱ、フツーに考えて、女じゃないかなあ」

 私たちは、また一様に押し黙った。

「ねえねえねえ。なーんか空気が湿っぽいね。でも、言い出しっぺが言うのもなんだけど、こういうのって、すごく楽しくないですか? 同じ気持ちや不安を共有できて。そうじゃないですか?」

 私は里美に向かって、そっと料理の皿を押し出してやった。と、彼女は私と目を合わせると、ようやく自分の箸を取った。

「それじゃあ、ここでそれぞれ、鉄くんのイチオシポイントを言い合いしません?」

 すずの声は大きいので、はたで聞いたらなんの話をしているのかと、きっと思われてしまうだろう。

「じゃあ、まずは私から。そうだなあ……やっぱりあの、超絶イケメンなところ? 特に、あの横顔! なんか美術の教科書に載ってる彫刻みたいなんだもん」

 言ってすずは、嬉しそうに笑った。

「じゃあ、里美さんは?」 

 里美は、真剣な顔でしばらく考えたあとで、口を開いた。

「……繊細なところです。でも一方で、ものすごく大胆なところ。その、ギャップ」

 わかるー、とすずが、しきりにうなずいている。

 じゃあ、弓子さんは? そうすずが振ってきた。

 私も少し考えてから、こう答えた。

「旅人みたいな、ところかな」

 ……旅人? どういうことですか。すずがそう聞いてくる。

 里美がじっと、さっき以上に切実な眼差しで、私が次に何を言うかを待っていた。

「……私の体の上を、彼は旅する旅人なの」

 へー。なーんか弓子さんって詩人? こういうのって、詩人っていうんですか? そうすずが声を張り上げた。里美は、嫉妬なのか共感なのか羨望なのかわからない、なにかそれらが複雑に入り混じった、そんな顔で私を見つめ続けていた。

 ……そう。だから私は、地球儀なのだ。

 彼の手で、くるくると回る地球儀。

 それから私たちは、レモンサワーを梅酒に変え、さらに鉄くんについて語り合った。

 最初感じていた、里美の警戒心のようなものは、いつのまにか薄れていた。

 でもそもそも、刃物を懐に隠し持ったこの私こそが、その始めから、大いに警戒していたのだ。

 そんな彼女の反応も、だから当然といえば当然だったかもしれない。

 私の抱えていた怒りにしても、知らぬまにどこかへいっていた。

 少なくとも、鉄くんがいかに魅力的か、ということに関しては、三人とも異論はない。

 もしそうなら、そもそもあからさまにいがみ合う必要などないように私には思えたし、里美もすずも、どうやら同じ気持ちのようだった。

 発起人のすずも、終始満足げだ。

 何より私には、このように同じ感覚を共有できる人々と、関わりあったことなどなかった。

 SNSは肌に合わないからやらないし、友人と呼べる存在もいない。

 常連のお客さんで、擬似恋愛的に付き合っている人は何人もいる。でも、それはそれまでのことだ。

 当然、決まった恋人もいない。

 私はつかのま、心の安らぐようなそんなひとときを、この「鉄会」に感じていた。参加してよかったのかもしれない、そう、素直に思える。

 気が向けば潰してやろう、そう考えていた自分を、ふと思い出していた。

 さんざん食べて飲んだあと、すずはその場で、第二回の開催について話し始めた。私と里美は顔を見合わせた。

 ぜひ次も、参加させてほしい。そう、私は答えておいた。

 中目黒の駅までの帰り道、里美が近づいてきて、よかったらお友達になってもらえませんか、と言った。

 また思い立ったとき、いろいろと話を聞いてもらいたい。

 自分なんかでよければ喜んで。そう答えると、里美はその日初めて嬉しそうな、でも、どこかぎこちないーーそんな歪んだような笑顔になった。


     4


 派遣の仕事を終えると、私は渋谷に向かった。 

 今日も、普段通りのノルマをこなさなければならない。

 109を越え、道玄坂を上がり、丸山町に入った。

 しばらく、いつもの地蔵堂の前に立っていたが、人影を見つけると自分から駆けていき、

「遊びませんか」

 と声をかけた。

 今夜はすでに、東堂さんとの約束を終えている。

 それからさらに一人引いたが、ノルマにはまだ届いていない。

 だんだんと終電の時間が近づいてき、気持ちも焦ってきていた。

 そのとき目の前を、酒に酔った風のサラリーマンが通りがかった。私は近づいていって、

「遊びませんか」

 と声をかけた。

 近くのラブホテルの従業員が、ジッ、とこちらの方を見ている。

 何度か私は、そのホテルを利用したことがあるが、幾度かそこで、請われて放尿プレイを繰り返していたら出入り禁止になり、それ以来入店したことはない。

 声をかけられた男は、一瞬ギョッとした顔をしてみせた。が、やがてそのドロッとした目でこちらを見ると、いくらなんだよ、と苦笑いしながら聞いてきた。

 私は焦っていたので一万、と答えた。すると男は、そんな金ねえ、とゴネ始めた。

 そのまま立ち去ろうとするので、五千円でもいい、というと、男は軽く目を丸くしたあとで、部屋代は別なんだろう、という。

 近くの駐車場でもかまわない。そう答えると、眉をひそめた。それからニヤリと笑って、面白えじゃねえか、だったら連れてけ、と酒臭い息を吐きながら呟いた。 

 必要になると利用することのある、その路地裏の奥まった場所にある駐車場で、前金をもらうと私は男のズボンを下ろし、ひざまずいて男のものをくわえた。持参している、小分けになったおしぼりで拭ったが、ひどく臭う。しかしそんなことをかまってはいられない。

 男のものは、森の巨木のようにそそり立ちながら、おそろしく怒張していた。紫色の血管が浮き出ている。

 口を動かしていると、男は呻きながら私を地面に転がし、スカートを捲って後ろから入れようとした。私はゴムをつけない男と交わることは絶対にしない。

 慌ててゴムをつけさせると、男はさっきよりも荒っぽく私を転がし、ふたたび乱暴に四つん這いにさせ、強引に後ろから入れ、腰を打ちつけ始めた。最初鋭い痛みが走った。

 こんなにグチョグチョにしやがって、この気狂い女が。そう言いながら男は腰を打ちつけ、そのまますぐに果ててしまった。



 それからもう一人、五十代後半の男を引いて、その日のノルマを達成すると、私は道玄坂を降りて渋谷駅まで歩き、東横線に乗って、帰宅の途についた。

 自由が丘で、大井町線に乗り換えていたときだ。

 ひどく見覚えのある体型の、若い男の子の姿が、一瞬視界に入った。

 身長は百七十センチ後半くらいで、少し猫背。パーマのかかったボブの髪型に、丸メガネをかけている。

 彼は黒のダウンを着て、黒のデニムと白のスニーカーを履いていた。

 ……その後ろ姿は、鉄くんにひどく似ていた。

 彼は片手をポケットに入れ、茶の革トートを肩がけし、私の十メートルくらい先を歩いている。

 私は、まったく無意識に、駆け足でその彼の後を追っていた。 

 大井町線のホームに続く角を、彼は曲がっていった。続いて自分もそうする。

 と、その姿が消えていた。

 すぐ近くにトイレがあり、階段出口があり、駅のホームに続く道がある。

 その三つの選択肢のうちの、どれか以外にはない。

 考えた末、私は彼がトイレに行ったのだ、と踏んで、それから三十分近く、その場で立って待った。

 でも、彼は出てこなかった。

 大井町線の車両の長椅子に座り、鞄の中から茨木のり子の詩集を取り出して眺めたが、まったく読む気がしなかった。

 私は車窓の先の、流れゆく暗闇を見つめながら、ただひたすらに、鉄くんのことを思っていた。 

 とにかく、彼に会いたかった。

 彼は、どこかへ消えてしまったわけではない。ただ、毎朝乗り込む電車が変わっただけなのは、もうわかっている。

 彼を追って、自分もその電車に乗り込むことは、いつでもできるのだ。

 先日の第一回の鉄会のおり、すずと里美とで、こんなことを話していたのを覚えていた。

 彼が自分たちの体をまさぐっているとき、彼はいわゆるオヤジくさいスケベ心で、そうしているのだろうか、と。

 断じて違う、というのが、その共通した結論だった。 

 それは、彼の表情を見ていればわかるのだ、と。

 私はそれを聞いたとき、お腹の底から理解できるものがあった。

 さっきまで、私の体を買っていた男たちの手つきと、鉄くんのそれとを比較してみればわかる。

 鉄くんが、地図を持たない旅人なのだとしたら、男たちはその土地に土着し、日々生活する労働者プロレタリアートだ。

 彼らはーーもうあまりにその土地に、長く住みすぎているのだ。

 そして、その土地にいずれ埋葬される。

 その体はやがて腐敗し、さまざまな虫に食われ、微生物に分解され……その土地とひとつになるのだ。

 ……鉄くんに、猛烈に会いたくなっていた。

 またあの手で彼に触れられることは、もう二度とないのだろうか。

 すると急にまた、いったん収まったと思ったはずの、すずや里美への嫉妬が、ぶり返していた。 

 そんなことを考えていたとき、スマホにラインを着信した。

 鉄会の、グループラインだ。

 内容は、第二回の鉄会の詳細だった。場所は、同じあの中目黒の居酒屋。

 ただ、最後にこんなメッセージが書き加えられてある。

「メンバーが、さらに一人増えたのでよろしく」

 と。

 私はお腹の中に黒い何かがとぐろを巻いて溜まっていくような、そんな感覚を覚えながら、

「参加します」

 とだけ返信を送った。



 その日は、新しいメンバーを含めた四人で席に着いたころから、なにか様子がおかしかった。

 すずが私の隣で、しきりにそわそわしている。

 新たに「鉄会」に加入したそのメンバーは、新井千春、といった。年齢は二十四歳。学芸大学にあるカフェで働いている。

 小柄で、一見十代にも見えるような、そんなあどけなさがあった。

 その千春と里美が、なにか結託してーーこの私を無視するような、そんな態度を取り続けていた。

 最初のうちは、あえて気にしないようにしていた。が、それもだんだんと目に余ってくるようになっていた。

 二人はすずとは普通に話をしているが、そこに自分が混ざっていくと、途端に不愉快そうに口を閉ざす。

 特に気になるのは、里美のその変わりようだった。

 ついに腹に据えかね、彼女たちに向かって口を開こうとしたそのとき、先にすずが、

「……ねえ。なんなのさっきから、あんたたち」

 と二人にいった。

 二人は一瞬ハッとした後で、それから私の顔を冷ややかに流し見た。

「そんな態度さ、よくないと思うよ。せっかくの場なのに。弓子さんに対して、失礼だとは思わないの。何か言いたいことがあるんなら、ハッキリそう言えばいいじゃないの」

 里美と千春は顔を見合わせると、フッ、と鼻で笑って何かブツブツと聞き取れないことを言い合っていた。特に里美のーー私を見る目に何か非常に強い軽蔑のようなものを感じる。

「……」

「……だったら、言いますけど」

 里美の目は、とても強かった。また唇が少し震えている。

「先日あなたが、渋谷のラブホテル街に立っていて、中年の男性と、ホテルに入っていくのを見たんです」

 里美はそう言った。私は一瞬息が詰まった。

「あれはいったい、何をしてたんですか?」

 隣のすずが目を見開いて、私を見ているのがわかった。

「……それって、路上売春じゃないんですか」

 千春がそう、上目遣いで呟くように言った。

 私は、黙り込んでしまった。何も言わないでいると、里美のせきが切れた。

「正直私たちは、そういう女性と、鉄くんのことを語り合いたい、とは全然思わないんです」

 千春が隣で、しきりにうなずいている。

 私は何も答えることなく、ただうつむいていた。勝ち誇ったような顔をしているのは初対面の千春で、里美はどこか悲しげな、そんな顔でこの私を見つめ続けていた。



「ごめんね」

 会は予定の時間を切り上げてすぐにお開きになり、千春と里美は連れ立って、そそくさと立ち去っていった。

 残された私に、すずがそう声をかけてきた。

「会が始まるまで、私全然二人から聞かされてなかったんだ。ほんとだよ。信じてね」

 すずは終始すまなそうな、そんな顔をしている。

 でもそのことは、さっき彼女が私よりも先に口にしてくれた言葉に現れているように思った。

「ううん」

「……ちょっと私もびっくりしちゃったけどーーでもさ、だからって、それで鉄くんのこと喋っちゃいけない、なんてことにはなんないよね。だから、やっぱりおかしいよ」

 しばらく黙ったあとで、すずがまた口を開いた。

「実はね……私も似たようなこと、してるんだ」

 夜の山手通りを、人と車の波が次々通りすぎていく。それを目で追いながらすずは続けた。

「担当に貢ぐには派遣の仕事だけじゃ全然足りなくてーー彼がスカウトを紹介してくれて、高田馬場のデリで働いてる。本番ありの、裏風俗」

「そうなの」

「うん。掛けでは遊んでない、なんて前に言っちゃったんだけど、それも嘘。実は三百万くらい残ってる。それでも担当が喜んでくれるから、シャンパンもどんどん開けちゃう」

 来週から半月ほど、新潟まで「出稼ぎ」に行くのだ、とすずは言った。その派遣されるお店との段取りも、担当とスカウトがつけた。

「正直だから、里美ちゃんが言ってたことに、私はうんとは言えないし、言いたくもない。私がそんなだからって、それで鉄くんのこと喋っちゃいけないなんてさ」

 私もすずと同じように、山手通りを流れる車のヘッドライトを眺めていた。風が強くて肌寒い。

「こう言っちゃなんだけど、弓子さんの話を聞いて、もっと仲良くなれるかも、なんて思っちゃった。どんな事情があってやってるかは知らないけど、それも別にどうでもいいというか」

 だからぜひ、この会を抜けようとは思わないで欲しいんだ。そうすずは言った。

 そうは言っても、あの二人が納得しないのではないのだろうか。

「私から、話をしてみる。自分のことも、そのとき正直に全部話す」

「そんなこと、しなくていい」

「ううん。いいんだよ。その方が絶対効果あるし。それにべつに自分が好きでやってるんだから、非難される筋合いもないし。でもし、それでもダメなら、これで『鉄会』は解散する。ね。それでいいでしょ」


     5


 私は、鉄くんに会いたくてたまらない感情を、もう抑えることができなくなっていた。

 この感情は、到底その上にフタをして見過ごすことができるような、そんなものではないのだった。

 仮にその結果、彼にどう思われようと、嫌われようと、もうどうでもいい。

 とにかく私は、鉄くんに会いたい。

 そう決めた私は、その日も普段どおりの時間に起きると、準備をしてから家を出た。

 上野毛の駅からは、前回と同じく、普段の一本後の電車に乗り込んだ。今度は変装は一切していない。

 立つ場所も、扉わきの元いたところに戻す。

 等々力の駅に着くまでの間、私の心臓は、いまにも飛び出してしまいそうなほどに高鳴り続けていた。やがてアナウンスが聞こえ、電車が停車するために速度を落とし始めるとーーその緊張は頂点に達した。

 扉が開くと、しばらくして鉄くんが乗り込んできた。

 いつもと変わらない、彼だ。私はとにかく嬉しかった。

 その彼と、目があった。明らかに、この私に気がついている。

 私は、その場に立ちすくんだ。一歩も動けなかった。

 でも、心のうちではーー彼がまた、私に寄り添ってくれることを、期待していた。

 鉄くんはでも、そうはしてくれなかった。

 向こう側の扉の近くに立って、ただまっすぐに、電車の進行方向を見ている。私と目を合わせることもない。

 でも、顔を自分からそむけるようなことはしなかった。

 私から近づいて行くことは、どうしてもできなかった。

 自由が丘に到着すると、降車する人々の流れとともに、彼もホームにおり立ち、そのまま去っていった。つられるようにして電車をおりた私は、ただ、見えなくなるまで彼の後ろ姿を目で追うことしかできなかった。



 めぼしい刃物が見当たらなかったので、先日里美を刺し殺すために購入した包丁を取り出すと、自分の部屋のベッドの上で左の手首の上にあて、思い切り引き切った。

 ぱっくりと白い肉が見え、傷口が開いた途端、そこから血が溢れ出した。

 みるみるうちに、グレーのベッドシーツを赤黒い色で染めていく。

 そのさまを、私はただぼんやりと眺めていた。

 それほど痛みは感じなかった。これで死ねるだろうか、と考えているうちに、少し気分が悪くなり、そのまま気を失った。 

 母親の発狂するような声で目を覚ますと、ベッドの半分くらいの面積が血で変色していた。その場で気を失っていた私は、上半身血まみれになっていたが、手首からの出血は止まっていた。

 母親が呼んだ救急隊員の人は、静脈を切っただけのようですから大丈夫でしょう、と説明していた。

 病院に運ばれ、傷口を縫われて、自宅に帰ってきた。

 円山町に行くこともできず、カーテンを閉めきり、電気もつけない部屋の中で、ただひたすらじっとしていた。

 何も食べられず、眠くもない。

 何も考えられずに、呆然としていた。

 そんなとき、スマホが着信した。床の上のそれが、まるで発光虫のように光り輝いている。

 すずからの電話だった。

 何か嫌な予感がし、胸騒ぎがしたから電話した。そうすずは、開口一番に言った。

「大丈夫?」

 私はうん、と答えた。

 すると彼女は、こんな話をし始めた。

 実は最近、鉄会のグループラインが、一つの話題で持ちきりになっている。

 このころ鉄くんに、彼女ができたんじゃないのか、というのだ。

 それを言い出したのは、里美だ。

 彼が里美に近づかなくなっていらい、彼女はずっと、どうやら半分ストーカーのようになって、そのことを調べていたらしい。

 どうやら、その相手はーー鉄くんと同じ高校の同学年生で、黒髪おかっぱの、恐ろしいほどの美少女だという。

 名前を鷺沢、あだ名を「サギ」という。

「サギ……」

 私は口に出して、その名前を復唱した。

 鉄くんが自分を避けるようになったのは、その女が原因なのか。

「あのあと、私も里美ちゃんと千春ちゃんに、自分の話を全部したのね。そしたらーー案の定私も弓子さんと同じ扱いになった」

 そう言って、すずは笑った。

「でねーー気になるのは、最近ちょっと、里美ちゃんの様子がおかしいんだ」

 どういうこと? と聞いた。

「なんかすごくーー精神的に不安定、というか。鉄くんに相手にされなくなったのが、相当ショックみたいで」

 里美の、あの思い詰めたような表情を、私はしきりに思い返していた。

「私は別に、鉄くんに『本カノ』がいても、そんなの全然おかしくないと思うし、そういうのって、担当とのことでももう慣れちゃってるから、なんでもないんだけど。でもその里美ちゃんがね、そのあとでこんなことを言ったの」

 しばらく間を置いてから、すずは続けた。

「もしーーあなたたちが私たちとまた話がしたいんなら、そのサギ、って子をどうにかしてごらんなさいよ、って。ねえ、どう思う?」

 私は座っていた椅子から立ち上がると、部屋の明かりをつけた。そして二、三日ぶりに、部屋のカーテンを開けた。

 窓の外には、宵闇が広がっている。

「……このままあの里美ちゃんを放っておくとーーそのうち自分でなにか、そのサギって子にしてしまいそうで……なんか私、怖いんだよ」

 私はただじっと、窓の外を眺め続けていた。

 母親は出かけているのか寝ているのか、家の中はさっきから物音ひとつ聞こえない。

「……そのサギって子を、どうにかすればいいの」

 言うとすずは、えっ? と聞き返した。

 サギって子をどうにかする、サギって子をどうにかする、サギって子をどうにかする、サギって子をどうにかする。そう私は、心の中で繰り返した。

「いや、そうなんだけど……って言うよりーーむしろ私たちは、ってーーねえ弓子さん、聞いてる?」

 私は、耳に当てていたスマホを離した。

 そして、黙って目を閉じた。

 手首の傷が、うずき出している。

 手元のスマホから、すずがまだ何か言っているのが聞こえていた。


 ……ねえ、鉄くん。

 もし私が、そのサギって子をどうにかしたらーーあなたはもう一度、この私に触れてくれるかな。

 約束して。


 ……鉄くん鉄くん鉄くん。

 私は、鉄くんのことが大好き。



 #3に続く

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