第4話

「化学のレポートをね、一緒に書こうって言った日、覚えてる? 追い返されちゃった私に、持田さんが謝るように言ってくれたんでしょ。それでね、自転車置き場で一緒になって、すぐに謝ってくれたの。さっきは悪かったって」


 彼女は自分のポケットから、河原で無くしたというボロボロのキーホルダーを取りだした。

地域清掃活動で私が見つけた、赤い自転車のキーホルダーだ。


「これはね、快斗からもらったの。小学5年生の時の誕生日プレゼント。選んだのは快斗のお母さんだったかもしれないけど、渡してくれたのは快斗だったから」


 それを握りしめた手に、そっと頬ずりする彼女の恋は、本物の恋だ。


「だからね。その……。もし、快斗のことで困ったことがあったら……。わ、私が言うのも変だけど、相談にのってあげられるかなって……。よく知ってるし。快斗が持田さんと一緒にいて幸せなんだったら、私はそれで……」


 快斗の応援するの? 

この状況で? 

だから私を呼んだの?


「とりあえず何にも困ってないよ。ただの友達だから」


 館山さんがうらやましい。

私も出来ることなら、こんな恋がしたかった。


「ご、ゴメンなさい! 気を悪くさせるつもりはなかったの。あれ? なんでこんな話になった? わ、私は、一緒にカラオケに行ってみたいって話をしたかったのに……。やだ。逆になんか、私の方がやってること気持ち悪いよね。やだ。私なにやってんだろ」

「気持ち悪いとか、そんなこと思ってないよ。カラオケもゲーセンも、落ち着いたら一緒に行こう。喉の調子がよくなったら、絶対行こうね」

「あ……。そっか。そういう話だったよね。ゴメンね。ありがとう」


 彼女が本当にもじもじと申し訳なさそうに恥じているから、私だって許さざるをえない。

可愛いは正義だ。

これで彼女と仲良くなれるのなら、これはこれでよかったのかもしれない。


「館山さんは、快斗のこと好きなんだ」

「う、うん……」

「そっか。分かった。だったらいいよ」

「内緒ね」

「もちろん」


 本気の恋をする女の子に、偽物の私が敵うわけないじゃない。

真っ赤な顔でうつむく彼女の、本当の気持ちが知れてよかった。

それなら私も応援出来る。


「持田さんは、カラオケでどんな曲を歌うの?」

「あー。そうだね。できるだけみんなで盛り上がれる曲がいいかなーって思ってるから……」


 いいなぁ。恋する女の子。

私も一度でいいから、ちゃんとした恋愛してみたいな。

どうすればこんなに綺麗に可愛くなれるんだろう。

鉄壁の真面目優等生が、学校帰りに不要な寄り道なんてしたくないと言っていた女の子が、好きな人とカラオケ行きたくて一生懸命になってる。


 動画サイトで人気曲を検索し、その中から彼女の好みも考慮して、歌えそうな曲を一緒に選ぶ。

男性ボーカルでも女性ボーカルでも、練習してて歌いにくかったらキーは変えられるよとか話してたら、ずっと黙って聞いていた坂下くんが不意に口を挟んだ。


「なんかこのまま、本当にカラオケ行きたい気分になってくるな」

「えー! そんなの無理だよ。こんな大変だなんて知らなかった。いきなりなんて絶対無理!」


 館山さんの真面目さは、天然の真面目さだった。

私は彼女の純真につけ込んで、自分のピンチまで乗り切ろうとしている。


「そうだよ。ちゃんと練習してからじゃないと!」

「無理無理無理!」

「あぁ……、はいはい。じゃあテスト終わってからだね」

「テスト終わって、練習すんでからだよね。ね、持田さん!」

「うん」


 館山さんのピュアな意気込みの前に、自分が恥ずかしくなる。

こんなイイ子と比べられたら、私なんか霞んで当たり前だ。

いま坂下くんはどんな思いで、私と館山さんを見ているんだろう。

カラオケ、行ってみたいけど、この人の前で自分が歌うなんて想像出来ない。


「坂下くんはさ、どんな曲歌うの?」

「……。俺?」

 多分一生聴くことはないんだろうな。

「別に。歌いたいもん歌うよ」

「そのうち行けたらいいね」


 思ってもみない言葉が、サラリと自分の口から出た。

食べ終わったトレイを返却口に戻し、「テスト頑張ろうね」とか言って、自転車を押す彼女と別れる。

夕暮れの、沈む日が延び始めた街を、坂下くんとなんとなく並んで歩く。

こやって一緒に帰るのも久しぶり。

あぁ、久しぶりっていう表現の方が間違ってるのか。

一緒に帰れてラッキーとか?


 ごちゃごちゃした繁華街の駅までの短い距離を、ゆっくりゆっくり歩く。

この時間を出来るだけ長引かせたくて、本当は帰りたくなくて。

何にも話さずに居てくれるのは、お互いに話すことがないからじゃなくて、話したいけど話せることがないから。

私がワザとゆっくり歩いていることを彼は気づいてるはずなのに、こんな速さに合わせてくれているのは、さっさと行ってしまわないのは、彼も私と同じ気持ちだからなんだと、信じていたい。


「あ、ちょっと待って」


 その彼が立ち止まった。

スマホを取り出し、何かをしている。

私はその姿をじっと眺めながら、この時間が永遠に続けばいいと思ってる。

帰ろうとしない彼のことを、自分と同じ気持ちだと、勝手に都合よく解釈してる。

全く表情の動かない彼に、自分の願望を重ねている。

ねぇ。もし今私がここで「好き」って言ったら、どうする? 


「……。私も、あんな風な本物の恋がしたかったな」

「本物って?」

「館山さんみたいなヤツ」

「そういうのに、本物とか偽物とかあったんだ」

「いいなって思わなかった?」

「どうだろ」


 彼は操作していた手を止め、スマホをポケットに突っ込む。

繁華街沿いに通る裏路地で、ぽっかり空いた秘密基地みたいな小さな空き地だ。

取って付けたような商店街の立て看板と、「ゴミを捨てるな」の文字。

なんでこの場所だけ誰からも忘れさられたように、取り残されているんだろう。

この想いは簡単に捨てられるようなゴミなんかじゃない。

ここでこの人と一緒にいたことは、ずっと私に残り続けるだろう。

キュッと固く閉じていた彼の唇が動いた。


「じゃあ早く、美羽音も好きな人見つけないとな」

「なにそれ」

「だって、『本物』の恋がしたいんだろ?」


 たった今、この瞬間に気づいたことがある。

彼は私と話す時、自分の表情を意図して殺している。

私に表情を悟られないように、必死で抑えている。

だからこんなにも、私は彼のことを見失っていたんだ。


「俺は人の気持ちに、本物とか偽物があるなんてのは分からないけど、美羽音がそう思うんなら、そうだってことなんだろ。お前がこれから好きになるのが、どんなのだか知らないけど、それがしたいってんなら、ちゃんと好きな人作って付き合えばいいんじゃね」

「好きな人作るって? 好きな人って、作りだせるものなの?」

「いないんだろ? 今はそういう人。だからそんなこと、言ってんだろうし」


 私の好きな人は坂下くんだ。

すぐ目の前にいるのに。

それを否定されたら、私には本当に何も出来ない。

誰かを好きになることが、こんなにも痛みを伴うものだと知らなかった。


「俺のことは、ホンモノじゃなくて悪かったな。ま、でも冷静になって考えてみれば、当たり前だよな。これまで、ほとんどしゃべったこともなかったんだし。なんだっけ、唯一例外的なやつ。あぁ、一目惚れっての? だけど、そんなんでもないんだろ」

「だって、一目惚れとかじゃないし!」

「うん。だから、早くちゃんとした好きな人を見つけた方がいいよ。美羽音がそうするって言うんなら、俺もそうする」

「そうするって……。なにそれ。じゃあ私が、好きな人なんか作らないって言ったら?」

「それで『じゃあやめます』ってやめられるのが、お前のいう『好きのホンモノ』ってヤツなの?」

「違う。それは違う……よね」

「だろ?」


 この人とようやく目が合った。

私なんかより、ずっとずっと穏やかにきっちりと笑みを浮かべて、しっかりとした意志を持って目を細める。


「だからお互いに、頑張ろうな」


 こんな爽やか過ぎる笑顔を、完璧に作れる人なんて知らない。

「あはは」と笑って歩き出す彼は、予定されていたプログラムで動く立体3D映像みたいだ。

さっきまで一生懸命、何を話すか必死で考えて話していた雑談が、こんなにも白々しくなるなんて。

今の彼の方が、全部嘘か幻みたいだ。

にこにこ笑って「また明日」なんて手を振って、ホント馬鹿みたい。

彼の姿が改札の向こうに見えなくなって、私はようやく自分が息をしていなかったことを思い出した。


 もう二度とこんなことしない。

一生しない。

死んでもしない。

ボロボロ涙が止まらなくて、2分遅れでやって来た夕方の電車は信じられないくらいのぎゅうぎゅうで、どこにも乗れるところなんてなくて、私の入り込める余地はこんなところにもないのだと、走り去る電車を見送りながら余計に泣いた。


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