第32話 引っ越し

ドンドンドン、思いっきりドアを叩く音で起こされた。この家には、先日引っ越して来たばかりで、まだ荷解きも終えておらず、二階左、と青のマジックで書かれた段ボールが部屋の北側にゴロゴロ置かれていた。同じ部屋に寝ていた夫は、まだ寝ている。私は急いでドアを開けた。誰も居ない。ねえねえ、夫を起こし、今、大きな音が聞こえなかった?ドアをノックされたんだけど、と聞いても聞こえなかったと返ってきただけだった。廊下の反対側に中学生の息子が寝ていたので、息子を起こし聞いてみたが、答えは夫と同じだった。ドアを殴る様な音に怒りの感情も混ざっていた様に感じた。

パシッとかパキッとか小さなラップ音は、一階で良く聞こえた。自分の親世代が建てた感じの古い和風モダンな二階建ての家で、二階の各部屋の雨戸には、蝙蝠が巣繰っていて糞が溢れ返って居た。一階にリビングとダイニングが在ったが、床がベコベコで、納戸はカビ臭く、お風呂は浴槽がひび割れ、とても寒かった。二階には小さな部屋が三つ在った。テレビは置けば映ると思っていたが、映らなくて驚いた。アンテナは自分達で用意しないといけなかったし、取り付けに更に業者を呼ばないといけなかった。何万円もした。これもまた驚いた。今まで恵まれた生活をして居たのだなと痛感した。

この家は借家で、古い住宅地の真ん中にあった。庭も閑散としていて、私はもともと植えられていた樹木の根元に少しだけ草花を植えたりした。まぁ古いし、ギシギシ言うし。そうそう。と、あのラップ音をすっかり忘れて家の周りを一周したら、北西の角に三十センチ四方位の小さな祠が在った。私はしゃがんで顔を近付け覗き込んで見た。目が合った。ん?思わず後退りをしたが、気を取り直して、もう一度覗いてみる。握り拳位だったろうか、綺麗に赤く縁取られた大きな一つだけの目が、ピカッと見開いて、こちらを見ていた。おっ、私は仰け反り、後ろ手をジャリジャリした地面に付いて、変な格好でその場から離れた。手と足を同時に出しながらも、そんな分けないよな、と自分に言い聞かせていた。

引っ越しする家を決めかねて、この辺の住宅地をぐるぐる歩いて廻って居る時に、この家は何だか微妙な空気を醸し出して居たのだが、とにかく家賃が安かったので、ここに決めた。激安だった。

この家に棲み始めて暫くすると、夫が寝込む様になった。毎日早朝より電車に乗り、東京まで通って居たのに、起きられなくなり、仕事が出来なくなった。

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