第12話 彼は誰(かわたれ)の女
或る日の暮れ方のこと。公ノ森市の中央公園にて。
空の色が
長い並木道を(はじめてマリアンナと来た時も通った道だ)歩いていると、正人の視線は、ひとり外灯の下に佇む小さな人影へと落ちた。
幼い女の子だった。
いまにも泣き出しそうで、それを必死で我慢しているといった表情だ。他の通行人はそれに気づいているのかいないのか見向きもせず、足早に通りすぎていく。
正人は心の中で思った、
『一人ぼっちで、すごく寂しそうに見える……。でも、近づいていって誰かに誤解されたらどうしよう? きっと関わらないほうがいいな』
無視しようと思いながらも、後ろ髪引かれる思いで立ち止まっていると、女の子が彼に気づいた。涙で潤んだ瞳が釘づけになった。正人が視線を逸らし、去ろうとする前に、袖が引っ張られるのを感じた。
おそるおそる視線を落とせば、
「行かないで、ニイチャマ!」
「に……ニイチャマ?」
突拍子もない呼び方をされ、ちょっと声が裏返ってしまった。たぶん兄様と言いたいのだろう。あるいは兄ちゃんか。自分に妹はいないのだけど。
「あっちで、叔母チャマが待ってます。来るですニイチャマ!」
「あ、待って!?」
その哀願を無視できずに、正人は彼女を追いかけた。この公園の奥には林があり、そこを舗装された小道が通っているが、少女はそれを無視して藪の中に入った。
木をかわし、草をまたいで、どのくらい歩いただろうか。やっと、彼女の保護者らしき人が待つ場所へ辿り着いた。
ぽつねんと生えた菩提樹の下にベンチがあって、そこに座っていた影が立ち上がった。菩提樹の白い花の、ほのかな甘い香りがした。
「これは驚いた。キミはつらく、永い旅をしてきたようだね」
しばしば夢の中で、もう現実には逢えない人が語りかけてくるように、その言葉は劇的で、唐突だった。
「え?」
少女が彼女の手の中に飛びこむのを眺める。そのシルエットは逆光を受けて陰り、ハッキリ顔を見ることは叶わない。背丈は正人にせまっていて、肉づきはいいが気高い品があった。
正人の顔に戸惑いを見てとったらしく、女は沈んでいく夕日に目を向けながら語りだした。
「喩え話をしよう。旅人は、とても長く、キツイ旅をした。
その昔、約束された楽園へ行くためだ。山を越え、海を渉り、原っぱを歩いた。代々家に伝わる地図はもちろん、田舎に残る言い伝えから都会に生まれた噂まで、手がかりになりそうなものは何でも頼りに、世界中を探して回った。なのに彼は目的地に辿り着くことなく、旅人のまま一生を終えた。
どうして辿り着けなかったか、分かるかい?」
「いえ……」
正人はかぶりを振った。女は答えた。
「その場所が、最初から存在しなかったからさ」
「………」
それは、愚かな者が「それはもう言われている!」と狂ったように叫び出しそうでありながら――実際には、その心を知る者はほとんどいないような。そんな、とても深い喩え話だった。
「それでも、旅してきたことは無駄ではないんだ。その旅自体が、キミを形作るのだからね。
誰も景色を楽しむことだけを目的に、旅行はしない。旅そのものに意味があるんだ」
たぶん、それは人生の意義について伝えた、一つの結論なのだろう。
けど正人には、何かがシックリこなかった
ヨガで瞑想している最中に時間が止まったような、菩提樹の方へ視線を向けて、
「……本当に、なかったんでしょうか?」
「ん? 確かに一度きりの人生では、世界中を探す時間は限られてるね。しかし、かつて楽園が本当に存在したという証拠はない。これもまた、真実ではないかな?」
そこまで話して、正人には己が言いたいことが分かった。
初対面の相手に、妙な話をすることになるが、それは向こうだって同じだろう。正人はキラキラと光る眼差しを女へと返し、
「証拠なら、あるじゃないですか? 信じたってことは、それだけで、あったっていう証拠なんだと思う。人は、存在してるものしか信じられないから」
女は、理解できない者を見たように
そして少し黙ってから、おかしそうに笑った。その笑い方は、久々に晴れ間がのぞいたみたいで、明るい中に気やすさを含んでいた。
「アハハハ! その場合、辿り着けなかったのはただ、行き方が解らなかったからということになる。そういうことだね?」
「それは………ハイ」
正人は認めた。女は少女の手を引いて歩き出す。少女はこちらに振り向きながら手を振った。
「キミの永い旅も、そろそろ終わる。その時に得たのが幸運か不運か。それは、キミ自身が決めることだ。成功を祈る」
「またね、ニイチャマ!」
――後になって正人は、この出来事が、はたしていつ頃あったことなのか、分からなくなっていることに気がついた。
ただ、あの大人の女性に、「つらく、永い旅をしてきた」と言われた時、『つらいことは確かにあったけど、そんなに長かったっけ?』と思ったことだけは、よく憶えている。
だからこの出来事があったのは、たぶんマリアンナの最初の死の後で、まだ魔法についてよく知らなかった頃だろうと、いまでは思っている。
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