第5話 告白(後編)

 やがて、午後の光も薄れ始めた頃、正人とマリアンナはカフェを出て、公ノ森市にある公園の遊歩道をぶらぶらと歩いていた。

 緑に色づく小道では、そよ風に葉がさらさらと音を立てていた。さながら町中にある静かなオアシスのようで、小さな池が茜色の空を映し出し、ベンチが通りすがりの人々を休息へ誘なっていた。


 2人は公園の中心へ来ると、噴水の前にある、古い木製のベンチに腰を下ろした。

 その噴水は芸術性の極致であり、体を優雅に反らせた女神の像が中央に立ち、肩に持ち上げた壺から泉へ水を注いでいた。夕日が水に金色の輝きを投げかけ、水面を光に染めていた。


「綺麗だよね、あの噴水」

 正人は呟いた。彼は知らなかったが、モデルであるギリシャの女神ヘーベは、神々の給仕役で、永遠の若さと生命の復活の象徴である。


「本当ね。普段のちっぽけな気持ちを、洗い流してくれるみたい」

 とマリアンナは答え、水の優しい流れに目を奪われながら話した。正人は無言のまま頷いて、同意を示した。


 この頃には、マリアンナ・キャヴェンデールという少女のことが、正人にも少しずつ分かってきていた。

 音楽と読書が好きで、どちらもクラシックが一番のお気に入り。

 ヴァイオリンが得意で、ピアノも少しだけ弾ける。芸術全般が好きだそうだが、正人がそういった分野に疎いのを気にした様子もなく、ずぶの素人にも理解できるように話してくれた。


「そう言えば、マリアンナさんはヴァイオリンが弾けるって言ってたけど、何かお気に入りの曲はあるの?」

「ええ。沢山あるけど、ベートーヴェンの〈春のソナタ〉が好きよ」

「へぇ、ベートーヴェンかぁ…。どんな曲なの?」

「〝春〟という名前は、ベートーヴェンの死後に付けられたらしいの。

でも、音楽は間違いなく春の本質を捉えていると思うんです。生き生きとして爽やかな調べが、まるで春への――新しい始まりへの、賛歌のように感じられるから」


 そこへ、子供たちの笑い声が聞こえてきて、なんとなく会話を止めた。

 子供たちは拾ってきた石を並べたり、それをヒモで囲ったり、みんな無邪気に遊んでいて、その純粋な喜びが伝わってくるようだった。


 しかし、彼らの母親がそろそろ家に帰るよう呼びかけると、静かな哀愁が正人を包んだ。彼は去っていく子供たちを見て、考えこむような表情を浮かべた。


 マリアンナは正人の様子の変化に気づいた。「正人さん…どうかしました?」と優しく心配を声に出して尋ねる。


 正人は一瞬躊躇した後、小さく、安心させるような笑顔を見せた。

「…ううん、何でもない。もうすぐ、帰る時間だなと思って」


 そのうち夜の帳が降りてきて、公園の灯りがぽつぽつと点灯し、小道を柔らかく照らし出した。湖面に映る月の反射が、幻想的な光景を作り出していた。


 突然、マリアンナは静かになり、泉の水面をじっと見つめた。


「あ、あの…言いたいことがあるんです」と彼女は小声で、ためらいがちに言った。

「ん、何?」


 よく聞こえなくて、正人は耳を近づけた。


 つ、と。


 頬をはじく、魔法のような音がした。


 予想外の動きで、マリアンナは身体を伸ばして正人の頬に優しくキスをしたのだ。

 彼女の顔は真っ赤になり、急いで後ろに下がった。


「わ、わたし………また会いたいです」


 そう口ごもりながら言い、正人の反応を見るのを恐れるかように、急いでそこから走り去った。


 正人は、マリアンナが夜の中に消えるのを呆然と見送った。心臓は高鳴り、キスの温もりがまだ頬に残っていた。


 その日は何もかもが、想像もしていなかった方向に進んだ。あの魔法をかけた時、こんな展開になるとは夢にも思わなかった。家にゆっくりと歩いて帰る途中、彼女の言葉や柔らかな唇の感覚が心に残り、正人の顔には笑みが浮かんだ。

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