第19話
日和子に拒絶されてから、一週間近く経過した。
学校での俺の生活に変わったところはない。元より日和子と会話を交わすことはほとんどなかったから。
ただ、日和子には変化があった。普段の気の強さはどこへやら、いつも疲れたようにおとなしくしている。遅刻が増えた。授業中にはいつも寝ている。元より授業態度が真面目な方ではなかったから、あまり周囲は不審には思っていないようだが。学校が終わるとさっさと教室を出て行く。表に出さないようにしているらしいが、明らかに消耗している。
水戸先輩は時折教室にやってきて俺を呼び出し、新たな情報はないかと聞いた。ない。もしかしたら何か進展はあるのかもしれないが、それを俺が知る術はない。けれどそれを正直に言うと先輩が日和子に何か口出しするかもしれないので、本当に何もないふりをした。
家では日和子はうちに来ないのかとせっつかれる。忙しいんだってさ、と取り繕った。本当は打診すらしていない。純粋に気まずいからというのもあるが、もし日和子が俺の両親の前で何事もなかったかのように振る舞っているのを見たら、これまでの俺たちの関係の全てが虚ろになるような気がした。
「あんた、日和子ちゃんと喧嘩でもした?」
ある日の夕飯時、母親にそう指摘されたときは少しどきりとした。
「別に、喧嘩はしてないけど」
単純に俺が日和子に拒絶されただけ。喧嘩だったらどれだけ良かったか、やり慣れているし一日で終わる。
「だから、日和子も俺も高校生なんだから、あんまりべたべたしてたらおかしいだろ」
「そんなことないでしょ」
きっぱりと俺の言葉を否定した母親は箸で味噌汁をかき混ぜ、一口啜った。父親が醤油の瓶を傾けながら「なんだなんだ」と声を上げる。
「お前、日和子ちゃんって、あのー、あの可愛い子だろ、妹の方。昔よくモールとかスペースランドとか一緒に行った……」
「ああ、まあ……」
懐かしい。スペースランドというのはここから電車で二十分ほど行ったところにある遊園地だ。かつては地域の目玉だったらしいが、俺たちが最後に行った十年ほど前には既に落ち目だったように思う。
正直、どんな乗り物があったのかもあまり覚えていない。一個覚えているのはお化け屋敷だ。その日一日の記憶全体はあやふやであるにもかかわらず、その前後だけは詳細に思い出せる。
「いやあ、懐かしいわね、お化け屋敷。覚えてる?」
ピンポイントで記憶の場所が挙げられたので俺は少し驚いた。あるいは、それだけ印象的なシーンだったのだろう。
覚えている。あの時まだ小学校低学年だった俺と日和子は二人でお化け屋敷に入ったんだった。今から思うと子供たちだけで入れる程度のショボいものだったのだろうが、記憶の中のその場所は恐怖に満ちあふれている。
日和子は当時からホラーが苦手だった。俺の手を強くぎゅっと握って一歩後ろを付いてきていた。俺はその手の温かさと震えを感じて、勇ましく歩を進めた。どんなお化けが出ても躊躇しなかった。
「いやぁ、あん時のあんたはかっこよかったね」
母親が笑いをこらえた表情で言う。俺は顔に血が上がるのを感じた。それを誤魔化すように白米を掻き込む。
結局俺は途中で泣き出してしまったのだった。ゾンビに驚かされて、大泣きをしながら走って逃げた。あの日以来ゾンビはトラウマだ。
それでも、日和子の手だけは離さなかった。あるいは、手がこわばって離れなかっただけかもしれない。
お化け屋敷から出た俺たちは家族たちに迎えられた。抱き締められて、頭を撫でられて、ほっとすると同時に泣いてしまったのを恥ずかしがって強がったのを覚えている。
両親たちの前で握った手を叩く掲げ――、
「何があっても俺が日和子を守るんだ、って」
「む、昔の話だろ」
俺は頭を抱えた。なんでこんなことをわざわざ両親の前で言ってしまったのだろう。何度だってからかわれている気がする。
……けれど、その思い自体は今もずっと変わることはない。俺ばっかりがあの時間に取り残されているのだろうか。あの時日和子は俺の横顔を見て笑ったはずなのに。
再度憂鬱がおそってきて箸を止めた。それを黒歴史に対する後悔だと思ったのか母親がけらけらと笑った。
「我が息子ながら罪な男だね。あんなの言われた側は忘れないよ」
「いや、忘れてるだろ……」
いつの話だと思ってるんだ。言った方としては黒歴史なので忘れたくても忘れられないが、日和子からすれば取るに足らない出来事だろう。それよりよっぽど、お化けが怖かった、という記憶の方が強いはずだ。
俺が肩を竦めると母親は目を伏せて首を振った。
「ま、あんたがそう思うならそうかもねぇ」
その言葉の意味が俺にはよくわからない。そこにどうして俺の主観が混ざるんだろう。日和子が覚えているかどうかは日和子自身の問題のはずなのに。
答に俺はまだ届かない。
その夜はもやもやを抱いて寝た。なにかを追いかける夢を見たような気がする。
§
目覚めた俺はそこはかとない寝不足に襲われていた。きちんと寝たはずなのだが、眠りの質が悪かったのだろうか。気を病んでいるのを自覚する。
学校に向かう道すがら考える。
同じ事でずっと頭を悩ませている。俺は一体何で悩んでいるのだろうか。ごちゃごちゃになった思考回路を端から少しずつ解きほぐしていく。
発端はなんだ。全ての始まりはあの七不思議の夜だ。だけどその時はなにも問題はなかった。俺たちはどんな世界に放り込まれたって、別に本当はどうでも良かったんだ。
やっぱりあの瞬間だ。日和子が俺を拒絶したから。どうしてだ。拒絶されたから悲しいのは当然で、だけどそれなら心は痛んでもモヤモヤはしないはずなのだ。俺がお節介しすぎて疎まれたのなら、それは単なる人間関係の失敗。よくあることだ、謝ればそれで終わりうる。
もしかして俺は怒っているのだろうか。
感情と思考に齟齬がある。そんな気がする。
頭から煙を出しながらふらふらと歩いていると、背後から軽く背中を叩かれた。
「つつみん、おっはよー」
振り返ればそこに立っているのは朝の顔、千川さんだ。明るい笑顔が今は普段よりもまぶしく見える。
俺は無理やり笑みを作って「おはよう」と挨拶した。千川さんは腕にギブスをはめているとは思えない陽気さで手を振った。
「どしたの? 体調悪い?」
「いや……ちょっと寝不足で……」
「おっと、夜遅くまで何してたのかな?」
欠伸をすると千川さんはポニーテールを揺らしてきゃらきゃらと笑った。俺は彼女の反応に苦笑する。やましいことで夜更かししていた方がどれだけマシか。
へらへらとしていると、千川さんがぽんと手を打って話題を変えた。
「そういえば最近ぴよちゃんもお疲れみたいなんだよね」
「……確かにそうかも」
かも、というかそうだ。端から見ていてもやはりわかるのか。
「つつみんはなんか知らない?」
ちらりと千川さんが俺を見た。きらん、と光る眼光は俺からスクープを得ようとしているようだ。だが残念ながらその期待に応えることは出来ない。
「いや、日和子に聞いてもはぐらかされちゃってさ」
俺は千川さんに余計な心配をかけないように明るい声で言った。声は変に裏返り、朝の通学路に溶け込む。
千川さんは意外そうな顔で俺を見た。丸い目で不思議そうに見られると、罪悪感のようなものがわいてくる。千川さんには失礼だが子供に咎められた時のような感覚だ。
「つつみんだったら知ってるかと思ったのにな。幼馴染なんだよね、仲良さそうだったし」
「でも……他人だから、知らないことはある」
思わず口を滑らした。突然の重い言葉に千川さんはぽかんと口を開けた。俺はしまったと思って取り繕う。
「いや、なんでもない、忘れて」
「んー……なんかさ」
千川さんがゆっくりと口を開いた。唇に人差し指を当て、斜め上に視線を向ける様子は今考えて言葉を紡いでいるのだということを示している。その真摯さに俺は水を差すことが出来なかった。
「他人なのって当たり前なんだよ」
ゆっくりと諭すような声音だった。俺は静かに黙らされる。
「家族だろうと、友達だろうと、幼馴染だろうと、他人は他人なの。黙ってたら解り合えないこともあるし、全てをさらけ出すのが絶対に正しいわけじゃない。それでも、知りたい事ってあるでしょ。互いを理解し合いたいって、そういうものだよ」
「……でも、日和子は教えてくれなかった」
俺は小さな、自分でも聞き逃してしまいそうなほどに小さな声で呟いた。千川さんは数秒黙って俺の顔を見ていた。俺は気まずくなって視線を道路に落とす。
はぁ、と小さく彼女が吐息を零す音。
「つつみんはいいの?」
「え?」
「教えてもらえないままでいいの?」
俺はぐっと答に詰まった。一瞬足が止まる。それを埋めるため、早足で歩き出す。
いいわけがない。日和子が困っていることがあるのならば助けたい、昔からそれが俺の為すべき事だ。だって俺は日和子の幼馴染なんだ。
それなのに、一歩を踏み込めないのは何故だ。
「でも……日和子が俺に干渉するなって」
「直接言われた?」
「ああ……幼馴染って肩書きに縋って、干渉されるのはいやだって」
「それで諦めちゃうの? もっと必死になればいいのに」
声音は優しくても、俺を叱るような響きがあった。
「ぴよちゃんのこと好きなんでしょ」
俺ははっとした。
思わず足が止まり、数歩先行することになった千川さんが振り返る。彼女は頬を掻いて困ったように笑った。
「って……そう見えたんだけど、違った?」
「いや、違わない」
そうだ。俺は日和子のことが好きだ。
気まぐれでワガママで子供っぽくて強がりでひねくれ者で、だけど本当は優しくて頑張り屋で笑顔が可愛くて怖がりで素直な彼女が。華奢で可愛い、幼馴染の女の子のことが好きだ。
義務じゃなくても守っていた。幼馴染だから出会ったけど、幼馴染じゃなくても好きになっていた。もしかしたらこれは、幼少からの刷り込みのせいなのかもしれない。でも、彼女の手を握った瞬間から気持ちは本物だ。
今になってそんな簡単なことに気付いた。
「俺は日和子のことが好きだ」
真っ直ぐに述べると、千川さんは目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「アツいなあ」
「ああ……ありがとう、千川さん。俺、日和子ともう一度話してくる!」
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