第18話
昼。
俺は日和子と話したい一心だった。そのためにはとりあえず彼女をどこかに呼び出さないといけない。教室を一人で出た。どこか人気のない教室に行こう。
廊下を歩き出したところで俺の目の前に月光のような人が現れた。すぅと透き通るような視線が俺の胸に差す。水戸先輩は口元に静かな笑みをたたえている。
初めて会ったときのことを思い出した。
「堤くん、少しいい?」
食堂よりもずっとクラスメイトが多い場なので、周囲の視線が痛い。戸惑いのまま巡らした視界の端に、日和子が教室を出て行くのが見えた。
「あっ……」
俺は思わず手を伸ばそうとしたが、水戸先輩がそこに立っているだけで俺の動作はほとんど封じられたも同然だった。俺は少し逡巡してから渋々と頷いた。昨日のこともあるし、先輩と遅かれ早かれ話す必要性はあった。
俺が同意したことで、水戸先輩は満足そうに頷いた。彼女がくるりと踵を返したのでそれについていく。向かう先は二号館の奥、第二図書室だ。
訪れるのは一週間かそこらぶりだが、室内には変化した点があった。机の上、積まれた資料の量がこの前よりも明らかに多い。何か調べ物をしていたのだろうか。
「どうぞ、座って」
促されたので俺は前に座ったのと同じ椅子に座った。水戸先輩も向かいに座る。今日はお弁当を持ってきていないらしい。俺にも言えることだが、食べないつもりだろうか。
水戸先輩はゆったりと指を組み首を傾げた。漆黒の瞳がゆっくりと細められる。嫌な目つきだ。悪意が感じられるわけではないのに、吸い寄せられて、そのまま縊り殺されそうだ。
「私が何について話したいか、わかるわよね」
「……日和子のこと、ですよね」
「その通り! 昨日は感動したわ、あんな光景滅多に見れるものですか」
「感動って……」
危ない状況だったのに、よくそんな言葉が出るものだ。
けれど、彼女らしい。あの状況でさえ目をキラキラと輝かせていた、怪異を愛すと言った彼女であればそうあってもおかしくない。異常であることが正常。
それを正当化するだけ、彼女の瞳は美しい。
「単刀直入に言うわね、私は彼女について知りたいの」
「……俺は、たいしたことは話せませんよ」
「私は貴方たちより遙かにオカルトに詳しいでしょう、何か助けになれるかもしれないわ」
ちらりと窺うようにこちらを見上げる表情は、確かに俺たちを案じているように見えた。だが、これは俺だけの問題ではなく、むしろ日和子の問題だ。躊躇していると、組んだ手に顎を乗せ先輩はゆったりと微笑んだ。
「もし貴方が教えてくれないのなら、私は独自に調査することにするわ。手段を選ばず、ね」
それがある種の脅迫であることくらい、すぐに理解できた。いや、彼女のそれはけっして駆け引きではない。先輩は自分の道を真っ直ぐに進んでいるだけで、それ以上でも以下でもない。
俺は覚悟を決めると、恐らく先輩がほしがっているであろう情報を開示した。異世界の存在、ヒーローとヴィラン、そこから生まれる怪異について。言葉にすると荒唐無稽で何を話しているんだと顔が熱くなる。日和子個人の話にしないようにした。
一通り話を聞き終えた水戸先輩は得心いったように深く頷いた。実際に昨日日和子が戦うところを見ていたためか、疑う様子はない。
「俺が知っているのはこれで全部です」
「ありがとう、とても興味深かったわ」
水戸先輩は指を組んだまま宙を見上げた。その姿ばかりは夢見る乙女のように見える。好奇心のままに森を飛び出した清楚な乙女。
「オカルト研の部長として彼女のような異常を学ぶことは義務よ、私はその全てを暴きたい!」
「異常って……」
俺はその言い方に少しもやもやして、頭を掻いた。水戸先輩は熱弁の勢いのまま頬を紅潮させていたが、俺のつれない態度に冷や水を浴びせかけられたように眉をひそめて俺を見た。
目力に押し負けそうになるが、それでも彼女の言葉を受け入れられるほど俺の心は"なあなあ"には出来ていない。俺は机の下で拳を握りしめた。自分でも驚くくらいに手汗が滲んでいた。
「そういう言い方、どうかと思いますけど」
「どうして? これは褒め言葉じゃない。人と違うということは素晴らしい事よ、人が出来ないことが出来る、非常識を常識に、幻想を現実に、おかしいことは、奇妙なことは、異常は、いいことなの」
ぐらぐらと価値観が歪まされそうになる。それでも、脳裏に日和子の笑顔が浮かんで踏みとどまれた。奪わせはしない、あの日常を俺は愛している。
「日和子は、普通の女の子です」
水戸先輩がきょとんとした。
「莫大な力で怪異と戦う、両親のいない女の子が?」
バン、と大きな音が耳に届いてから、俺は自分が机を強く叩いて立ち上がっていることに気付いた。机の上の資料が滑って床に落ちる。水戸先輩は目を丸くしていたけれど、それは俺の怒りに対してというよりは突然の大きな音ゆえに見えた。
心臓が大きな音をたてている。頭がくらくらとしかけて、大きく息を吐いた。
「ごめんなさい」
水戸先輩が平坦な声で謝った。けれどそれはきっと本心ではない。だって先輩からして見れば、何一つ失礼なことなんて言ってないのだ。
こんな人だとは思わなかった。
こんな人じゃないはずだった。
変わった人であっても、俺たちを傷つけることはないと思っていた。
俺は踵を返してドアの方へと向かった。失礼します、と掠れた声が先輩の耳に届いたかはわからない。
部屋を出た俺はみっともなくも居ても立ってもいられずに、日和子に電話をかけた。が、彼女は出ない。
教室に戻っても日和子に会うことは出来なかった。彼女が帰ってきたのは休み時間終わるギリギリで、目線の一つも合わなかった。
§
それから、何一つ行動を起こせないうちに学校が終わった。LHRが終わり、クラスメイトたちはそれぞれ教室を出て行く。
日和子はさっさと鞄を引っ掴んで行ってしまった。予想内のことだったので俺もその後を付いて教室を飛び出した。彼女の後ろを一定の距離をあけて付いていく。
日和子は帰り道とは違う方へと進んでいく。どこかへ買い物に行くのかとも思ったが、駅からも離れた方だ。閑静な住宅街。住んでないかぎり向かうような理由も思いつかないところだ。
一体何のつもりなのか、人通りが途絶えたところで聞こうと、俺は少し足を速めて距離を詰めた。だが、それよりも早く日和子がこちらを振り返った。
「よーくん、なんのつもり」
俺は彼女の腕を掴もうと伸ばしていた手を引っ込めて立ち止まった。日和子は猫のような目をまあるくして、俺の一挙手一投足をを見逃さないようにしていた。下手な言い訳は許さないつもりだろう。
上手い言い訳なんて思いつかない。こんなところで偶然なんて有り得ないだろう。いや、そもそも言い訳をする必要性もない。
俺はあえて険しい顔を作って日和子の顔を真っ直ぐ見た。
「今朝、なんであんなに早く学校にいたんだ?」
「言ったじゃん、朝練」
「嘘だろ」
きっぱりと指摘すると日和子はばつが悪そうに視線をそらした。少し長いカーディガンで隠れた手の甲を口元に当てる。それから彼女が大きくため息をついた。
「べつに、よーくんには関係ないでしょ」
吐き捨てるような言い方だった。関係ない、という言葉が深く突き刺さる。この期に及んで何を言っているんだ。関係しかないだろうに。
俺は苛立ちを覚えて彼女の表情を隠す手を掴んだ。日和子はそれを嫌がるように振り払う。彼女らしい華奢な力だったが、振り払われたという事実自体がショックで俺は思わず手を離した。
「なんで関係ないなんていうんだよ……心配するに決まってるだろ」
「それはあたしがよーくんの幼馴染だから?」
「そうだ」
どうしてそんな当然のことをわかってくれないのだろう。日和子は気まぐれで何を考えているのかわからないようなところはあるけれど、こういうすれ違いはなかったように思う。日和子が何かわけのわからないこと言いだしても、俺はそれに付き合った。日和子はそれで満足げに笑った。
拒否はあっても、拒絶はなかったはずだろう。
視線で強くそれを訴えかけると、日和子は黙って俯いた。彼女が強く拳を握っているのがわかった。
「そういうの、嫌なの」
「嫌ってなんだよ、昨日は感謝してるって言ったじゃねぇか……」
「感謝してるけど嫌。ありがたいけどさ、あたしよーくんにそんな風に心配されたいわけじゃない」
「意味わかんないぞ、気まぐれも大概にしろ」
「気まぐれじゃないよ……多分よーくんにはわかんないんだろうな」
日和子がどこか寂しそうに斜め下に視線を落とした。やめろ、勝手に失望しないでくれ。俺の優しさを否定しないでくれ。心配をかけるのが申し訳ないという気持ちなのか、俺の厚意がうっとうしいのか、頭の中にぼんやりと浮かぶ選択肢はどれも違うように見えた。
――あたし、よーくんのそういうところ好きだけど好きくない。
少し前に同じような矛盾をぶつけられたことを思い出す。あの時もその真意をわかりはしなかった。
「よーくんは幼馴染だからっていっつも言うけど、それって単なる他人なの」
「はぁ?」
「そんな肩書きに縋って、あたしに干渉してこないでよ」
日和子は冷静だった。せめて大きな声で怒鳴ってくれたならば、過敏になっているがためのヒステリーだと宥めることも出来たかもしれないのに。
他人という言葉が胸をえぐり、何度も耳の中で反響した。自分のアイデンティティーがぐらつく感覚。
俺が何も言い返さないのを見て、本当に失望してしまったかのように日和子が大きく嘆息した。彼女がくるりと踵を返す。
「じゃあ、そういうことだから」
すたすたと彼女が歩き出す。俺はその場に立ち尽くしたままでその背中が小さくなっていくのをぼんやりと見送った。
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