第3章
第17話
パンが焼ける匂いで目を覚ました。
むくりと上半身を起こして、しばらくぼんやりする。そこはかとない違和感にしばらくベッドの上で考え込む。
パン……焼け……ん? なんでだ? パンがひとりでに焼けることは有り得ない。ということは誰かが焼いて……誰か……なに……。寝ぼけた頭はうまく回らない。百聞は一見にしかずだ、俺はぼんやりしながらリビングへ向かう。
「おはよう、マイサン」
そこで合点がいった。そういえば帰ってくるのは今日だったな。新聞を読みながらコーヒーを飲む母親の向かいにはもう一枚トーストが置いてある。
勝手に用意されている飯のありがたみをかみしめつつ、向かいの席に座った。
「父さんは?」
「まだ寝てる。体力ないんだから」
「ふーん。お疲れ様」
「いやいや、仕事自体は金曜まででね。土日は遊んでたの、母さんたちバンジーしてきちゃった」
「むしろよりお疲れ様じゃん」
出張明けにバンジーに行くな。我が母親ながらアクティブさに恐れ入る。俺だったらきっと億劫で『家に帰る』以外なにもしたくないし、そして俺の性格は父親似である。
呆れ半分でトーストにマーガリンを塗っていると、母親が新聞をたたんでこちらを見た。
「日和子ちゃんは変わりない?」
「んー……まあ、ないよ」
変わりしかないのだが、伝えるわけにも行かないので言葉を濁した。いや、日和子の性格その他はまったく変化がないので嘘ではない。
だが、さすがは親と言うべきか、俺の言動の不審さに一瞬で気付いたらしい。眉をひそめた鋭い視線がこちらに向いて、俺はテストで悪い点を取った時みたいに目をそらした。
「なに、あんた日和子ちゃんになんかしたんじゃないでしょうね」
「なんかって何? してないよ」
「そう? あ、そうだ、日和子ちゃん呼びなさいよ、朝ご飯一緒に食べましょ」
「え、今? それはちょっと」
「いいから」
気恥ずかしさとか面倒な気持ちから渋ったが、「はやくはやく」と急かされた。多分寝てるんじゃねえかなぁ、と予防線を張って履歴の一番上に来ていた連絡先に電話をかける。
コール音がどれだけ続いても日和子は電話に出なかった。コールの回数を数えるのが面倒になったところで、俺は諦めて電話を切った。
「だめだ、出ない」
「あらそう」
母親が残念そうに肩を竦めたが、俺は逆に少しほっとしていた。昔は俺たち家族と日和子たちで出かけることも日常茶飯事だったはずなのに、いつからか恥ずかしい。何よりその思春期を自覚しているのが一番いやだ。
俺はトーストをざくざくと囓ってコーヒーで流し込んだ。皿を流しに置いてさっさとリビングを出る。
「なに、もう行くの」
「ああ」
「そうだ、日和子ちゃんを夕ご飯に誘っといてよ、積もる話もあるんだから」
「せいぜい二週間かそこらぶりだろ……」
「女の子同士には色々あるのよぉ」
「はいはい、言っとく」
俺は約束せずにリビングを出た。なんとなく、もう一度電話をかけようとしてやめた。代わりに「朝早くから悪かった」と当たり障りのないメッセージを送った。日和子がそれを読んだ痕跡はつかず、俺はスマホをしまった。
§
半ば逃げるように家を出たこともあって、普段よりもかなり早い時間に学校に着いてしまった。普段よりも人の少ない廊下を歩いて教室へ。
その途中で背中を叩かれた。振り返れば左腕を三角巾で吊った千川さんがにこにこ顔で立っていた。
「おはよー、つつみん」
「あ、千川さん……おはよう」
俺は挨拶をしてから彼女の腕に視線をやり、ほんの少しの間逡巡した。だが、ここで触れないのもどう考えても不自然だろう。
「腕……大丈夫?」
おそるおそる聞くと、千川さんは笑顔で右手をぱたぱた振った。
「大丈夫だいじょうぶ、右手あるし!」
「そっか」
「それに、家でじっとしてるなんて私の性に合わないから!」
千川さんが元気いっぱいに拳を握ってぴょんぴょん跳ねる。数日間家で休んでいるのがよっぽど苦痛だったのだろう。
「今、調査したいことが色々あるんだよ~、つつみんは昨日の事件知ってる?」
「昨日の事件って?」
「なんか、モールの屋上で火事があったーとかいうやつ。ま、結局は狂言だったみたいなんだけど、その時屋上にいた子達の間では『恐竜さんが火をふいた』とか噂になってるの」
「へ、へぇ……」
俺の背中を冷や汗が伝った。ちっちゃいこの間の噂とか、どういう情報網で入手しているんだよ。子供の口に戸は立てられない、証拠も何もないので小さい子の見間違い、と片付けられるだろうが。
千川さんは他にも気になる噂があるのか唇に人差し指を当てて天井を見上げた。
「それとは別に、昨晩このあたりに不審者が出たらしいよ?」
「そうなんだ」
「私も今朝来る途中に、怪しい人影を見たもん、ほんと怖いなぁ」
そういうちょっとした情報にも疑心暗鬼になってしまう。その不審者というのがヴィランなのでは? だとしたら日和子を傷つけうる存在になる。でも俺にはどうすることも出来ないし……ともやもやしてしまう。
千川さんが、はあ、と大きくため息をついた。
「帰りはわざわざ遠回りして商店街通んなきゃだな。あーあ、彼氏の一人や二人いれば送ってもらえるのに」
「二人いちゃだめだろ」
「あは、確かに。じゃあ一人でいいから私を守ってくれる人がいればなぁ」
「千川さんなら彼氏くらいすぐ出来そうなのに」
「お? 嬉しいこと言ってくれるね」
「可愛いし。ハムスターみたいで」
「んー、嬉しくない! でもありがとう! うーん、でもハムスターかー!」
矛盾した命令を出されたロボットみたいに千川さんが頭を抱えた。その様子も可愛らしいものに見える。
そうこうしているうちに教室に着いた。千川さんは新聞部の方へ向かうらしく、ドアの前でお別れだ。
ドアを開けて、俺はぱっと視線を巡らせた。真っ先に視線が向くのは自分の席よりも日和子の席だ。それはもはや反射である。
彼女はそこにいた。机に突っ伏していた彼女はすぅすぅと肩を上下させて眠っているらしい。俺は時計に目をやった。やっぱり始業のだいぶ前だ。こんな時間に日和子が学校にいるところなんて、ほとんど見たことがない。
不審じゃない程度に日和子の様子を見ながら側を通り抜ける。途中、机に鞄がぶつかって揺れた。日和子がぱっと顔を上げ、俺と目が合う。
「よーく……」
ぱっと日和子が口を抑えた。ごしごしと口の周りを袖でぬぐってから、猫みたいに冷静で悪戯っぽい笑みを作る。取り繕いが上手なことで。
「堤くんおはよぉ」
「……おはよう、蘭さん」
俺はとんとん、とポケットを叩いた。日和子が「はぁ?」という顔を作ったが、その中にスマホがあることを察したらしくこくんと頷いた。五秒にも満たないようなやりとりだ。
俺は自分の席に着くと、音楽を聴くふりをしてスマホを操作する。
『朝早いな』
ちらっと日和子に視線をやると、机にだらしなく突っ伏しながらスマホを指で操作しているのが見えた。画面の方でもすぐに反応があった。
『陸上部には朝練というものがあるのです』
胸を張ったヒヨコのイラストが送られてきた。名前とかけているのだろう、日和子のお気に入りのキャラクターだ。
『それは知ってるが、お前に部活に参加する意志があるのは知らなかった』
『超ありまーす。えらい。あたしを褒める権利をあげよう』
『えらーい』
眉をひそめた画像を送ると、それに対抗するように大量のヒヨコの画像が送られてきた。それもまったく会話の内容と関係がないようなものまで。
日和子の方を窺うと、スマホを見つめる横顔は楽しそうにニマニマしていた。仕方がないので付き合ってやる。『やれやれ』の画像を送った。
『今日、夕飯食ってくか?』
『食べに来てほしいの?』
『俺の母親がな』
『あ、おばさま帰ってきてるんだ。じゃあ行こうかな~』
ハートマーク。俺はなんとなくほっとして、肩を竦めた。日常が戻ってきたような気がして。
『なに食いたい?』
『ハンバーグ。オムライス』
『ガキかよ』
『味覚も可愛いでしょ』
『野菜も食べなさい』
『ミネストローネ』
『まあ、ありだな』
脳内で夕飯の献立を組み立てる。オムライス……卵あったかな。冷蔵庫の中身を思い出していると、日和子がくあと欠伸をした。
『それでは、ひよこはおねむだから寝まーす』
すやすやと眠るヒヨコの画像に、『おやすみ』を返した。腕を枕にして突っ伏した日和子は、そのうちに眠りについたのかその肩が規則的に上下しはじめた。早起きにプラスして朝練のせいで消耗しているのだろう。
そこでふと違和感が頭をよぎった。
自身でその正体を探るより早く、教室のドアが開き、答を提示した。
教室に入ってきたのは複数人の女子だ。手にタオルやらボトルを持っている彼女たちの共通点を俺は知っている。陸上部員だ。朝練から帰ってきたのだろう。そう、今朝練が終わったところなのだ。
俺は眠る日和子を見た。
朝練じゃない。朝練じゃなかった。朝練ならこんな早くに教室にいるわけがなかったのだ。だったら一体どうして日和子はこんな時間に学校に来ているんだ。ただの気まぐれならいい、俺を驚かせるためでもいい。
とにかくその理由が知りたかった。
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