第16話
「なんか、疲れちゃった」
水戸先輩と別れてしばらく歩いたところで、日和子が口を開いた。財布と携帯くらいしか入らない小さな鞄を俺に押しつけた日和子は、指先をこすり合わせながら大きなため息をついた。
「平気か? 怪我してたりしてないか?」
「あたしは平気。なんかね、全体的に身体が丈夫になったっぽい? ひよこ絶好調~」
ぶんぶんと日和子が腕を振り回した。疲れた、という割には元気いっぱいだ。その元気があるなら荷物を自分で持ってくれ。
まあ、実際は疲れたというのは精神的なものなのだろう。荷物だって自分で持てるのだ。それでも俺に持たせようとするのなら、それを甘んじて受け入れないといけない。
「よーくんは?」
「んあ?」
「こんなことに巻き込まれて、おかしくなってない?」
「なんだそれ」
確かに混乱したりびっくりしたりするようなことはたくさんあるけれども、おかしくなるようなことはない。むしろ自分でも不思議なくらいに冷静でいる。戦う日和子を見ているせいだ。俺が慌てたら、こいつに迷惑をかける。
「ならねぇよ。余計な心配するなよ」
俺の返答に日和子は「へへ」と笑った。どことなく、安心したように見える笑みだ。
「よーくんは、なんであたしに優しくしてくれるの?」
問いかけはシンプルだが、日和子から直接聞かれるのは珍しい。というより初めてかもしれない。
俺は考えて、言葉を選ぶ。
「お前は、頑張ってるからさ……優しくするのは当然だろ、幼馴染として、それは昔から……ずっとそうだったし……」
「うん、よーくんはそうだねぇ、昔っからあたしに優しいの」
日和子が俺にそっと寄り添った。俺からはつむじが見える。ふわりと漂う甘い香りにどきどきはしない。どちらかというと懐かしさすら感じるものだ。
「ありがと」
俺は間違ったことをしていないのだと己の正しさを直感した。
日和子は本当は可哀想な女の子だ。本人にそう言ったことは当然無いけれど。幼い頃に両親を亡くして、けれどそんなこと誰にも悟らせずに生きている、気丈で強くて可愛い女の子。昔からワガママさんなのは俺に対してだけで、普段は猫みたいに飄々としている。
彼女を不幸にしないのは俺の義務だ。
それは俺が彼女の幼馴染みとしてこの世に生を受けたからだ。
「なんだよ、殊勝だな」
「は? 文句あんの?」
「ない。いつももっと殊勝であれ」
「ムカつくなぁ。でも本当に、感謝はしてるの」
どことなく思わせぶりな言い方とか小さな声に違和感を覚えた。けれどその違和感を言語化するよりも先にマンションについてしまい、それ以上の言及のタイミングを俺は失ってしまった。きっと気のせいだ。
エントランスをくぐりぬけ、エレベーターに乗る。壁に背をつけて日和子が軽くため息をついた。薄い腹をさすりながらちらっとこちらを見る。
「ごはん食べ損ねちった」
「帰ったら軽くなんか作るか? 焼きそばとか」
「いいね。休日のお昼っぽーい」
そういえば俺たちがまだ小学生のとき、焼きそばを作って日和子に振る舞ったものだった。具のない焼きそばだ、当時はそれくらいしか作れなかった。日和子は文句を言わずに美味しいと食べてくれて。
それから随分レパートリーは増えた。日和子が、あれが食べたいこれが食べたいとリクエストしたせいだ。もしかしたら俺はおだてられると弱いのかもしれない。
エレベーターが目的の階に到達した。俺が『開く』を押している間に外に出た日和子が「げ」と声を上げて立ち止まった。何事かと背中を押して外に出る。
「げ」
まったく同じ声が出た。多分、あの生き物に相対した人間は同じ声が出る。
日和子の家の前に、さくらが立っていた。金の髪の美しい少女は、まるでこの世界に後付けされたオブジェクトのように少しも動かずに、一点を見つめている。
俺たちが一定の距離まで近づいたところで、気付いたモーションもなく彼女がこちらを振り返った。
「おつかれさま、君の帰還を待っていたよ」
ぱち、ぱち、と感情の一つもこもっていなさそうな拍手。身を引く仕草で警戒を示した日和子の代わりに俺は一歩前に出た。
さくらが冷たい目で俺を見た。口元に張り付いた薄ら寒い笑みに嫌悪感が湧いた。
「君は誰だったかな。まあいいや、それより中に入れてほしい。人に見られると都合が悪いのは君たちの方じゃないか?」
「……わかった」
日和子が部屋の鍵を開けた。二人に続いて俺も部屋に入る。何も言われなかったので問題はないのだろう。
彼女の性格からはあまり想像できないことだが、日和子の家は部屋の広さの割に物が少ないので片付いて見える。部屋の中はもしかしたら散らかっているのかもしれないが、少なくともリビングは。部屋の中にはもうしばらく入っていない。
ピンクのカバーの掛かったソファーにさくらは断りなく腰掛けた。テーブルの上のリモコンに手を伸ばしテレビをつける。
テレビではローカルニュースがやっていた。モールが映っている。
『――市内の大型商業施設にて、屋上で火災が発生したとの通報がありましたが、実際は火の手はありませんでした。施設関係者はいたずらの可能性を見て――』
さくらがテレビの電源を消した。顎を引き、わずかに首を傾げた角度で俺たちを見る。
「少し噂になってしまったみたいだね。君たちの事はバレていないだろうけど」
「それなんだが」
他人事みたいに平坦な調子で言うさくらは眉一つ動かさないまま俺に発言を促した。
「もっと人通りの多い場所だったらどうなるんだ? どうしても誤魔化せないだろ」
「ああ、その心配はあまり必要ないよ」
さくらがゆったりと脚を組んだが、それは余裕を見せるためのパフォーマンスのようで、そこには生の感情は読み取れなかった。
「ヴィランはこの世界の常識の揺らぎを狙うと言ったよね、たくさんの人が集まっているとその場の常識の強度は強くなる、基本的にはそこに手出しできないよ」
ひらりとさくらが手を振った。無責任な仕草に見えるが、とりあえず一安心をする。彼女の話す概念について全てを理解できるわけではないが、与えられた情報に対しては受け入れるべきだろう。
日和子は彼女の解説にあまり興味がないのか、あるいは俺が聞いていればいいと思ったのか台所に向かい冷蔵庫を開けた。「よーくんなんか飲むー?」と場違いな問いかけ。
「お茶……それで、お前は何しに来たんだよ」
「少なくとも君に用事があるわけではないよ」
さくらの視線が露骨に日和子に向いても俺は気にしなかった。日和子はさくらの方を努めて見ないようにしながら俺にお茶の入ったコップを差し出した。
日和子がぺたんと床に座る。両手でコップを握った彼女はそこでようやくさくらに視線を向けた。唇をお茶で湿らせる日和子の緊張やためらいなど一切無視してさくらは話を続ける。
「君に聞きたいことがあってきたのさ。蘭日和子、今回の事件のヴィランはどうなったのかな? 黒幕なしに怪異が起こることはない、すなわち黒幕たる本体の撃破が重要になるね」
日和子は何も言わずにお茶を飲んでいる。
「君はヴィランの気配を感じ取る力があるだろう。身を潜めている場合ならともかく、何かしらの事象を引き起こしたら反応が感じられるはずだ。どうだった?」
「逃がした」
日和子はぷいとそっぽを向いて無愛想に呟いた。
さくらがしばらく静止した。ロード時間、だ。瞬きもせず表情も変えず、日和子の言葉を処理するためだけの、間。やがてさくらはソファーから立ち上がった。
「そうか。君がそう言うならそうなんだろうね。残念ながらここにいない私はそれを確かめられないけれど」
さくらが皮肉っぽく首を傾げた。日和子はふんと鼻を鳴らして、それ以上のコミュニケーションなど不要だとでも言わんばかりに視線を落とす。
日和子を見下ろして、さくらは胸の前で手を組んだ。彼女の容姿も相まって純真無垢な少女のシルエットが形作られる。
「どうか気をつけて。ヴィラン本体を倒さないかぎり、怪異が止むことはない」
「ご忠告どーも」
「私は君にとても期待しているんだ。たいていの場合、私たちに協力してくれた人間はすぐにガタが来てしまう。けれど君は――とても優秀だ」
「……あぁ?」
「それじゃあ、動きがあればまた来るよ」
「待て――!」
俺の制止もむなしく、廊下へと向かったさくらは玄関のドアを通ることなく空間に掻き消えた。俺は大きく舌打ちをして、それに対して日和子がちいさく「やめな」と言った。
俺は日和子の肩を掴む。だが、あまりに華奢だったので俺はびっくりしてすぐに手を離した。
「身体、本当に無理してないか?」
「だいじょーぶ。あいつも言ってたでしょ、あたしは優秀なんだから」
とん、と日和子が自分の胸を叩く。その得意げな顔を見ていると俺はそれ以上口を出すのも出しゃばりな気がして、引いてしまう。
「それより、早くお昼にしてよね。あたしおなかすいてるんだから」
「……そうだな」
俺はぐらぐらとした気持ちを抱えながら、食事を作るために部屋を出た。
言葉にしないと気持ちがわからないだなんて、人間は不便だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます