第15話

「日和子っ!」


 思わずベンチの影から飛び出す。紙屑みたいに吹き飛んだ日和子は噴水にそのまま突っ込んだ。巻き上がった水飛沫は煙のように俺の視界から彼女を隠す。

 息が詰まって、足が止まった。反射的に眩暈がして吐きそうになる。それでも目を逸らせはしない。

 水煙の中、ゆらりと立ち上がる人影が浮かび上がった。熱のせいで揺らいだ空気が視界を晴らし、機嫌の悪い顔をした日和子の姿があらわになった。

 ちゃんと二本の脚で立っている。全身びしょ濡れだけど、それでも噴水の飛沫を光の粒子に変えて身に纏い、敵を意志の強い目でにらみつけている。

 日和子が一瞬だけこちらに視線を向け、親指を立てた。


「よーくんのくせにあたしの心配なんて百年はやい」

「でもっ」

「いいからよーくんは隠れてな、ひよこが二人まとめて守ってあげる」


 しっしと手で追い払われた。

 俺の心は隠れるなんて、と叫んでいるが俺が何をできるわけでもない。そう自分に言い聞かせベンチの裏に戻り、完全にトリップしてしまっている先輩を庇うように(というより勝手に動かないように)腕に触れた。

 視界の一部を奪われた恐竜も、日和子の姿を見つけたらしく大きく口を開きお得意の火を噴いた。日和子はそれを避けるのではなく、足下を蹴りつけた。噴水のタイルが割れ、水が噴き出す。

 水のベールに炎が触れもうもうと蒸気があがる。だが、火の勢いが強い。やばい、と思った瞬間日和子が蒸気の中から飛び出した。目くらましか! お粗末なものだが、片目のない相手には効果的だったらしい。

 恐竜が反応したときには既に日和子は眼前に迫っていた。今度は左眼球に直接着地。そのまま踏み台にして飛び去る。

 完全に視界を奪われた相手はパニックになったようだった。悲痛な叫びを上げ、地面を踏みならす。俺たちのいる場所までぐらぐらと揺れる。


「こっちだよぉ」


 日和子は高い木のてっぺんに両腕を広げ立っていた。身体を使って枝を揺らす。それに反応した恐竜は力任せのタックルを繰り出した。荒い音を立てて枝が砕ける。

 日和子はひらりと身を翻すと、高いフェンスに舞い降りた。不安定な足場の上を、かん、かんと音を立てて駆けていく。その音を頼りにして、よたよたと、しかし力強く恐竜が走り出す。

 けして広くはない屋上を、大きな質量が駆け回っている。この先起こりうることは想像に難くない。

 日和子はまるで足場の事なんて感じさせない足取りで速度を上げた。恐竜はそれをドスドスと追いかける。速度が上がっていき、巨体が振り回される。

 そこで日和子が足を止めた。恐竜が勢いのまま日和子の元へ突っ込む。減速することなく、トラックよりも大きな身体で一人の人間をはねようとする。

 その巨体に対して、フェンスはあまりに脆い。


「ばーか」


 銀の破片と黒い影が散るのがスローモーションみたいに見えた。青い空と白い雲を背景にした日和子は、やっぱり天使みたいだった。

 日和子が床に両手を挙げて着地した。その足下からざあと、目には見えないさざ波のようなものが広がるのが肌でわかった。その波になぞられるごと、砕けたタイルが、焦げた草木が修復されていく。有り得なかった風景が、どんどん現実に修正されていく。

 やがて恐竜のオブジェもまた、組み上がった。動く気配は、もうない。


「日和子、怪我は――」


 と声をかけたところで、人のざわめきが届いた。警備員か誰かが来たのだろう。

 日和子が俺の手を握った。反対の手では水戸先輩の手を。水戸先輩は握られた手をびくりとして見た。それから握り返す。


「日和子さん、貴女も、」

「話はあとです」


 日和子が俺たちの手を掴んだままフェンスの方へ駆けだした。高いフェンスをひとっ飛びだ。ぐんと強く引っ張られる感覚。手だけで繋がっているのが不安だったので、恥ずかしいながらも腕にしがみついた。

 内臓に浮遊感。裏通りへと落ちていく。恐怖はあっても不安はなかった。

 着地は静かだった。日和子に支えられた身は、重力を忘れてしまったかのように軽かった。彼女から手を離した瞬間、急に重力が感じられ、それが野暮ったくすらあった。


「水戸先輩、大丈夫ですか?」


 日和子に声をかけられた水戸先輩は、ぼんやりとして声も上げなかった。何も言えないのかもしれない。それも当然のことだろう。俺だって未だに受け入れられてはいないのだから。あるいは、さっきの落下が厳しかったのかもしれない。日和子が心配そうに顔を覗き込む。


「せーんぱい?」

「大丈夫、大丈夫よ……」


 顔を上げた先輩は綺麗な微笑みを浮かべていた。よく整っているものなのに、どこか冷たい。逆か。冷たいからこそ整って見えるのかもしれなかった。

 俺なんかよりもずっと他人の感情の機微に敏い日和子は一瞬言葉に詰まったが、それよりずっと空気を読むのが上手なので先輩に呼応するように笑みを作った。後頭部を掻いて、軽く頭を下げる。


「このこと、みんなには内緒にしてもらえません?」

「ええ、当然よ。神秘とは暴かれるものであると同時、文字通り秘められるべきものだもの」

「さすが先輩、話がわかる!」


 日和子が調子よく肩を叩いても、先輩はどこか堅い表情を崩しはしない。日和子が視線を巡らせて気まずい空気の埋め方を探しているようだった。


「……そういえば、ぬいぐるみ屋上に置いてきちゃいましたね」


 ふと思い至って口にする。せっかく取ったのに、混乱の最中にどこかに行ってしまった。屋上の隅に転がっているのか、はたまた回収されてしまっただろうか。もう一度取っても構わないのだがと思っていると、先輩がこちらを見た。

 それから静かに視線が伏せられる。長い睫毛は明るい光を拾って目元に影を作り、見ているこちらをどきりとさせた。


「いいの、あんなもの」


 桃色の唇から落ちた言葉に込められた真意なんて、俺にはわかるはずもない。

 どうして、と聞きたかった。あの時はあんなに喜んでくれたじゃないか。けれども、まるでさっきの事なんて全部上書きされてしまったようで、『あの時』について尋ねる自身を俺はもうすっかり失っていた。

 それから水戸先輩はとってつけたように「今日は楽しかったわ」といったけれど、気の利いた返事なんて出来るはずがなかった。

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