第8話

「――ちーちゃん!」


 日和子が手を離して残りの段を一気に跳んだ。 俺も慌てて階段を駆け下りる。ちょうど階段を降りてすぐのところに千川さんはいた。地面にへたり込んだ彼女の側、水戸先輩が倒れている。

 千川さんは俺たちの姿を見ると気が抜けたのか、大きな目に涙が浮かんだ。


「二人とも、無事だったんだ……」

「うん、ちーちゃんは?」

「私は全然平気! でも、あれ」


 千川さんが指さす廊下には二つの人影があった。いや、やっぱり人じゃないな。けれどさっきよりは『あれ』がなんであるのか理解しやすい。

 人体模型だ。自律して動いていることを除けば、何の変哲もない。


「水戸先輩、びっくりしたのか倒れちゃって、私もどうしたらいいか」

「うん、だいじょーぶ。水戸先輩をお願い」


 日和子が俺たちをかばうように一歩前に出た。千川さんが不安そうに日和子の背と俺の顔を見比べたので、俺は頷いてみせる。

 勝負は一瞬だった。

 駆けだした日和子は、こちらに気付いて振り返った人体模型の胸元に綺麗な跳び蹴りを決めた。人体模型が内臓をばらまきながらぶっ飛ぶ。先ほどと同様の黒い風が吹き抜けた。

 それでおしまい。廊下が静寂に包まれた。


「すっ……」


 俺の隣の千川さんが息を吸った。


「すっごーい!」


 千川さんは大きく手を振ると、スマホを日和子に向けた。この状態で写真撮れるのすごいな、ジャーナリスト精神とでもいうのか。

 手慣れたように日和子がポーズを決めた。顔に寄せたピースとおすまし顔。数秒それで静止した日和子は笑顔でこちらに駆け寄ってくる。

 とん、と数歩前で日和子が軽く踏み切った。


「え……」


 しなやかな脚が勢いよく振り回される。遠心力を受けた踵が狙うのは俺の隣のひとだ。

 制止をすることはできない。手を伸ばすのも声を出すのも間に合わない。

 だが、俺の想定するような事態は起こらなかった。千川さんの手が日和子の足を受け止めたためだった。

 日和子が舌打ちをして大きくバックステップで距離をとる。


「ナゼダ……」


 それは千川さんの声だったけど、歪んで掠れて彼女のものみたいに聞こえなかった。鼓膜を引っかかれるような不快さに俺は顔をしかめて彼女から離れた。壁に背をつけてじっと彼女を見る。呼吸も瞬きも、余計な動作は全て禁じられたように錯覚した。

 ゆらり、と千川さん(もどき)が身を揺らした。その足下から黒い影が迸る。彼女の皮膚にも日和子の脚にあるような紋章が浮かび上がった。だが、日和子のものよりもっとグチャグチャした、子供の落書きのようなものだ。

 彼女が身体を震わせると、豊かなポニーテールが蛇のように逆立ち、勢いよく伸びた。しなった先端に殴られそうになり、俺は反射的に身を伏せる。髪の鞭が狙うは、当然日和子だ。


「ちーちゃんの身体、返しな!」


 向かってくる攻撃にもひるむことはなく、むしろ日和子は進んで歩を進めた。床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、軽く身体を捻り、時に黒い波に乗るようにして距離を詰める。

 だが、あと数歩というところで毛先が日和子の右足首を捕まえた。


「離せ……っつの!」


 日和子が自由な左足で髪を断ち切った。着られた毛先は床に落ちずにそのまま空気に溶けて霧散していく。日和子は空中で華麗に身を捻って着地をした。

 髪を切られたことで警戒を強めたのか、本体の周りをゆらゆらと漂っている。日和子が距離を詰めようとするたび、迎撃するようにその足下に攻撃が打ち込まれる。ぐっと奥歯を噛んで、日和子は攻めあぐねているらしかった。

 どうにか隙を作れないだろうか。そう考えていると、ふと、俺の手元に何かが転がっているのに気付いた。そっと手を伸ばしてみる。

 プラスチックのように堅く、不気味に生赤い物体。少し考えてからはっと思い至る。さっき四散した人体模型の内臓だ。壁やら床をバウンドしてここまで転がってきたらしい。

 俺はぐっと作り物の内臓を握りしめた。


「日和子!」


 名を叫ぶと彼女がこちらを振り向いた。そこめがけて手の中のものを投げつける。へろへろのスローイングだったが、なんとか彼女の元まで届いた。あとは意図が伝わるかだが、そこに不安はなかった。

 にこりと日和子が微笑んだ気がした。それは定かではない。

 日和子が俺の放った内臓を蹴りつけた。弾丸のような綺麗な軌道を描いて千川さん胸元へ飛んでいく。だが、届かない。素早く反応した髪がたたき落としたためだ。

 それで良かった。次の瞬間には日和子はすぐそこまで迫っている。慌てたように振り下ろされた一撃を飛び込み躱した日和子は、手を床に着き蹴りを繰り出した。中途半端に構えられた腕もろとも、蹴り飛ばす。

 ボグ、と嫌な音がした。

 小さな身体はいともたやすく宙に浮き、数メートル離れたところでバウンドした。


「グ、ア、ア――」


 悲痛な叫びとともに黒い靄が千川さんの身体からあふれ出す。靄は逃げ場を探すようにしばしぐるぐると天井付近を漂っていたが、日和子が強く足を踏みならすと同時に霧散した。

 心なしか、空気が澄んだ気がした。


「終わった……のか?」

「その言い方やめて、嫌な予感がする」

「あぁ、悪い」


 俺は咳払いをした。これ以上何かを喋るとフラグめいたことを言いそうなので、しばらく黙る。日和子がゆっくりと千川さんの元へと歩み寄った。俺もそれに続く。

 千川さんは静かに目を閉じて気を失っているようだった。安らかな表情からは先ほどのような悪意は感じられない。そっと日和子が千川さんの胸元に手を当てた。


「……生きてる」


 小さな、安堵を込めたつぶやき。仮にも友人の身体を持つものを蹴り飛ばしてしまった罪悪感はあるのだろう。

 ……しかし、どうしたものかな。気絶者二名。どたばた騒いだし警備員が来るかもしれない。そうなったら終わりだ、停学ですむのだろうか。俺はともかく、俺を助けてくれた日和子が割を食うのは嫌だ。


「なあ、日和――」


 ぱち、ぱち、ぱち。

 突如響いた音はこの場に似つかわしくないものだった。軽い軽い、拍手の音。俺と日和子ははっとして振り返る。

 そこに立っていたのは一人の少女だった。

 年の頃は十歳ほどだろうか。緩くカールした金の長髪。ぱちりと大きな蒼い目。フリルがたくさんついているのにけして安っぽくない本物のロリータ服を着た姿は、まるでお人形さんのようだ。

 ぞっとした。こんな女の子が、こんな場所にいるはずがない。


「任務達成ご苦労様」


 幼く、かつ西洋風の見た目からは想像もつかないような流暢な語り口には違和感しかない。日和子が俺の袖を拙く掴んだ。俺もそこにそっと手を重ねる。先ほどのようにわかりやすい怪異ではないのに、どうしてこうもおぞましい。

 絵に描いたような綺麗な微笑みを浮かべていた少女は、俺たちの反応を見て表情はそのままに動きを止めた。何かを考え込んでいるとかそんな風には見えない、コンピューターがローディング中みたいな不自然な間。

 少女はしばらくそうしていたかと思うと、唐突に「ああ」と呟き頷いた。


「君は蘭日和子、だね。十六歳。この世界の日本という島国においては、高校二年生という立場におかれている」


 異国語を翻訳したようなそこはかとなく不自然な言い回し。文法に誤りはないけれども、そもそも前提としているものが違うようなズレを感じる。

 それより不気味なのは、日和子について知っていることだ。知り合いなのかと日和子を見たが、戸惑うように視線をさまよわせている様子からそうでないことを知る。だいたい日和子の知り合いにこんなおかしな子供がいたら俺も知っているはずだ。


「アンタ、誰」


 日和子が囁くように、しかし鋭く問いかけた。


「その質問に答える前に、君の隣にいる人間をどこかにやってもらえるかな」


 少女の瞳が俺を見た。センサーを思わせる無機質な瞳に、体内をスキャンされているかのように錯覚する。

 袖を掴む日和子の手に力が入るのがわかった。


「なんで」

「彼を巻き込むことになるね」


 はっとしたように日和子が黙った。不安そうに俺を見た日和子がゆっくりと指を離す。俺はその手を強く握った。


「もう巻き込まれてる」


 驚いて目を丸くする日和子と、表情の一つも変えない少女を順番に見た。


「それに日和子の荷物は、俺が持つのがいつもだろ、なあ」


 日和子がこくんと頷いた。珍しい殊勝さに俺は小さく笑う。少女はぱちんと一度だけゆっくりと瞬きをして、それから「そう」と無機質に呟いた。


「まあ良いよ、君一人くらい。大きな影響はないね」


 少女がスカートの端をつまみ優雅にお辞儀する。


「私の名は██」


 彼女が何と言ったのか聞き取れなかった。音程の異なる複数のノイズが混ざり合ったような不快な音しか聞こえなかった。少女がゆるりと首を振って名乗り直す。


「君たちに理解可能な音で言うと、さくら。異世界人だ」

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