第7話

 はじめ、俺たちの誰もそれが何であるのか、そもそも生き物であるのかどうかさえ判別できなかった。ただ、嫌な臭いがする。内臓を握りつぶされるような、ぞっとしない感覚が俺たちを襲う。

 ゆっくりと、影が振り向いた。赤い眼光がこちらを見る。襤褸切れみたいなものを纏った姿。人か? 人じゃない、背を丸めてなお天井にその身が届きそうな人間がいるか。

 にたりと、影が笑ったのが直感でわかった。

 ひ、と息を飲んだのは誰だったろう。日和子か、千川さんか、あるいは俺だったのか。次の瞬間、二人を引っ張って廊下側に一歩下がったのは、俺の本能の為した技だった。勢いよく美術室のドアを閉める。


「な、なにいまの」


 日和子が震える声で呟いた。


「わ、わかんない。見間違い、かな?」


 千川さんが無理矢理に軽い声を出すと同時、美術室のドアが内側から強く叩かれた。俺は反射的にドアを押さえる。日和子が泣きながら悲鳴を上げた。


「や、やだやだやだっ、意味わかんない、なんなの!?」

「俺もわかんねぇ! と、とりあえず、二人は逃げてくれ」


 俺の口をついて出たのは、自分でも笑っちゃうくらいにカッコつけた言葉だった。日和子が俺の腕に縋る。


「はあ!? よーくんは!?」

「俺も二人が距離をとれたら逃げるから、お前らは先に行って、水戸先輩、いや警察、とにかく、人を」

「でも!」


 日和子がぐしゃぐしゃの顔で俺を見ている。その顔を見ていると腕にも力が入った。

 先に動いたのは千川さんだ。日和子の手を取って走り出す。うん、それでいい。いや、よくないんだけどさ。あんなカッコいいこと言っておいて俺の脚はがくがく震えている。逃げたい、怖い、死にたくない。

 でも、俺が逃げたら。

 心臓の音が馬鹿みたいにうるさい。開き戸だったらもっと簡単に押さえられたのに。引き戸を押さえる難しさよ。汗で指先が滑る。再度支え直そうとしたところで、一瞬の隙を突かれた。

 勢いよく扉が開かれる。手を弾かれた俺はバランスを崩した。しまった、と思う間もなく腹に衝撃が走った。


「ガッ……」


 吹っ飛んだ俺はそのまま壁に背中をぶつけた。んだと思う。肺の空気が一気になくなって、目の前が真っ白になったかと思うと、気付いたときには俺はリノリウムの床に倒れていた。

 俺は必死にもがいて逃げようとした。だが、手足に力が入らない。かろうじて動いた首だけで周囲を見回すと、すぐにヤツの姿が視界に入った。

 ゆらり、ゆらりと焦らすように一歩一歩近づいてくる。人の形をしているのに人でないことが明らかにわかる毛むくじゃらの異形。その手に握られているのは――ノコギリだ。月明かりを受け刃が妖しく煌めいている。ああ、まごう事なき殺人鬼だ。七不思議の化身。

 不思議と思考はクリアだった。恐怖心はあるが、脳がそれを拒否しているような。こんな非現実的な出来事、受け入れられるもんか。全部夢の方が自然だが、ずきずき痛む身体は本物だ。

 俺、ここで死ぬのか。

 ヤツがノコギリを振りかぶる。せめて痛くありませんように、それだけを祈って俺はぎゅっと目を瞑る。

 だが、いくら待っても斬撃は来なかった。


「よーくん!」


 世界で一番聞き覚えのある声に、俺はゆっくりと目を開けた。うまく焦点を結ばない視界の真ん中、俺をかばうようにして女の子が立っている。

 青い光に満たされた廊下で、堂々と、立っている。

 天使みたいだと思った。


「ひよ、こ……」

「助けに来たよ」


 掠れた声で呼びかけると、力強い言葉が返ってきた。危ないぞ、逃げろって言っただろ、恐がりのくせに……たくさんの言葉が浮かぶのに、それと裏腹に俺はどっと安心してしまう。

 少しずつ安定してきた呼吸は、視界をクリアにした。そこで俺は日和子がただ立っているのではなく、蹴り上げた足裏でヤツのノコギリを受け止めているのだということに気付く。言うなれば鍔迫り合い。だが、たかが靴と刃物が拮抗するなんて有り得ない。

 そこで俺は更に、日和子のしなやかな生脚に先ほどまでなかった黒い入れ墨のようなものが浮かんでいることに気付いた。薔薇と蔦のような精緻な模様。呆然としているうちに日和子が刃を蹴り弾く。ガラ空きになったヤツの胴体に、日和子が蹴りをたたき込んだ。細い脚のどこにそんな力があるのか、巨体は吹っ飛び廊下を滑った。


「よーくん、怪我はない?」

「あ、ああ……」


 日和子が俺に駆け寄り身体を起こした。全身が痛むが、幸い大きな怪我はしていないようだ。


「それよりお前、何事だよ……」


 混乱のままに曖昧な質問をすると、日和子が首を振った。


「わかんない。あたし美少女戦士に選ばれたのかも」

「はぁ?」


 こんなシーンに似つかわしくないふざけた言葉に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げる。だが日和子は冗談を言っているわけではないらしく、俺の手を握りしめながら真剣に言葉を紡いだ。


「ちーちゃんと逃げてる最中に声が聞こえたの。あの化け物を倒したくないか、君の身体を貸してくれって。あたしよーくんのこと心配だったから、倒したい助けに行きたいって素直に思ったの。そしたら急に力がわいてきて……根拠はないけど、絶対戦えるってそう思った」


 荒唐無稽な話だ。

 でも信じた。

 だって日和子がそう言うんだから。ここですべきは彼女を疑うことではない。言うべきはもっと単純な一言だろう。


「ありがとう、日和子」

「うん、一生感謝してね」


 日和子が胸を張って、俺はいつもみたいに苦笑した。それでこそだ。最後に一度俺の髪をぐしゃりとかき回して、日和子は廊下の奥に目をやった。彼女の照らした闇の中、ゆらりとヤツが起き上がる。

 日和子が俺に懐中電灯を投げ渡した。慌てて受け取ると、日和子がにやりと笑って俺を見下ろした。


「照明係、頼んだよ」

「うい」


 俺はいっそ誇らしい気持ちで廊下の向こうまで明かりを向けた。光の中、日和子が軽やかに駆け出す。

 ヤツは大きくノコギリを振りかぶると、横薙ぎに斬りつけた。刃が身体に届く直前、日和子が地面を蹴って宙に跳んだ。音もなく刃の上に着地する。

 それを嫌ってか、ヤツが暴れるようにノコギリを振った。その勢いを利用するように、彼女はもう一度跳ぶ。


「天井ひっくい!」


 苛立たしげに叫んだ日和子は身を丸くして天井付近で一回転、そのままヤツの頭を越えて背後をとる。

 ヤツは振り返るよりも早く、前につんのめって吹っ飛んだ。手からノコギリが滑り落ちて耳障りな音を立てる。

 その時既に日和子の姿は既に床の上にはなかった。視線を横にずらすと、壁を蹴っている。――三角跳び! ふわりと舞った日和子の爪先は地面に倒れたヤツの方に向いている。

 一瞬、空気も音も全てが静止した。

 その次の瞬間、旋風が巻き起こる。風は日和子の爪先がめり込んだヤツの身体から巻き起こっていた。黒い風だ。靄のようなものが渦を巻いている。その中央に立つ日和子は冷めた目でヤツを見下ろしている。

 やがて靄が晴れ、その時にはヤツの身体も消えていた。

 ほっと肩をなで下ろした日和子が、こちらにVサインを向けた。にっと歯を見せた笑み。俺も親指を立てて返す。


「らくしょー」

「かっこよかったぞ」

「あたりまえ」


 ふふん、と日和子は得意げに鼻を鳴らした。

 俺は少しよろめきながらも立ち上がる。現状訳のわからないことだらけではあるが、とりあえず逃げないと。自然と、日和子と手を取り合っていた。さっきとてつもない力を見せていた脚も、歩調を俺に合わせてくれている。

 階段を降り、二階を通り過ぎたところで一階の方から高い悲鳴が聞こえた。二人で顔を見合わせる。


「――ちーちゃん!」

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